三軍暴骨……関東進出戦③
◇◇
永禄4年(1561年)5月13日 宇佐美屋敷ーー
宇佐美定龍直轄の忍び衆である『影縫』の頭目、中西弥蔵が、定龍の部屋に入った。
定龍はそれを待っていたかのように、彼に向き合うと静かな口調で問いかけた。
「いよいよ動きましたか……」
弥蔵は小さく頷く。
そして相変わらず小さな声で詳細を話し始めたのだった。
「小田原より北条氏康が一万、玉縄より北条幻庵が五千、河越より北条綱成が三千、その他各所より一斉に進軍を開始。
その数、総勢三万。
全て上総、安房(現在の千葉県の南)に向かって進軍中との事でございます」
「なるほど…… 御苦労でした。引き続き北条と武田の動きには目を配っておいてください」
「御意」
短く返事をした弥蔵は、そのまますぐに姿を消す。
そして、定龍もまた彼が消えたと同時に部屋を後にしていた。
――北条氏康、動く……
その槍の向け先は安房国の里見義堯。
長年房総の主権争いを演じてきた相手であり、そこへ大軍を投じる事は何ら不自然な事ではない。
しかし、『関東将軍』を拝命した上杉謙信に出兵の動きがあることは彼らも承知しているはず。
そんな中にあって、所領全土から兵を集めて越後国から離れるように南下させる事は、『攻めてこい』と挑発している事と同じであろう。
さらに言えば、知勇兼備の将として知られる里見義堯であっても、安房一国から集められる兵は多くとも一万が限度であろう。
そんな中にあって三万もの大軍で攻められれば、房総の覇権を争う最前線の拠点でもある上総の久留里城に籠城せざるを得ない。
そして、『関東将軍』へ援軍を求めてくる事は明らかな事だ。
そうなれば、関東の諸大名をまとめる立場の上杉家が、援軍の要請を断れるはずもない……
すなわち、ここに上杉と北条の戦いの火蓋は切って落とされたも同然であった。
――しかし自ら誘い込んでくるとは…… 何か罠を張っているのか……?
定龍は御館に向けて足を早めながらも、そのように頭を巡らせていた。
しかし今回の戦の舞台は上野国と武蔵国。それら二つの国の有力な大名たちは、定龍の調略によってことごとく味方となる約束を取り付けている。
――当家が負ける要素は皆無。しかし、より勝利を盤石なものにする為には……
定龍がそこまで考えを巡らせた所で、いつの間にか御館の門をくぐっていた。
そして足を止めることなく、真っすぐに当主である上杉謙信の部屋の前までやってきたのであった。
「脇大将、宇佐美定龍様がお越しにございます! 」
小姓が部屋の中に向けて大声を出すと、
「うむ、定龍を中へ」
と、謙信の低い声が返ってくる。
定龍は素早い手つきで襖を開けると、謙信の前に膝を進めた。
その謙信は、渋い顔をして腕を組み、重々しい雰囲気で腰をおろしている。
「お屋形様に申し上げます。いよいよ北条が動き出したとのことにございます。狙いは安房、久留里城」
「うむ……」
「恐らく一両日中には、里見殿より援軍の要請があることでしょう。
お屋形様、ここは御出陣の時かと思われます」
「そうだな……」
「では早速、お味方の各大名に、出陣を促す書状をお送ります。
さらにもう一つ……お味方の勝利を盤石のものとすべく、お願いしたい儀がございます」
それまで目を閉じて定龍の言葉に耳を傾けていた謙信が、片目を開いてぎろりと定龍を見る。
定龍は一呼吸おくと、腹に力を込めて続けた。
「光徹様の御出陣をお願いいたしたく存じます」
定龍の言葉の瞬間に、謙信の両目が大きく見開かれると、その顔色は驚愕の色を濃くした。
それもそのはずだろう……
彼の言う『光徹』とはすなわち……
前関東管領、上杉憲政の事……
今は謙信に全てを譲り、出家した後、ここ御館で隠居の身だ。
ここのところようやく自我を取り戻し、少しずつ笑顔が見られるようになったものの、それでも甲冑を身にまとって戦場を駆け巡るなど出来るはずもない。
そんな彼に定龍は出陣を要請したいと申し出たのである。
「それは……」
謙信が思わず口ごもると、定龍はさらに膝を進めて謙信にぐいっと近寄った。
「此度の戦は北条が自ら誘い込んだ事がきっかけなれば、必ずや何か罠を張っているに違いありませぬ。
ならば、我が軍強しと言えども、盤石を期すべきかと思われます!
どうか、お許しを!! 」
確かに足利将軍家からの『御内書』によって上杉家の名跡を継ぎ、関東将軍の称することになった謙信。
しかしそんな彼であっても、昨年までは越後の守護代の立場に過ぎなかったのだ。
いかに彼の名が知られていても、その威光はまだまだ弱いと言わざるを得ない。
一方の光徹については、かつて『関東管領』として関東に平和をもたらす為に、西に東に軍勢を率いて北条氏康と戦っていた事は諸将の記憶に強く刻まれていた。
そして、城を燃やされ、家族を惨殺された後、無惨にも国を追われた事も……
もしそんな光徹が上杉軍の陣中にいると知れれば、彼に同情する常陸国の佐竹義昭を始めとして、さらに多くの味方を得る事が出来るだろう。
つまり定龍は、今回の戦を単に『上杉軍による関東侵攻』にとどめるのではなく、
『上杉憲政の無念を晴らす雪辱戦』の意味合いを持たせようと画策したのであった。
「光徹殿を利用する……ということか……? 」
謙信の鋭い眼光に対し、定龍もまた目に光を灯しながら言葉を返す。
「いえ、そうではございませぬ。
光徹様におかれましても、その身に受けた屈辱を、いつかは晴らさんと臥薪嘗胆の日々を過ごされていたに違いありません!
今はその絶好の時! それだけでございます!! 」
「物は言い様だな……」
謙信は再び目をつむると、口をへの字に曲げて考え込む。
彼としても、万全の体制を持って難敵、北条氏康と当たりたいという気持ちは強く持っている。
しかし、心に深い傷を負い、ようやく浮世から離れた暮らしを手に入れた光徹の首根っこを掴むようにして、戦場へと誘うのは、人としての倫理観に反するものなのではないか。
そこにどれだけの『義』があるのか……
謙信はその事を自問自答していた。
もちろん彼の葛藤が分からないはずもない定龍であったが、これ以上は余計な口出しもせず、その代わりに突き刺すような視線をもって謙信の心に訴えかけていたのであった。
無言の時が流れる……
初夏を思わせる陽気は、部屋の温度を上げ、二人の額からは汗がうっすらと光ってきていた。
もちろん二人とも、それを拭う素振りすら見せない。
言葉や刀を交わさずとも、二人はさながら相撲の取っ組み合いもようなぶつかり合いに身を投じていたのであった。
そして……
ついに謙信は決断を下した。
巨大な城門が開くように重い口をゆっくりと動かしたのだった。
「光徹殿自身に委ねることとする」
――ぬるい!!
謙信の言葉と共に、定龍の脳裏に走ったのは、その言葉であった。
彼はぎりっと目つきを鋭くすると、謙信に詰め寄った。
「それでは、それがしが光徹様の元へお屋形様のご意向を伝えに参ります」
「それはならぬ! われ自らが伺おう」
謙信の語気が強くなると、定龍も引かざる得ない。
そして彼の様子からして、彼の本心としては『光徹殿を戦場に引っ張り出したくはない』と思っている事は明らかであった。
なぜなら、もし仮に光徹自身に出陣の是非の決断を委ねたならば、返ってくるであろう答えは明らかだからだ。
――否……
と……
つまり、定龍の意見は受け入れられなかった、と言っても過言ではない謙信の決断であった。
こうなればもはや定龍は信じるより他なかった。
光徹……すなわち上杉憲政の胸の内に、粉々に砕かれた誇りを取り戻す為、這い上がろうとする執念の炎が消えていない事を――
………
……
永禄4年(1561年)5月16日ーー
春日山城に集結したおよそ二万の上杉軍は、小雨が落ちる中、進軍を開始した。
総大将の上杉謙信の姿は、ちょうど軍の真ん中にある。
行人包と呼ばれる純白な布を頭に巻き、背後を歩く徒歩には『昆』の一字が書かれた旗を掲げさせていた。
そして謙信の左隣には、『軍師』宇佐美定龍の姿もある。
その他にも、
先鋒大将として大軍を引っ張る、甘粕景持。
その直後に、柿崎景家。
護衛隊長として謙信の目の前を行く、千坂景親。
謙信の右隣に副大将、本庄実乃。
左翼に、本庄繁長。
右翼に、斎藤朝信。
後方に、加地春綱と鮎川清長。
そして荷駄隊として、河田長親。
もちろん宇佐美定龍の与力として『越後一の無双』小島弥太郎の姿もある。
まさに越後全土から選りすぐり猛将たちが一同に介して、北条氏康との決戦に向けて意気揚々と軍を進めていた。
その陣容はまさに圧巻の一言に尽きる。
この時見送りに来た留守居役の上杉景信や直江景綱、そして領民たちの全員が、上杉軍の勝利を疑わなかったのは言うまでもない。
しかし……
定龍だけは一抹の不安と、少しばかりの不満を胸の内に抱えていた。
なぜなら……
上杉軍の中に、上杉光徹の姿は……
どこにもなかったのだから――