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三軍暴骨……関東進出戦⑨

 永禄四年(一五六一年)五月二九日――

 

 前日に松山城を攻略した上杉謙信を総大将とする連合軍は、次なる目標である河越城へと進軍を再開した。

 『兵は神速を尊ぶ』と故事では説くが、上杉軍が春日山を出立してからわずか半月にも満たぬうちに、上野国から武蔵国の半ばまで進出してきたのだから、いかに上杉謙信という男が傑出した戦上手であるかがうかがい知れよう。

 そして傍から見ればその勢いは『龍が大空を翔るごとし』と舌を巻くに違いない。

 しかし、良く物事を見る目のある者にしてみれば、それは危うい橋を一気に渡ってしまおうという無謀な勇気にしか見えない。

 少なくとも、謙信の隣で軍勢の指揮を取る宇佐美定龍はそう感じていた。

 なぜなら『兵站』と呼ばれる、いわゆる物資、食料、そして兵を前線へ届ける為の設備や道筋の整備が、あまりにも粗末過ぎると感じていたのだ。

 三国峠から上野を縦断し、武蔵に至るまでに細く伸びた一本道の兵站は、横からの圧力に弱すぎる。

 無論、兵站の西には斎藤氏の岩櫃城や今回の作戦には参加していない長野氏の箕輪城などが、そして東には下野の唐沢山城に宇都宮城、武蔵の岩付城、忍城が、言わば『防衛線』として備えており、これらの城が存在している限りにおいては、兵站がおびやかされる事はないだろう。

 そのように上杉謙信は見通していた。

 

 しかしこの見通しにおける一つの穴が存在する事を忘れてはならない。

 

 それは……

 

 武蔵国の西からの防衛線が存在しない事だ。

 

挿絵(By みてみん)

 

 その事を正しく見抜いていた定龍は、

――腰越城の攻略を致しましょう!

 と、松山城攻略後に懸命に進言した。腰越城とは武蔵国の西に位置する、北条方の城だ。そこを攻略し、西の防衛線を引き伸ばす事を彼は画策したのである。

 しかしその意見も、先の進言と同様に一蹴された。

 

――残るは河越と江戸の二城のみ! これらを攻略した後に、西の防御を固めるとする!


 謙信は高らかとそう宣言し、今回援軍として参加している多くの諸将に支持された。

 それもそのはずだろう。彼らの多くは武蔵国の東側に拠点を構えており、今回の作戦で北条家の本拠地である相模小田原城からの脅威をなくす事が最大の目的なのだから。

 わざわざ貴重な戦力を割いて戦線維持を目論むよりは、とっとと作戦を完遂させる事に傾けたいというのが本音だ。それを謙信は汲み取った訳である。

 

 どこまでも周囲との折り合いを重視する謙信の意向。

 それは領内での派閥争いに辟易した苦い経験が知らず知らずうちに彼にそうさせてしまっているのだろう。戦場では『軍神』と畏れられている彼であったが、外交面においては、内面にある脆さが表に出てしまった形となった。

 

 もちろん常人であれば、『軍神』の率いる大軍が怒涛のように快進撃を続けているとしか見えぬ事だろう。実際に連合軍の諸将は皆、そのように感じていた。

 

 しかし……

 

 世の中にはどの時代にも『慧眼の士』と称された人物はいるものだ。

 彼らにしてみれば連合軍が作った穴の大きさは、彼らの進軍が進撃を続ける程に大きくなっていく。

 

 そして、ここに一人の稀代の名将によってもう一つ穴が開けられようとしていた。

 それは真田幸隆であった――

 

「そろそろ出ようかのう、喜兵衛」

 

 そう寝転がりながら背中にいる息子に声をかけた彼は、次の瞬間には上田城の廊下へ飛び出していた。

 ふいを突かれた息子の武藤喜兵衛は、慌てて父の背中を追いかける。


「お、お待ちくだされ! 父上!」

「かかか! お主は、早く出陣したいと常々口にしていた割には、いざとなると動きがとろいのう!」

「な、何を申しますか!」


 いつの間にか早足から駆け足に代わる親子二人。

 その間に、幸隆は城内に響き渡る大声を上げていた。

 

「みなのもの! 儂の出陣じゃ!! 馬じゃ! 馬を用意いたせ!」


 そんな父の様子に喜兵衛の目は丸くなる。

 

「父上! かように急な命令では、皆が大慌ていたしましょう!!」

 

「かかか! 武士とそれに奉公する者。いずれも心の準備が肝要!」


 そう笑い飛ばした幸隆の言葉の通りに、城内は静まり返ったまま。すれ違う人々も普段通りに動いているではないか。

 

「な……なんと……」


「いつ、どのような号令が下されようとも、臨機応変に動けるようしつける事も大将の仕事と心得よ!」


 そんな幸隆の説教は、後に天下に比肩する者がないとまで謳われた知恵者、『真田昌幸』を作る種となった事はここで言うまでもないだろう。

 いつの間にか幸隆の手には軍配や馬に乗る為の鞭が手渡されている。

 そして城を出ると、馬だけではなく、旗持ちの足軽までもが揃っていたのだった。

 

「父上! 甲冑と兜は!?」


「かかか! そんなもの着ている暇などないわ! 儂が甲冑を必要とせねばならぬ戦なら、それは負け戦よ! 勝つためには、この軍配と馬があれば十分! さあ、行くぞ!」


 幸隆はひらりと馬にまたがると、迷いなく一直線に城の外へと駆け出していく。

 喜兵衛もまた、自分の為に用意されていた馬の腹を蹴ると、疾風のごとき父の背中を追いかけていったのであった。


◇◇


 永禄四年(一五六一年)五月三〇日――


 河越城前に布陣した上杉謙信率いる連合軍は二四〇〇〇。

 一方、河越城に立て籠っているのは、北条綱成を総大将とした一〇〇〇〇もの兵であった。

 今までとは全く異なる防御に、流石の上杉謙信と言えども一日で相手を降伏させる事はかなわなかった。それどころか、鉄壁とも言えるその堅牢な構えは、彼らが攻撃する隙さえ与えなかったのである。

 

「勝つぞ! 勝つぞ! 勝つぞぉぉぉ!!」


――オオオオオオッ!!


 城内から響き渡って来る北条綱成の咆哮と、それに応える守備兵たちの雄たけびが、連合軍の兵たちの肝を冷やす。

 

 特に太田勢や成田勢にしてみれば、長年苦しめられてきた北条綱成の強さが深い傷となって刻まれており、その声だけで膝を震わせる者も少なくなかった。

 

――ここで北条は仕掛けてきたか……このまま長陣となれば、不利になる一方だ……


 定龍は額にうっすらと汗をにじませ、謙信のいる本陣の中へと入った。

 謙信はいつも通り、腕を組んで目を瞑っている。

 その表情は険しく、彼としても戦況が思わしくない事を正しく理解しているようだ。

 定龍はそんな謙信の前でひざまずくと、さらりと問いかけた。

 

「御屋形様。この後、いかがなさいましょう?」


 定龍の心の中では、その答えは二つ。


――犠牲を覚悟の上で、力攻めで陥落させる! そして休まずに江戸城も攻め落とす!

――潔く撤退し、松山城を固く守る!


 ここまで来たらその選択より他ない。滞陣が長引けば長引く程に、北条の術中にはまっていく事は確実なのだ。戦の機微については天下一鋭いと言っても過言ではない上杉謙信であれば、その事に気付いていないはずもない、そう定龍は踏んで、あえて問いかけたのであった。

 

 うっすら目を開ける謙信。そして低い声で告げた。

 

「太田殿、成田殿ら諸将をここへ集めよ。皆の意見を……」

「御屋形様!! 今はその時ではございません! ここは御屋形様がご決断あれ!!」


 かつてない程の強い口調で定龍は反論する。

 謙信の目がわずかに大きくなったが、定龍は彼を睨みつけるように瞳の色を濃くした。

 

「定龍。お主は俺に『攻める』か『退く』と言わせたいのであろう?」

「それは御屋形様が決める事! 攻めるも退くも、御屋形様自身がお決めください!」

「俺が……か……」


 もし……謙信が『攻めよ』と命じれば、どんなに大きな犠牲を払ったとしても、連合軍は攻め続けざるを得ないであろう。もちろん上杉家には大きな痛手であるが、それ以上に戦力が小さい太田や成田などは、お家存続の危機に陥る程の犠牲を払うかもしれない。

 つまり『力攻めをすべきか』と諸将に問えば、必ずや『否』と答えが返ってくるに違いないのだ。では『撤退すべきか』と問えば、それも『否』と返ってくるはずだ。

 なぜなら、彼らは『己の犠牲は払いたくないが、戦には勝ちたい』からである。

 それは今までの彼らの戦い方を見ていれば明らかな事実であった。

 となれば『上杉軍だけで攻め立ててくれ』となるのは目に見えている。

 しかしその上杉軍も伸びすぎた兵站を維持する為に、各城に計一〇〇〇〇の兵を残しており、前線にいるのは残りの一〇〇〇〇。つまり現在河越城を守る兵と数の上では変わらない。

 それでは城に籠っている方が圧倒的に有利である事は疑いようがないのだ。

 

 打つ手なくここに滞陣すれば相手の思う壺。

 かと言って『力攻め』も『退却』も否定される……

 

 この状況では全員の『利』を考えては、何も決められない。

 だからこそ総大将である上杉謙信の独断が求められるのだった。

 

 定龍は瞳に想いを込める。

 『攻める』と『退く』のをどちらを選んでも、彼は決定に従い策を練る覚悟は出来ている。

 

「どうかご決断を!」


 腹の底から出した言葉は、低く重い。

 謙信は再び目を閉じた。

 しばらく続く沈黙は、蒸し暑さの増したこの頃の気温をさらに上昇させた。

 

 そして……謙信は再び目を開くと、定龍への答えを出した。

 

「攻める……」


 定龍は謙信の言葉の瞬間に頬を紅潮させて、口をきゅっと引き締めた。

――やっとご決断された! よしっ! 必ずや我が軍を勝利に……

 そう心に誓いを立てた瞬間であった。

 謙信が間髪入れずに続けたのは……

 

「ただし、城門を攻めるのは我が上杉軍とする。諸将の軍勢は、我が軍が突破口を開くまでは城を取り囲み、待機させよ」


「御屋形様、なりませぬ!! 全軍を持って攻めねば勝てません!!」

 

「控えよ、定龍! 毘沙門天に守られし我が軍の強さを疑うか!!」


 謙信の一喝で定龍の言葉が途切れる。

 しかし彼の目は先ほどよりも一層厳しさを増して、謙信を睨みつけていた。

 一方の謙信もまた、一歩も引かぬ姿勢で険しい表情を定龍に向ける。

 まるで敵対している剣豪同士のような、張り裂けそうな緊張感が二人だけの本陣の中を包んでいた。

 

 しかし総大将が決定を下してしまった以上、定龍がいかにその愚を訴えようとも、覆ることはない。真っ赤に充血させた目は無念を映すが、それでも定龍は「申し訳ございません」と頭を下げて、その場を後にするより他なかった。

 

 逃げも隠れも出来ぬ関東平野のど真ん中に位置する河越城。

 水でも火でも攻められぬとなれば、ただ突撃あるのみ――

 

 そして……

 

 

――上杉軍は全軍突撃!! その他の軍は、城を囲って敵を逃がすな!!



 との伝令が連合軍の全ての大将に届けられると、一〇〇〇〇の上杉軍は、怒涛のように城門へと突撃していったのであった――

 

 




 

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