三軍暴骨……関東進出戦⑥
◇◇
永禄4年(1561年)5月20日ーー
沼田城に二千の兵を残した上杉軍一万八千は、次の目標である厩橋城に向けて出立した。
沼田城攻略戦ではさしたる抵抗もなく、あっさりと勝利することが出来たが、まだ今回の作戦は始まったばかり。
大軍を抱える北条軍がこのまま引き下がるとは思えない。
――必ずどこかで仕掛けてくるはず……!
宇佐美定龍はそのように神経を尖らせていた。
しかし一兵の敵もないままに、上杉軍は順調に三国街道を南下していった。
そして……
結局無傷のまま、同日の昼前には上野国の厩橋城に到着したのだったーー
城内には北条の旗が風にはためいているものの、兵たちが打って出てくる気配はないことに、定龍はむしろ訝しさを感じていた。
ところが、定龍の隣で駒を進めている宿老の柿崎景家は、目の前の光景を至極単純に感じ取ったようだ。
彼は大きく口を開いて笑った。
「随分とひっそりしているのう! 北条は臆病者ばかりじゃ! はははっ!! 」
定龍はちらりと景家の顔に目をやった後に、大将の上杉謙信の横顔を覗き込む。
謙信は景家の大笑いにつられることもなく、口を固く結んで城を睨むように見つめていた。
その様子に定龍は目を見開くと共に息を飲んだ。
湛然不動ーー
油断も隙もない……
すなわちどこにも死角がない。
この人が負ける事など天地がひっくり返ろうともありえない……
この世には『絶対』という言葉はありえぬと定龍は信じている。
しかしこの上杉謙信だけには『絶対』という単語を当てはめても天が許すのではないか。
定龍はそのように感嘆し、ただ謙信の横顔を黙って見つめ続けていた。
全軍の息が整い、後は謙信の口から突撃の号令が放たれるのを待つばかり。
そんな時であった。
物見の覇気のある大きな声が響き渡ったのである。
「申し上げます!! 岩櫃城より斎藤憲広様、自ら二千の軍勢を引き連れて我が軍に合流いたしました!! 」
「来たか……! 」
思わず謙信の口から、弾んだ声が漏れると、
――オオオッ!!
と、周辺の兵たちからも喜びの声が上がる。
なぜならこの加勢によって確信したのである……
――これからさらに加勢が増える!!
ということを。
それを示すように風のように駆けてきた伝令が、一息つく間もなく大声で告げたのだった。
「申し上げます!!
唐沢山城より佐野昌綱様、さらに宇都宮城より宇都宮広綱様!!
それぞれ三千の兵を持って進軍中!!
明日には平井城付近に布陣の予定、とのことでございます!! 」
さらに別の伝令が立て続けにやってきた。
「忍城より成田長泰様、岩付城より太田資正様!!
それぞれ三千ずつを率いて出陣!!
明後日には羽生城を囲む予定とのこと!! 」
「よぉぉぉぉし!! 来た! 来た! 来たぁぁぁ!! 」
柿崎景家の雄たけびが周囲の空気を震わせると、
――ワアアアアアッ!!
と、上杉軍はさながら祭りのような大歓声に包まれている。
皆が味方の勝ちを確信に変えた瞬間とも言えよう。
なぜならこれで味方の軍は総計三万四千まで膨れ上がったことになる。
沼田城に待機させた二千を差し引いても、三万二千の大軍となった訳だ。
この陣容を見れば、いかに『相模の獅子』と言えども、顔を青ざめさせるに違いない。
そしてこれらの援軍は同時に、定龍の策がことごとく花開いた瞬間でもあった――
隣にいる景家などは、定龍の肩をがっちり組んで体全体で喜びを表しているほどだ。
謙信もまた先ほどまでの難しい顔を、少しだけ崩し、定龍に微笑みかけている。
そうしているうちに、援軍の斎藤憲広が謙信の前までやって来た。
「岩櫃の斎藤憲広と申す! こたびはよく声をかけてくださった! 」
謙信は表情をあらためて引き締め直すと、馬をおりて憲広を出迎える。
定龍と景家の二人も、謙信にならって馬をおりた。
「無理を申してかたじけない。援軍、大変に嬉しく思っておるぞ」
と、謙信が謙遜して話しかけると、憲広は満面の笑みで手を振った。
「関東将軍殿からかような言葉を頂けるとは、ありがたいことじゃ!
上野全体に将軍殿の御威光が行き届けば、儂の居城である岩櫃を襲う魔の手もなくなるというもの!
その為の戦に手を貸さんで、いつ将軍殿の御厚意に報いようか! 」
「そう言って頂けると気持ちが軽くなる。
では早くも平井城では佐野、宇都宮の両者がわれらを待っている。
ここを片付けた後、すぐに向かうこととしよう」
「平井城といえば、元は上杉憲政様のお城ですな…… きっと憲政様もお喜びになられるに違いあるまい」
憲広がしみじみと漏らす。
謙信は「上杉憲政」という言葉が発せられた直後に、その顔に影を落とした。
そう……
平井城奪還は、上杉憲政の悲願……
しかし当人は既に心敗れ、今は乱世から離れた毎日を穏やかに過ごしているのだ。
もちろん今回の戦への出陣も、頑なに断ったのだった。
果たして憲政は平井城奪還を喜んでくれるのだろうか。
それとも……
そこまで謙信が逡巡したその時……
「お屋形様、そろそろ突撃の号令を……」
と、定龍が穏やかな口調で謙信に声をかけた。
はっと我に返った謙信は「うむ」と小さい声で返事をした後、素早く馬にまたがる。
そして、すらりと抜いた名刀『姫鶴一文字』を高々と掲げると、雷のような大声で命じたのだった――
「懸かり乱れの龍旗を天に掲げよ!! 」
――バババッ!!
謙信の大号令とともに一斉に龍旗が曇り空の元に掲げられると、全軍の闘志が空気を熱くする。
そして……
「全軍!! 突撃!! 」
謙信の咆哮がこだますと同時に、先鋒の甘粕景持隊を先頭として上杉・斎藤の連合軍が一斉に厩橋城に向けて駆け出していったのだった。
――ウオォォォォォ!!!
二万一千の上杉軍が一斉に雄たけびを上げると、城内の北条家の旗ですら、萎縮してしまう程にとてつもない衝撃が走る。
ただでさえひっそりとしていた厩橋城の城兵たちは、その衝撃だけで戦意を失っていた。
――ドゴンッ!!!
城門を襲う凄まじい突撃。
そして、わずか半刻(1時間)の後には、厩橋城のあらゆる場所に、上杉家の旗が掲げられたのであった――
◇◇
上杉軍が厩橋城を陥落させたその頃――
信濃国上田城では、城主の真田幸隆が戦の為に甲斐国から戻ってきていた。
しかし彼は何を考えているのか、すぐ近くに上杉軍がいるというのに、甲冑も身につけず、自室で大きないびきを立てて寝入っているではないか……
その様子を見た、彼の息子である武藤喜兵衛は、青い顔をして幸隆の体を激しくゆすった。
「父上! 父上!! 起きてくだされ!! 」
「むむっ!? もう飯時であるか!? 」
「違います!! 忍びからの報せによると、上杉謙信がいよいよ平井城へ向かったとのことでございます! 」
この時まだ十四の喜兵衛だが、その聡明さは幸隆の息子たちの中でも特に際立っている。
幼い頃から信玄の小姓として奉公させていたが、今回は幸隆の方から無理を言って、彼を上田へ引き連れてきていた。
その名目はもちろん『初陣』である。
いっぱしの男子であれば『初陣』と聞いて喜ばない者はいないであろう。
喜兵衛も喜び勇んで上田へと入った。
そして気の逸る彼は数日前から甲冑を着ているというのに、父であり、総大将でもある幸隆は一向に兵を動かす気配もなく、ただ部屋の中でごろごろしているだけの毎日を過ごしていたのだ。
そしていよいよ上杉謙信は上野国の南部に位置する平井城攻略へ着手し始めたというのだから、もう気が気でなかったのである。
「なんじゃ……まだ平井か…… ならばもう少し寝かせよ。
かように部屋でのんびり出来る時はないぞ、喜兵衛。
これぞまさに『贅沢』というものだ。ふわぁぁ……」
大きなあくびをしながら、ゴロリと喜兵衛に背を向ける幸隆。
その様子に喜兵衛はただ目を丸くするより他なかった。
主君、武田信玄からの指示は絶対だ。
そして今回の指示は、
――真田に全て任せる
というものであったのだ。
喜兵衛は当然のように、父幸隆の不世出の智略によって上杉軍をきりきり舞いにして、その進軍を足止めするものだとばかり思っていた。
もちろん喜兵衛自身も、その中にあって、大いに武功を立てるつもりでいたのである。
しかし幸隆は全く動く気配を見せず、ついには謙信は隣の上野国の最南端まで進んでしまったのだから、若い彼が焦って父親に詰め寄るのも当たり前と言えよう。
このまま武蔵国に進ませてしまっては、信玄からの命令を完全に無視した事になるのではないか……
しかし喜兵衛の不安など素知らぬ振りをした幸隆は、その顔すら息子に見せることを拒絶している。
喜兵衛は幸隆の心を計りかねていたが、どうすることも出来ず、ただ父の側で正座しているより他なかったのであった。
そのまましばらく時が経つ……
すると幸隆が背を向けたまま喜兵衛に声をかけた。
「そろそろ自分の部屋へ戻れ。そんな所で怖い顔をされていたら、おちおち昼寝も出来んであろう」
喜兵衛は怒りにわなわな震えながら、黙って鋭い視線を父の背中に突き刺し続けた。
すると幸隆は観念したように自身の考えを口にし始めたのであった……
「信玄公は、儂らに『謙信を足止めせよ』とは命じてはおらん。
なぜなら誰がどう見ても、儂らのわずか五百の兵では二万の上杉の大軍を止めることなど叶わぬからだ」
「しかし、だからと言ってここでだらだらと過ごしてよい理由にはなりませぬ」
「はははっ! 喜兵衛は真面目な男よのう! お主の母にそっくりであるぞ! はははっ! 」
「父上! 笑っておられる場合ではございませぬ!! いかがするのですか!?
上杉はもう……」「行かせてしまえ! 」
「えっ……!? 」
突然幸隆の口調が変わった事に、びくりと体を震わせると、思わず口をつぐんだ。
そして幸隆は相変わらず喜兵衛に背を向けたままに続けたのだった。
「よいか、喜兵衛。向かってくる強大な敵に正面から当たる事は下策と心得よ」
「正面からあたるは下策……」
「後ろから攻めるは中策」
「では、上策は? 」
喜兵衛は思わず身を乗り出して幸隆に問いかける。
すると、幸隆は突然仰向けになって大笑いしだした。
「はははっ! そんな事一つに決まっておろう!! 」
「父上! もったいぶらずにお教えくだされ!! 」
幸隆の笑い声が止む。
そして彼は顔を引き締めて、きっぱりと言い放ったのだった……
「戦わぬ事……これが上策」
「……はっ!? どういう事にございますか!? 」
「戦わずして手柄を立てる。これが一番に決まっておるではないか」
「そ、それはどういう意味……」
喜兵衛はなおも食い下がろうとしたが、幸隆は再び彼に背を向ける。
そして片手をひらひらと上げながら締めくくったのであった。
「儂らが手柄を立てるはまだ先の事。ならば果報は寝て待て、と昔から言うではないか。
お主が孝行息子ならば、もう少し父を寝かせよ」
武藤喜兵衛……
後に『表裏比興の者』と称された名将、真田昌幸が、こんな父の背中を見ながらその類稀なる智謀を育んでいったのは、言うまでもないのである。