【幕間】勝姫と定龍の鬼退治②
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永禄4年(1561年)5月2日 宇佐美屋敷ーー
宇佐美定龍は、自室に一人の男を呼んでいた。
男の名は中西弥蔵。
隙のない鋭い目つきに、いかにもすばしっこそうな細くて小さな体。
一言で言い表すなら、それは『影』……
それもそのはず。何を隠そう、彼の生業は忍び。
しかも宇佐美定龍が直接手元に置いている忍び集団『影縫』の頭目なのだ。
彼は目の前に座っていても聞き取るのがやっとというほどに小さな声で告げた。
「やはり弥太郎殿と仙吉の二人が台所までやって来ました」
その報告に定龍がニコリと微笑む。
「そうですか……この後の手配は全て整っていますね」
「はい……全て抜かりなく……」
「よいでしょう。では二人が盗み食いを終え次第、すぐに皆を食事に集めてください」
「御意」
そう返事をし終えるかしないかのうちに、弥蔵の姿は定龍の目には見えなくなっていた。
しかし、定龍には彼がまだ部屋の中にいることを分かっているようで、誰もいない空間に向けて声をかけた。
「そうそう……最後に一つおうかがいします」
「はっ……何なりと」
「あの娘…… 確か雪音と申しましたか…… 彼女は元気にやっておりますか? 」
「はい……」
弥蔵の返事にわずかだが色が混じる。
それまでは無色透明であった彼の声が少し濁ったことに、定龍は眉をぴくりと動かした。
「何か問題でも? 」
「いえ、『今は』問題は特にございません……」
「ふむ……『今は』……ですか……」
定龍の言葉の後、沈黙が流れる……
そしてしばらく経った後、弥蔵がいつになく重い口調で告げた。
「定龍様。あのおなごは危うすぎる……ついては今のうちに闇に葬り去るべきかと……」
「ふむ……それは彼女がかの『鳶加藤』の娘だから……でしょうか」
鳶加藤……その名は上杉家中の者なら知らぬ者はない。
なぜなら謙信直参の忍び集団である『軒猿』をことごとく翻弄し、ついには上杉謙信の元までやってくると幻術を披露した程の、凄まじい腕前を持った伝説の忍びだったからだ。
謙信は彼のあまりの実力を危惧し、その場で成敗した。
しかし彼には忘れ形見ともいうべき一人娘がおり、鳶加藤が成敗された後、軒猿たちは彼女の事を葬り去ろうとした。
しかし父親より忍びとしての手ほどきを受けていた彼女は、どうにか軒猿たちの手から逃れると、命からがら逃げ込んだのが、宇佐美屋敷だったという訳である。
目をつむりながらしばらく考えこんでいた定龍であったが、穏やかな声で未だに目に見えぬ弥蔵に告げた。
「彼女のことは考えておきましょう。それよりも今は……」
「……失礼いたしました。では、拙者はこれにて」
その言葉以降、ふっと定龍の周辺から人の気配が消える。
一人部屋に残された定龍は「ふぅ」と大きく息を吐くと、静かに目を閉じたのだったーー
………
……
定龍が一人で部屋にいるその頃、宇佐美屋敷の台所に、小島弥太郎と枇杷島仙吉が忍び込んできた。
弥太郎は素早く周囲を見回すと眉をひそめた。
「むむっ!? お勝はここにはいねえみたいじゃねえか」
「弥太郎さまぁ……まずいですよぉ」
「やいっ! 仙吉! 武士ならやられっ放しで黙っている訳にはいかねえってもんだ!
それに……」
そこで言葉を切った弥太郎は、鼻をひくひくと動かす。
そして辺りを漂ういい香りに、唾をごくりと飲み込んだ。
「千載一遇の絶好機を見逃す寸法なんてどこにもねえ! 」
その言葉が終わらないうちに、弥太郎は目の前の大きな鍋の中の大根の煮物を、がつがつと口に放り込み始めたのである。
「うめえ!! これはうめえぞ!! 仙吉!! 」
弥太郎の様子を顔を青くして見つめていた仙吉。
しかし彼もついに空腹には勝てず、弥太郎とともに大根を頬張り始めたのだった。
………
……
そして……
「ふいぃぃぃ! 食ったぁ!! 」
と、弥太郎は大きく膨れた腹をぽんぽんと叩くと、上機嫌になって天を仰いだ。
仙吉も同じく満腹であったが、彼は顔を青くしたままに弥太郎に告げた。
「弥太郎様、ここに長居してはまた見つかってしまいます」
「むむっ! そうだな! よしっ、早いところ退散するか! 」
仙吉の言葉に弥太郎は飛びあがると、すぐさま屋敷の裏口から外に出た。
「むむっ……ここにもお勝はいねえのか……? 」
「弥太郎様? 何やら寂しそうですが……」
「ば、馬鹿言うな! なんでおいらが寂しがらなきゃなんねえんだ! 」
「弥太郎様! 声が大きいですよぉ! 見つかってしまいます!! 」
「ふんっ! てめえが余計な口をたたくからだろう! 武士なら黙ってついて来やがれ」
弥太郎はへそを曲げたまま、早足で屋敷の外へと向かっていく。
そして結局誰に見つかることもなく、門をくぐって外に出たのだった。
「へんっ! お勝もおいらの執念に観念したということだな! はははっ! 小島弥太郎の勝ちなりぃ! はははっ! 」
無事に屋敷の外に出ることが出来たせいもあってか、片手を高々と上げて喜びを露わにする弥太郎。
しかし、彼は気づいていなかっただけであった……
定龍と勝姫の鬼退治は、彼らが台所に忍び込むその前から既に始まっていたことをーー
それは弥太郎と仙吉の二人が弾むように道を進んでいる時のことだった。
彼らの背後から一人の少年が大きな声をかけてきたのである。
「おおい! 弥太郎様! それに仙吉! 」
弥太郎と仙吉の二人はその場で足を止める。
そして振り返った弥太郎は大きな声で返した。
「そこにいるのは佐彦か! いかがしたのだ!? 」
「定龍様が弥太郎様と仙吉の二人に、食事を共にするように呼んで来いとのことでございます! どうぞこちらへ! 」
それは定龍からの食事の誘いであった。
しかし弥太郎と仙吉の二人は今しがた満腹になったばかりだ。
弥太郎は何か理由をつけて断ろうとした。
ところが、佐彦は間髪入れずに続けたのである。
「なんでもお屋形様より頂戴した食材を利用したお料理が振舞われるとのことでございます! お屋形様にみなで感謝しながら食事を共にしたいとの仰せにございます! 」
なんと上杉謙信から頂戴した食材を用いた食事が振舞われるというではないか。
この誘いを無碍に断ることは、すなわち当主の好意を軽視することと同じである。
弥太郎と仙吉は目を合わせると、互いに苦い顔をした。
それほどまでに二人は満腹だったのである……
しかし……
断れる理由などあるはずもない……
二人はさながら磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、重い足取りで宇佐美屋敷の方へと向かっていったのだった……
………
……
「さあ、みんな! たんとお食べ! この大根はお屋形様からのお差入れ! 遠慮なんてする必要はないわ! 」
大きな部屋の中に、勝姫の快活な声が響き渡ると、食事に呼ばれた人々から「わぁ!」と歓声が上がった。
それもそのはずだろう。
美味しそうな匂いを部屋中に漂わせた大根の煮物が、鍋ごと部屋の真ん中にドンと置かれているのだから……
勝姫は彼ら一人一人の器に大根の煮物をよそっていく。
そしてそれは弥太郎と仙吉も例外ではなかったのである。
勝姫は笑顔のまま、大きな声で弥太郎に言った。
「弥太郎と仙吉は食いしん坊ですからねぇ! これくらいは食べるでしょう! 」
――ドカァ!!
彼らの器からはみ出さんばかりに山盛りに大根が盛られる。それを見た弥太郎は思わず「うっぷ」と漏らすと、腹からは酸っぱいものがこみ上げてくる。
その様子を見てニタリと口角を上げた勝姫は、大きな声で続けたのだった。
「お屋形様からの差し入れを残すなんて無礼は許されないことは皆も承知の通りです!
もっとも、思わずほっぺが落ちてしまう程に美味しいので、残すなんて人は誰一人としていないはずでしょうけど! 」
――はははっ! そりゃそうだ!
――こんなにもありがてえものを残したら罰が当たるぞ!
勝姫の言葉に人々がどっと沸く。
そして彼女は全員の器に大根がよそわれたのを見計らって号令をかけた。
「では、みなさん! いただきましょう!! 」
一斉に部屋の人々が大根に食らいつくと、全員が「旨い! 」と舌づつみを打ち、笑顔で箸を進めている。
中にはあっと言う間によそわれた分をたいらげて、おかわりを貰いにいく若者もいるくらいだ。
「皆で食事を共にするというのは良いものですね」
と、定龍が穏やかな調子で言うと、隣の勝姫は笑顔で頷く。
その様子を見て、部屋の人々は喜色満面となって、さらに賑やかに大根を頬張っていた。
こうして和気あいあいとした雰囲気の中、皆が幸せな時を過ごしていたのだった。
……が、しかし……
そんな軽やかな雰囲気の中、弥太郎と仙吉の二人だけは重々しい空気に包まれていたのは言うまでもないだろう。
どうしても箸が大根を掴もうとしない。
よしんば掴んだ所で、それを口元に運ぶ事が出来ない……
額には大粒の汗。
顔は青ざめ、仙吉にいたっては涙を目に浮かべている。
ところが周囲の人々はそんな彼らの様子に一瞥もくれずに、次から次へと大根をたいらげていくではないか。
まるで彼らがその場にいないかのように……
そして……
自分の分を綺麗に食べ終えた者たちから順に部屋を後にしていくと……
ついに部屋には弥太郎と仙吉、それに定龍と勝姫の四人だけになったのであった……
見れば彼らの器には未だに山盛りの大根の煮物……
二人はうつむきながら、それをじっと見つめている。
その様子からは二人の後悔の念がありありと感じられるものだった。
定龍と勝姫は互いに目を合わせて小さく頷くと、定龍の方から二人に声をかけた。
「弥太郎殿に仙吉。箸が全く進んでいないようですが、いかがしたのでしょう? 」
いつも通りに優しい定龍の口調に、仙吉などは既に涙を流している。
そして顔を上げた弥太郎が、弱々しい声をあげた。
「辰丸……おいらたちは……」
しかし、その言葉の続きを定龍は遮った。
「あっ! もしや二人とも腹の調子が良くないのではありませんか? きっとそうに違いありません!
お勝や。それでも仙吉と弥太郎の分も残したらお屋形様に申し訳が立ちません。
ここは一つ私たちで食べてしまいましょう」
「はい、定龍様。もうお腹は膨れておりますが、二人のお腹が悪いということであれば仕方がありません!
ささっ、仙吉に弥太郎。その器をこちらへ渡しなさい」
勝姫は半ば強引に二人の器を奪い取ると、
定龍と二人で彼らの器の中の大根を口に入れ始めた。
その様子を申し訳なさそうな目で見つめている弥太郎と仙吉。
先ほどまで部屋の中に充満していた暖かな雰囲気は一変して、さながら冬のような厳しさを伴う空気に包まれる中、定龍と勝姫は穏やかな表情のまま、大根をたいらげた。
そして定龍は、なおもしゅんとなっている二人に向けて、優しく告げたのであった。
「では、これからも皆で食事を共にするようにいたしますので、明日からはしっかりとお腹の調子を整えてくださいな。
私もお勝も、大きな口で次々と食べ物をたいらげていく二人の様子を見るのが楽しみでならないのです。よいですね」
弥太郎と仙吉は消え入りそうな声で「はい……」と答えると、すごすごと部屋を後にしていく。
そんな彼らの背中を見ながら、勝姫は定龍に小さな声で耳打ちした。
「あの二人……これで凝りたでしょうか? 」
定龍はニコリと微笑むと、その問いに答えた。
「恐らく懲りてはいないかと思います」
勝姫は目を丸くして定龍を見つめる。
すると定龍は目を細めて続けたのだった。
「しかし、皆で食事をする事がこんなにも楽しいことである、という事は分かったでしょう。
そして次からはその輪に加わりたいということも」
「定龍様…… では、定龍様は最初から二人を懲らしめてやる訳ではなかった、という事でしょうか? 」
「ええ、その通りです。
人の心は、冷たい鞭を打つのではなく、暖かい食事を与えた方が、大きく動くというものです。
すなわち懲らしめるよりも、これからの楽しみを与える方が、人を変える強いきっかけとなるのですよ」
そして……
二人は、定龍の狙い通りに大きな変貌を遂げたのであった――
………
……
次の日――
宇佐美屋敷の台所に、甲高い弥太郎の声が響き渡っていた。
「やいっ! てめえはつまみ食いをしにきたのか!? それはおいらが許さんぞ!
皆で楽しく食事を取るには、全員が腹を空かせてなきゃなんねえからな! 」
「おらも許さんぞぉ! 」
なんと二人は率先して台所の見張りをするようになり、その取り締まりは『宇佐美屋敷の台所は鬼が守る』という言い伝えが後世にまで残される程に厳しいものだったらしい。
そしてこれ以降、宇佐美屋敷の食事は、お腹を空かせた家中の者たちの笑顔で包まれるようになったいう。
その中心に小島弥太郎と枇杷島仙吉の二人がいたのは、想像に難くないであろう。
この日も違わず、宇佐美家の食事では、弥太郎の大きな笑い声が響き渡る。
「みなで楽しく食べる方が、盗み食いするよりもずっと旨いものだなぁ! はははっ!! 」
そんな彼の陽気は家中の全員の心に伝播すると、皆一様に笑顔で美味しそうに頬を膨らませるのだった。
――懲らしめるより、楽しみを与える……
こうして勝姫と定龍の一風変わった鬼退治は、見事に成功で幕を閉じたのであった――
この幕間で、宇佐美定龍の陣営に新たな人物たちが加わった事もお伝えしました。
・百人の足軽隊
・足軽十人隊隊長、枇杷島仙吉
・忍び衆『影縫』
・忍び頭、中西弥蔵
・謎の娘、雪音
彼らが今後どのようにお話に絡んでいくのかも、是非お楽しみいただければと思います。