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英雄欺人の策③

 急に現れた少年を追って寺の本堂へと入っていった武田兵たち。

 先頭を行く彼らの大将は脇目も振らずに一気に部屋の中央まで足を踏み入れた。

 

 

 しかし何かがおかしい……。

 

 そう思った瞬間から強烈な腐敗臭が鼻の奥を襲った。

 

 

「なんなのだ……? ここは……」



 思わず言葉が漏れる。

 

 部屋の中は明かりはなく黒一色の世界が広がっている。

 ようやく目が慣れてきたところで周囲を見渡したその瞬間……。

 

 

 彼の意気は完全にくじかれた――

 

 

 なんと至るところに亡骸が転がっていたのである。

 

 しかも床と壁には黒い血の染みが至るところに広がっている。

 

 

「おえっ!! 」



 思わず兵たちの大将は吐き気をもよおしてその場でうずくまった。

 それは彼だけではなく兵たちも同様のようだ。

 彼らもまた後ずさりながら恐怖に顔をひきつらせている。

 

 

――絶対に何かある……

 

 

 心の芯から冷たいものを感じると大将は思わず後ろを振り返った。

 

 しかし勢い良く部屋へと入ってくる兵たちが邪魔をして、扉の方へ近づくことすら出来ない。

 

 

 さらにその全員が広い部屋の中へと収まったその時……。

 

 

――バタンッ……。



 と、本堂の扉がひとりでに閉まったのだ。

 

 

 その瞬間から外の明かりが遮断され、完全に暗闇に閉ざされる。

 

 

――うあああ! と、扉を開けろ!


――開かなねえ! 何かがつっかえていて開かねえよ!



 真っ暗闇の中、完全に混乱に陥り広い部屋の中で右往左往する兵たち。

 

 

「これは罠だ!! 慌てるんじゃねえ!! 退くことが出来ねえなら進むまでよ!! 行くぞ! 」



 大将は、まるで自らを鼓舞するように叫ぶと、勇気を振り絞って部屋の奥へと進んでいく。

 

 

 しかし、その時だった……。

 

 

――ドサリッ……。



 と、大将の背中のあたりに天井から何か落ちてきたのである。

 

 

 恐る恐る背後を振りかえる大将……。

 

 

 そして落ちてきたモノが目に入る。

 


 それは顔をつぶされた男の亡骸。その背中には『花菱』の旗があった――

 

 

 

「ぎゃああああああ!! 」




 大将は泣き叫びながらその場から駆け出す。

 

 もはや彼は自分が部屋のどこにいるか、そしてどこへと向かっているのか、全く見当もつかなかった。

 

 しかし、彼を襲った恐怖はそれだけにとどまらなかった。

 

 

――ドサッ…… ドサッ…… ドサッ……



 と、次から次へと胴丸をした亡骸……つまり雑兵の亡骸が天井から落ちてくるではないか。

 

 そしてその全てが『花菱』の旗を背負っている。

 

 つまり武田軍の兵たちであった。

 

 

――ギャアアアア!!


――ひぃぃぃぃぃ!! 早く出せぇぇ!! 早く出してくれぇぇ!!



 暗闇の中にあって、もはやどちらが出口なのかすら分からない。

 

 

 するとその時……。

 

 

――け、け、煙だぁぁぁぁ!!



 なんと部屋にいつの間にか煙が充満し始めてきたのである。

 

 ただでさえ暗闇で目が効かないところで、さらに視界を曇らせる煙。

 

 

 こうして混乱は頂点に達した。

 

 

 その時であった――

 

 

 

――ぎゃああああああ!!




 と、一人の男の断末魔の叫び声が、部屋の空気を震わせたのだ。

 

 

 さらに続けて声が響きわたった。

 

 

――何かいる!! 部屋の中に何かいるぞ!! うわぁぁ!! こっちへ来るな! 来るなぁぁぁぁ!!



 引き続きもう一人の若い男の絶叫が兵たちを恐怖の奈落へと誘う。

 

 

 血にまみれ、死臭の漂う部屋。

 そして落ちてくる亡骸。

 視界を塞ぐ仕掛け。

 さらに二人の仲間の断末魔の叫び声……。

 

 

 これら全てを重ねれば、全くの部外者であっても、「この部屋には何かいる」と考えるのが自然であろう。

 ましてや今この部屋にいる兵たちにとっては、それが自分の身に降りかかっているのである。

 

 もはや彼らに考える余地など微塵も残されていなかった。

 

 

 恐ろしい何かに襲われている……。

 

 

 

 そしてそのように感じた瞬間から人が取る行動はただ一つ――

 

 

――ドスッ……。



 それは一つの鈍い音から始まった――

 

 

 

――かはっ……




 短い声とともに、ドサリと人が倒れる音が響く。

 

 

 倒れたのは兵の一人。

 彼の背後にいた男は無表情だった。

 

 そしてつぶやくようにして言ったのであった。

 

 

「俺の側に寄るな……」



 彼の手には血に濡れた短刀。

 

 

 こうして始まったのである。

 

 

 ただ自分だけが生き残る為だけの凄惨な同士討ちが――

 

 


 

………

……

 同日 戌刻(午後八時頃)――

 

 

 寺の本堂から一人の男が這いずるようにして出てきた。

 彼に続く者は誰一人としていない。

 つまり彼だけが本堂を抜け出せたのだ。

 

 その全身には返り血を浴び、彼自身も深手を負っている。

 しかし何よりも恐怖に引きつった顔に、焦点の合わぬその目から滂沱として流れ落ちる涙は、本堂の中での壮絶な体験を如実に表していた。

 

 

 まさしく転げ落ちるように寺の外へと出ていく男。

 

 

 彼は村を襲った武田軍の兵のうちの一人で、殺戮の快楽におぼれ、欲望に堕ちた人の皮をかぶった鬼と言えよう。

 しかし鬼とは思えぬほどに、無様な姿であった。

 

 

 そんな彼の背中を見つめる三人の男の姿が、寺の門の前にあった。

 無論、それは辰丸、定勝、そして弥太郎の三人だ。

 

 

「けっ! いいのかよ!? 見逃して。あいつも村人の仇の一人なんだろ!? 」



 弥太郎が口を尖らせると、三人の真ん中に立っている辰丸は静かに微笑んだ。

 

 

「ええ、むしろ生き残ってくれたことに感謝しなくてはなりません」



「ほう…… それはどういうことだ? 」



 今度は定勝が問いかけた。

 辰丸は顔を兵の背中からそらさずに淡々と答えた。

 

 

「この寺の中には世にも恐ろしい何かが棲みついている……その事を武田軍の他の兵たちに広めることでしょう。

顔面蒼白で血まみれの男がそう言えば、信じぬ者などいないはず」



「そうすれば、命の危険をおかしてまでこの寺に近づく者は現れない。つまり当面の間、この寺の安全は確保できる…… そういうことか? 」



「ええ」




 それはまさしく辰丸が宣言した通りだった。

 

 

 

――ただ撃退するだけではない。完膚無きまで叩きのめし、『心』を粉砕する……




 まさかただの一人の犠牲を出すこともなく、本当にやり遂げてしまうとは、誰が想像できようか。

 

 ただし彼は決して怪しい呪術を用いた訳ではなく、行ったことは実に単純なことだった。

 

 こうなると予想し、長尾軍によって倒された武田兵とその旗を、予めこの寺にせっせと運び込んでいたのである。

 そしてその血を寺の本堂の床や壁、それに敷地の木々になすりつけておいたのだ。

 

 なお、定勝と弥太郎が彼と出会った時に血まみれだったのは、この作業によるものだった。

 

 そして目に沁みる煙を出す松の木を集めておき、保管してあった藁を無造作にばらまいておく。

 

 それだけで準備は完了だった。

 

 

 武田兵たちが寺の中へと侵入してきたと同時に、敷地の中に潜んでいた人々が煙をたき、恐怖心を煽った。

 そして本堂前に辰丸は現れて、その中へと武田兵をいざなったのだ。

 

 全員が本堂の中へ入った所で扉を固く閉め、内側からでは開かないようにする。

 さらに辰丸の合図のもと、天井裏に潜んでいた人々が、武田兵の亡骸を次々と落としていった。

 

 混乱が極まったところで再び松の木に火を焚き、その煙を本堂の中に充満させた。

 そして、視界が完全に曇ったところで、こっそりと部屋の中へ侵入した定勝が断末魔の叫び声を上げ、その直後に同じく部屋へと入った辰丸が「何かいる!」と大声を張り上げて、同士討ちを誘発したのである。

 

 同士討ちが始まった頃には、定勝と辰丸は部屋から出ており、部屋の中が完全に静まったところで、本堂の扉を開けたのであった。

 

 

 まだ本堂の中は見ていない。

 しかしそこには武田兵たちの見るも無残な亡骸が死屍累々と床を埋め尽くしているに違いない。

 

 

 

 まさに完璧な策だった。

 これほどまでに鮮やかに決まれば、他人とも言える立場の定勝ですら、喜びと興奮に胸が苦しいほどに高鳴っている。

 

 

 しかしさも当然の結果と言わんばかりに、今までと全く変わらぬ表情の辰丸。

 それはまるで今宵の月夜のように静かで研ぎ澄まされたものだ。

 

 

 定勝は思わず問いかけた。

 

 

「辰丸…… お主、嬉しくないのか? 村人たちの仇が取れたのだぞ」



 その問いかけに辰丸は静かに定勝の方へと顔を向けた。

 

 

 定勝は、その顔を見た瞬間に固まってしまった――

 

 

 なんと辰丸は大粒の涙を流していたのである。

 

 

 

「お主……」




 定勝も弥太郎もかける言葉が見当たらない。

 

 

 すると辰丸はゆっくりと口を開いたのだった。

 

 

 

「世の中し常かくのみとかつ知れど 痛き心は忍びかねつも……」




 それは万葉集の一首。

 

 人にとって『死』とは避ける事の出来ない、言わば世の常のこと。

 それは分かっているつもりだ。

 しかし今こうして自分の身近な人に降りかかれば、心の痛みはなんと忍び難いものなのか……

 

 大伴宿禰家持おほとものすくねやかもちが、彼の妻が亡くなった時に歌ったものとされている一首だ。

 

 

 辰丸にとっては、家族同然の村の人々が命を落としたことに、今でも耐えがたい痛みを感じているに違いない。

 

 なぜなら彼はまだ十三の少年なのだ。

 

 それでも彼は残された者たちを守る為に、一時だけ『哀しみ』を捨てた。

 そして持てる知恵を全て使い、彼は使命を果たしたのである。

 

 

 そうして彼の元へと戻ってきた『哀しみ』。

 

 

 今はその感情だけに心を傾けていたいのだろう。

 

 

 鎮魂の祈りを捧げていたいのだろう。

 

 

 在りし日の思い出にひたっていたいのだろう……

 

 

 定勝は弥太郎の肩にそっと手を乗せると、一足先に寺の中へと戻っていった。

 

 

 今日は月が綺麗に輝いている。

 

 

 きっとこの月の光が、少年の痛んだ心を癒してくれるに違いない。

 

 

 定勝はそう願ってやまないのだった――

 

 

 





次回からいよいよ辰丸が景虎の側に仕えることになります。


そして……


第三次川中島の戦いは佳境を迎えるのです。


明日はその模様をお送りします。


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