三軍暴骨……関東進出戦④
◇◇
永禄4年(1561年)5月17日 北条軍本陣ーー
久留里城からほど近い場所に本陣を張った北条氏康の元には、北条綱成、北条幻庵に加え、筆頭家老の松田憲秀と、綱成の嫡男、北条康成の四人の姿があった。
北条軍の中でも中核を成す四人が揃って本陣に集まっていたには、もちろん理由がある。
それは……
――上杉謙信、出陣。二万の大軍をもって三国峠を進軍中
との急報が、忍び頭である風魔小太郎からもたらされたからであった。
「どうするのじゃ? 新九郎」
幻庵のしゃがれた声が発せられると、全員の目が北条氏康に集まる。
その視線に苦い顔をした『総大将』の氏康は、頬をぽりぽりと掻きながら言った。
「かようにも人が集まったのだから、たまには誰か意見を言ってはくれないものか? 」
嘆くような氏康の言葉に、この中では最も若い二十七歳の北条康成が口を開いた。
「上杉はたかだか二万。こちらは三万の大軍。ならば、ここは奴らを迎え撃ってやりましょう!! 」
「……よく言った、康成。新九郎殿、ここはやはり……」
康成の言葉にすぐさま父親の綱成が同意する。
どうやらこの親子、すぐに血が沸き立つ性格は瓜二つのようだ。
早くも顔を真っ赤にして、「上杉謙信、何者ぞ! 」と言わんばかりに、二人とも鼻息を荒くしている。
しかし、綱成の言葉を氏康は遮った。
「もうよい、もうよい。俺が悪かった」
「カカカ! はじめから素直にならんから、面倒な事になるのだ! 」
「そう言ってくださるな、じじ殿。
よしっ! 憲秀! 」
「はっ! 」
康成に次いで若い松田憲秀が、大きな声で返事をすると、氏康は口元をわずかに緩めた。
「里見とは和睦する。お主に里見との交渉は全て任せるゆえ、よろしく頼む」
「御意にございます! 」
「それがまとまり次第、お主には例の事をお願いしたい」
「かしこまりました! 」
そして引き続き氏康は綱成と康成の親子に向けて指示を出した。
「孫九郎と康成の二人は河越城に入ってくだされ」
「……河越……」
次の瞬間、氏康の顔つきがみるみる変わっていく。
それは彼のもう一つの顔……
冷酷な『軍師』の顔であった……
「かつて上杉憲政が河越で地獄を見たように、謙信にも河越で地獄を見てもらおうではないか」
「……御意」
そして最後に北条幻庵に対して、氏康は一つの指示を出した。
その内容は実に驚くべきことであり、それを聞いた幻庵は苦笑いを浮かべ、額に冷や汗をかいていた。
「カカカ! 新九郎め! この爺にとんでもない重荷を背負わせおって! 」
しかし言葉とは裏腹に幻庵の声は弾んでいる。
氏康はその声を聞いて口角を上げた。
「ふふ、この程度の事で潰れてしまわれる程、幻庵殿は軟くはございますまい」
こうしてその場の全員に指示が行きわたった所で、氏康は『総大将』にその顔を戻すと、全軍に退却の命令を出したのだった――
◇◇
一方……
同日 甲斐国、躑躅ヶ崎館――
武田家の本拠地であるその館の城主の間。
その部屋の中で山のように鎮座している武田信玄の耳にも、上杉謙信が軍勢を率いて関東へと動き出した事は届いていた。
眉間に皺を寄せ、口をへの字に曲げている信玄。
重々しい空気の中、部屋にいる彼の弟の武田信繁、軍師の山本勘助ら重臣たちは固唾を飲んで信玄の言葉を待っていた。
そして……
ついに彼は重い口を開いた。
その第一声は……
「むむぅ…… ちと『山』へ行ってこようかね」
「なりませぬぞ! 太郎殿!! 」
信玄の言葉に対し、即座にそれを制したのは弟の信繁であった。
無論その場を離れようとしている信玄を抑え付ける為のこと。
信玄は恨めしそうな目で信繁を睨んだが、信繁も負けじと兄に対して強い視線を向けていた。
しかし彼が一度この場から離れて、一人で『山』……すなわち『厠』に籠りたくなる気持ちが分からないでもない。
それほどに武田信玄は今、難しい決断を迫られていた。
無論、そのうち大部分を占めているのは今川家の動向であろう。
『海道一の弓取り』と渾名された、絶対的な君主の今川義元が没してからというものの、今川当主の求心力は著しく落ちていった。
特に、三河に一定の勢力を持つ松平家(後の徳川家)が離反した事は、今川家にとって暗い影を落としている事は間違いない。
そんな今川家の姫が嫡男、武田義信の正室ということもあり、武田家は表向きは今川家と良好な関係を保っている。
しかし……
弱体化していく今川家にいつまでも肩入れするのは下策……
今川義元亡き今、武田家にとって今川家は脅威ではなく、勢力を伸ばす格好の鴨ではないか……
家中にそんな意見が少なからずささやかれている事を、信玄も把握している。
だが、嫡男義信の手前、声高に今川家との絶縁を宣言する事が出来ないのが実情であった。
それでも織田、松平が手を組んで今川領へ侵攻してくれば話は別である。
その時こそ……
信玄は、織田と戦う今川家の背中を襲うつもりでいたのだった……
それがいつ訪れるとも知れない中、信玄は自ら軍勢を率いて軽々しく動く訳にはいかない。
むしろ信玄が留守にする時を、織田信長という稀有な英雄の卵は、虎視眈眈と狙っているのではないか、そんな風に疑心暗鬼に囚われていた。
そして、彼が注視せねばならぬ動きはもう一つ。
『関東将軍』に就任した上杉謙信の動きであった。
そしてその上杉謙信が武蔵に拠点を移そうと画策している事を、信玄は知っていた。
仮にそれが成されれば、今後の脅威になる事は目に見えている。
なんとしてもそれは盟友、北条氏康と共に阻止せねばならない。
つまり、東海地方の動きに目を光らせながらも、上杉軍の侵攻を遮りたい……
この二つの両立をいかにして成し遂げるか……
信玄にはどうしてもそれが頭に浮かばなかったのであった。
そんな中に伝えられた、今回の急報。
――もう時間がない……
そんな威圧感が信玄の腹を容赦なく襲い、彼を『山』へと導こうとしていた、という訳である。
青い顔をして苦しんでいる信玄に対して助け舟を出すべく、脇から口を挟んだのは軍師、山本勘助であった。
「殿! ここは一つ、真田殿に委ねてみてはいかがでしょう? 」
「ほう…… 真田かね……」
勘助と信玄のやり取りに、その場の全員の目が『真田』と呼ばれた男に集まる。
すると部屋の隅の方で、ぼんやりとした表情で場を見つめていたその男は、ハッとした表情に変わった。
「ほへぇっ!? わ、わしでございますか!? 」
座ったまま飛び上がらんばかりに、びっくり仰天したその男は、自分の事を指差して青い顔をしている。
すると勘助が、ニタニタと笑いながら告げた。
「真田と言えばうぬしかおらんじゃろう!? 弾正殿! カカカッ! 」
「じょ、冗談が過ぎやしませんかね? わしゃあ、動かせて二百騎。農民をかき集めても、五百がやっとの小身。
とてもじゃねえが、かの『軍神』と戦えたもんじゃねえ! 」
「カカカッ! 『攻め弾正』と渾名されたうぬらしくないのう! 」
「勘弁しておくれ、勘助殿! わしゃあ、武士じゃが、命だけは惜しくてのう」
頭の後ろを掻きながら、頭を下げる『攻め弾正』と呼ばれたこの男……
その名も、真田幸隆。
一見するとうだつの上がらぬ低頭な男ではあるが、強敵に周囲を囲まれた信濃にある真田家が細々と生き残ってこられたのも、彼の尋常ならざる智略と胆力によるものであった。
しかしそんな彼であっても、言葉の通り、動かせる兵はせいぜい五百がいいところ。
とてもではないが、二万の上杉軍を真正面から受け止める事など出来るはずもない。
ところが……
信玄は顔を伏せる幸隆に向かって、太い声で問いかけたのだった。
「切り取り次第…… ではどうかね? 」
その言葉の瞬間だった……
――バッ!!
と、勢い良く顔を上げた真田幸隆は、部屋中を震わせるような大声を突然上げたのである。
「乗ったぁぁぁ!! 」
なんとそれまでの弱気など吹き飛ばして、歓天喜地となって立ち上がったのだった。
切り取り次第……
それは戦で敵から奪い取った領地や城は、そのまま自分のものとして良い、という究極とも言える成果報酬の事だ。
つまり『上杉謙信との戦いで奪い取った城は、そのまま真田のものとしてよい』という信玄の言葉。
それをさも待っていたかのような真田幸隆の変わり様といったら、まるで別人のようであった。
今にも眠ってしまいそうだった目は爛々と輝き、たるんでいた頬は引き締まって興奮に赤く染まっている。
幸隆は、開いた口が塞がらない様子の重臣たちの間を縫う様にして飛び跳ねていった。
ーードカドカッ!
ついに信玄の目の前までくると、姿勢を正して座った。
さすがの信玄と言えども、幸隆の様子に目を丸くしている。
しかし、場の空気など物ともせず、幸隆は高らかと告げたのであった。
「殿に真田の大博打を披露いたしましょう! そして必ずや上杉謙信に一泡吹かせて見せます!! 」
とーー
こうして上杉、北条、そして武田……
三者の思惑と意地が激突する瞬間は、刻一刻と近づいていたのだったーー
さて、これからどうなっていくのでしょうか…
どうぞこれからもよろしくお願いします。