三軍暴骨……関東進出戦⑩
◇◇
永禄四年(一五六一年)六月一日――
上田城を出た真田幸隆は岩櫃城のすぐ前で馬を止めた。
彼のお供はわずかに五人。
うち一人が息子であり、これが初陣の武藤喜兵衛なのだから、喜兵衛が顔を青くしたのも無理はない。
「父上! これはどういう事ですか!? 残りの兵たちはいかがしたのです!?」
喜兵衛の焦った声に、耳の穴をほじりながら幸隆は答えた。
「お主はいちいちうるさいのう。兵たちなら今頃は上田の警備にいそしんでいる事だろうよ」
「そんな事で堅牢な岩櫃城をいかに攻めるのでしょう!? 五人ですよ! 五人!」
「五人もいれば十分であろうに」
幸隆の言葉に、大きく目を見開いた喜兵衛は、そのまま言葉を失ってしまった。
――わずか五人で城を落とす……そんな馬鹿な……
現在、岩櫃城には当主の斎藤憲広と手勢二〇〇〇はいない。
しかしそれでも重臣、池田佐渡守をはじめとして、およそ一五〇〇の兵が固く守っているのだ。
しかし幸隆の飄々とした態度は、上田城で昼寝をしていた頃と何ら変わらない。
彼は一人の若者を近くに呼び寄せると、耳元で何やらささやいた。
「御意。出浦昌相、必ずや大任を果たして見せましょう」
彼は喜兵衛より一つ年上の一五歳の少年。しかし幼い頃から甲州忍者の一派である『透破』として、目を見張る実力を有していたのだ。
そして彼の才を認めた幸隆は、信玄に願い出て、彼を子飼いの忍びとして手元に置いていたのである。
昌相は頭を下げると、次の瞬間には影に紛れて姿を消していった。
それを確認した幸隆は、なんと敷いた陣の中で再び昼寝を始めたのである。
「父上……一体何をお考えなのですか?」
「まあ、見ておれ。本来、戦というものは始まる前から勝敗が決しているものよ」
そして幸隆の言葉は現実となった――
それは昌相が去って、わずか四半刻(約三〇分)の事だった。
――ドゴォォォン!!
というけたたましい音が響いたかと思うと、なんと大手門が独りでに開けられたのである。
空いた口が塞がらない喜兵衛をよそに、幸隆はニヤリと笑みを浮かべながら馬にまたがった。
「さあ、昼寝をする場所を変えるとしようかのう。はははっ!」
そう大笑いしながら、悠然と門の方へ馬を進めていったのだ。
喜兵衛も慌てて馬上の人となると、父の背中に向かって問いかけた。
「父上! 一体何をしたというのです!?」
「池田佐渡。物事の『利』が分かる者との話は早くて良いのう! ははは!」
「まさか……城に着く前から池田殿との内応の約束をしていた、というのですか……?」
「はははっ! あやつ一人ではない! 城の中におる家老たちのほとんどと話はついておる」
「なんと……」
茫然とする喜兵衛。
彼に対して、幸隆は馬を並べると、まるで説法する僧のように説いた。
「よいか、喜兵衛。これで城は落とした。しかしそれだけではないぞ」
「どういう事にございましょう……」
「城にいる一五〇〇の兵たちもそっくりそのまま真田のものとなったという事だ」
喜兵衛ははっとして父の顔を見つめる。
何を考えているかよく分からない、いつも眠たそうな目。
喜兵衛は、その瞳の奥に、『比興者』の灯を確かに見たのであった。
「城は取って、取られてを繰り返すのは世の常。ならば貰える物は城を奪われるその前に頂く。これが城取りの極意と心得よ」
「か、かしこまりました」
軽く馬の腹を蹴り、先を急がせる幸隆。
彼は背中の喜兵衛に向かって、最後に高らかと告げたのだった。
「さあ、次は沼田だ! ぼけっとしている暇などないぞ! しっかり付いて参れ!」
「はいっ!」
喜兵衛は少年らしく元気な声で返事をすると、眩しい父の背中を追いかけていったのだった――
◇◇
永禄四年(一五六一年)六月二日――
岩櫃城の陥落は、河越城を攻略中の上杉連合軍にも届けられた。
前線では激戦が繰り広げられているが、戦況は思わしくない。
そんな中での悲報に、連合軍全体が動揺したのは言うまでもない。
特に岩櫃城を本拠地とする斎藤憲広は、真っ青な顔で謙信のいる本陣へと駆け込んでいったのだった。
「どういう事だ!? 岩櫃が攻められれば沼田に残した上杉の軍勢が援けに駆けつけるのではなかったのか!?」
憲広の怒声が本陣の空気を揺らす。
もちろん憲広が言ったような約束など結んでいない。
しかし憲広は、それを当てにしてここまで遠征して来ており、岩櫃に何かあれば援軍を、という考えは暗黙の約定に等しいもの。
つまり逆上した彼が謙信に詰め寄るのは仕方のない事だった。
そして腕を組んで目を瞑ったままの謙信の隣にいた宇佐美定龍が口を開いた。
「斎藤殿。今はここで騒ぎを起こしている場合ではございません。岩櫃を落とした真田の軍勢は、斎藤殿の所領をことごとく攻め落とし始めていると聞いております。ここは、早く領地に戻って……」
「そんな事など若造に言われなくとも分かっておる!! ええい!! この借りはいつか必ず返して貰うからな!! 覚えておけ!!」
理不尽な捨て台詞を吐いて、憲広は場を去っていった。
胃が痛くなるような余韻が残されたが、定龍はすぐに頭を切り替えて謙信に告げたのだった。
「御屋形様。真田は大軍を動かせる実力はございません。ついては憲広様の手勢が戻れば、城を取り返す事は難しくないと思われます」
「うむ……」
「今は一刻も早く河越城を攻め落とす事だけに集中くださいませ」
「うむ……」
謙信の言葉は最後まで濁ったままだった。
これまで破竹の勢いで突き抜けてきた連合軍に、曇りがかかった。
そしてこれまでの勢いが完全に死んでしまっている上杉軍はじりじりと兵を減らしていく。
既に一〇〇人が守る北条綱成の軍勢によって、戦闘不能に陥ってしまっている。
定龍も懸命に打開策を考えるが、いずれも効果的とは言えないものだった。
――もはや策だけではどうにもならない……せめて周囲を固めている諸将が攻撃に加わってくれたなら……
しかし彼の願望は、むしろ逆の方向へと動き始めていたのだ。
――もし居城で何かあっても上杉謙信は援軍を出す気はないとの事だ!
――結局は上杉の領土を拡げたいだけで、援軍の大名たちは皆上手く利用されているだけだ!
そんな噂がまことしやかに諸将の陣に流れ始めたのだ。
無論、それを流したのは北条の手の者、すなわち風魔小太郎をはじめとする忍びたちによるものであった。
反間の計――
まるで真田と北条が計ったかのような絶妙な時機に、岩櫃城陥落と噂の流布が重なったのだ。
諸将の心が大いに揺れたのは言うまでもないだろう。
しかし北条氏康の策は、まだ始まったばかりだった。
それは、六月四日の事だった。
――下総の千葉軍、古河公方の足利軍の連合軍が二手に分かれて忍城と岩付城へ進軍中!
――陸奥の二本松軍、宇都宮城に向けて進軍中!
――下総の結城軍、唐沢山城に向けて進軍中!
なんと三つの報せがほぼ同時に上杉連合軍に届けられたのだ。
すると即座に太田資正、成田長泰、宇都宮広綱の三名は謙信に断りなく、軍勢をまとめて居城へと戻って行ってしまった。
そして……
「すまぬ……上杉殿、そして定龍。唐沢山だけは失う訳にはいかないのだ……」
謙信の陣に出向いてきた佐野昌綱は、謙信と定龍の二人に深く頭を下げた。
無論、彼もまた居城に戻り、敵を迎え撃つ為の許可を得に来たのだ。
「頭を上げよ、昌綱。かくなる上は、仕方あるまい。必ずや敵を追い返して参れ」
「上杉殿にそうおっしゃって頂けると、少しは心が軽くなるものだ。戦の最中に離れるのは心苦しいが、敵を追い払ったあかつきには必ず戻ってまいる」
「ふむ。しかしその前に決着をつけるゆえ、何も考えず、ただ城を固く守るとよい」
定龍は謙信の最後の言葉に、ぴくりと眉を動かした。
――なんという強がりを……
そう心の中で嘆かざるを得なかったからである。
しかし表向きでは定龍も、昌綱を心配させまいと必死に笑顔を繕って彼を見送った。
――ああ……言葉に出すか、出さぬかという違いだけで、他人の前で強がっているのは私も同じであったか……
定龍は悲しい人間の性に、苦笑を浮かべたのだった。
そして佐野軍が戦場を去っていった事を確認した後、定龍は間髪入れずに進言した。
「御屋形様。これでもう誰の目を気にする必要はございません。かくなる上は一度兵を引いて、立て直しましょう」
しかし謙信は即座に首を横に振った。
「諸将は一度居城へ戻ったが、我らが関東を平定させる事を願っている。彼らの期待に応えずして、関東将軍となぜ名乗る事が出来ようか」
「お待ちくだされ! しかし戦況は思わしくございません! やはりここは関東管領の威光を持つ憲政様に……」
「くどいぞ、定龍」
謙信は定龍に最後まで言わせなかった。
それは『軍神』と謳われた彼の意地だったのかもしれない。
しかし、明らかな負け戦であった。
定龍は素直にその事実を受け入れると共に、あらためて北条氏康の『戦』に畏怖した。
――戦場を広く使う、ということですか……敵ながら天晴れです
ただ今は敵に感心している場合ではない。
定龍はどうにかして謙信を説き伏せ、全軍を松山城へ引き返させる方策を練り始めようとしたのだった。
ところが、今度は謙信の方が間髪入れず動いた。
「我らも動くぞ、定龍」
「ま、まさか……それはなりませぬ!」
なんと上杉謙信が自ら本陣を引き払って攻城に加わると言い出したのだ。
――まずい! 北条氏康は御屋形様が動く時を、牙を研いで待っているはず!
彼の頭にあったのは、氏康は『声東撃西』の策を弄したに違いないという確信だった。
それは敵を陽動して散々翻弄したところを叩きつぶすという策だ。
今の上杉軍はまさに敵の陽動にはまり、苦しみもがいている状況だった。
「もし今動けば、罠の針はさらに深く我が軍に突き刺さり、致命的となりましょう! なりませぬ! 御屋形様! ここは撤退の英断を!」
「ええい、黙れ!! 若造の分際で、われに戦を説くか!!」
「若造だからこそ、戦の経験がないからこそ、戦況を外から見る事が出来ているのです!」
「うるさいっ! そんなに逃げたくば、お主一人で逃げるがよい!!」
激怒した謙信は本陣を出ると、兵たちに雷鳴のような号令を出した。
「懸かり乱れの龍旗を掲げよ! 全軍、突撃!!」
――オオオオッ!!
待ってましたとばかりに上杉謙信の率いる軍勢は、苦戦を強いられている前線の柿崎景家や甘粕景持の軍勢の元へと駆けていった。
そして彼らに負けじと、上杉謙信も自ら槍を片手に馬に乗ったまま突っ込んでいったのである。
本陣に取り残されたのは、宇佐美定龍の手勢一○○のみ。
「やいっ! 辰丸!! 御屋形様が行っちまったじゃねえか! こんな所でぼさっとしてないで、おいらたちも早く行こうぜ!」
定龍の与力である小島弥太郎が、頬をぷくりと膨らませて定龍を焚きつける。
しかし定龍は動く事が出来なかった。
――私は……私はどうしたら……
もしこのまま謙信の背中を追っていけば、それは飛んで火に入る虫も同じ事。
待ち受けているのは、『全滅』に他ならない、そんな予感がしていた。
もちろん今の時点で、北条氏康の軍勢が姿を現した訳ではない。
しかし総大将の上杉謙信が自ら河越城へ向かって突撃していった事は、北条の放った忍びたちによって、氏康にもたらされるのも時間の問題だ。
そして彼は即座に大軍を動かしてくるだろう。
――もしそうなれば、前からは北条綱成、背後からは北条氏康……挟撃されてしまう!
しかしもう策はない……
何も出来ないのだ……
彼が諦めかけたその時だった――
――おい、しけた面してんじゃねえよ
彼の頬を強く張るような声が頭の中に響いてきたのである。
「定勝様……」
それは懐かしくて、暖かい声。
そしてもう一つ、彼の頭に定勝の言葉が響き渡った。
――全て包み隠すことが、武士の器と勘違いするでない
と……
「包み隠さない……」
そう呟いた彼の頭の中に、ほのかに輝き始めたのは……
一つの策であった――
ふつふつと湧きあがる熱が、失った体温を上昇させる。
血色のない顔は紅潮し、目には輝きが戻ってきた。
そして定龍は決意を込めた言葉を口にしたのだった。
「もうこれしかありません!」
ひらりと馬にまたがった彼は、目的の方角へ馬の首を向ける。
すると弥太郎が慌てて声をかけた。
「やいっ! どこへ行こうってんだよ!?」
弥太郎が定龍と馬を並べると、定龍は真剣な顔つきで告げたのだった。
「これより撤退の準備にかかります!」
「て、撤退だってぇぇ!? 今しがた御屋形様が突撃の号令を出したばかりじゃねえか!?」
しかし定龍は驚愕する弥太郎の問いには答えなかった。
そして彼はとある武将の元へと一直線に馬を走らせたのであった――
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