三軍暴骨……関東進出戦②
『関東将軍』としての今後の上杉家の動きについて、上杉謙信より話を振られた宇佐美定龍。
彼は家老たちの目が集まる中、ぐっと腹に力を込めて、貫くような声で言い放った。
「関東将軍様の本拠として、鎮東府を設けます! 」
鎮東府――
ここで言う『府』とは、いわゆる政庁の事を示す。また、鎮東とはその文字の通り、「東(関東)を鎮める(治める)」という事を示している。
つまり、関東将軍の本拠地を設けるという事だ。
それは裏を返せば、上杉家の本拠地である春日山城を出る事を意味しているのだから、家老たちがざわつくのも無理はない。
ーーな、なんと……
ーーどこに造るというのか……?
ーー春日山か……?
そんな中、定龍は凛とした顔つきで続けた。
「場所は武蔵国は松山!! 現在の松山城を鎮東府といたします!! 」
これには流石に互いに目を見合わせていた家老たちも、定龍に食いつくように言葉を投げかけた。
「定龍!! 春日山はどうするのだ!?」
「長尾家が代々守ってきた越後を捨てるというつもりか!? 」
みな顔を真っ赤にして怒声を飛ばす。
しかし定龍は目を細めながら家老たちの様子をじっと見つめていた。
近江の出身で、家老に取り立てられたばかりの河田長親は、その様子を冷静に見つめていた。
まるで荒れ狂う日本海の海面と、波一つない静かな湖面のような差が、家老たちと定龍の間にはあった。
ーーなんという肝の据わったお人か……
この時は、そんな風にどこか冷めた感心しかなかった。
しかし……
長親は、これよりわずか四半刻後(およそ30分後)には、興奮の渦に飲まれ、その視線を尊敬の眼差しに変えることになるのだが……
今の彼には想像もつかなかったのである。
さて、一通り意見が出尽くし、場がようやく落ち着いた頃ーー
それを見計らって、定龍は透き通った声で続けた。
「あくまで上杉家の本拠地は、ここ春日山にございます。
しかしご存知の通り、越後は雪が深く冬になると十分な働きが出来ませぬ」
ここで言う『十分な働き』とは、無論『戦』を指しているのだろう。
確かにそれは定龍の言葉の通りだと、長親は越後にやって来た当初から感じていた。
すなわち上杉軍は越後が深雪に覆われている間、ほとんど軍事行動が出来ず、冬場から春先にかけて侵攻を強めてくる武田軍や北条軍の後手に回ってしまう事が多いのが実情なのだ。
そこで定龍は、越後に上杉軍を置いたままでは、『関東将軍』として武田や北条と戦うのは厳しいと、何の迷いもなくずばりと言い放った訳だ。
それはさながら鋭い刃で真っ二つに断ち切られたようで、越後を愛する家老たちと言えども、言葉を失ってしまった。
すると定龍は畳み掛けるように宣言したのだった。
「そこで雪の影響を受けにくい、武蔵国に『関東将軍』の軍を置きます!
そして越後は守護代を置き、引き続きここ春日山を本拠といたします! 」
旧長尾家は元来『越後守護代』、つまり『関東管領』に代わって越後国を守護する職であり、上杉家に統合した事でその職は辞した形となっている。
定龍はその『越後守護代』の職を復活させると言う。
ーーしかしそれでは……
その考えに、長親の胸に一抹の不安がよぎった。
なぜなら……
ーーお家を『関東将軍』と『越後守護代』の二つに割るおつもりか……!?
そうなれば、再び上杉家にお家騒動が勃発してしまうのではないか……
みな口にせずともそのように戦々恐々としていたのは想像に難くない。
しかし定龍は彼らの不安をよそに、淡々とした動作で謙信の方へ向き直ると、一つ願いを口にした。
「では、お屋形様に越後守護代をご指名いただきたく存じます」
「うむ……」
それまで目を瞑って周囲に耳を傾けていた謙信が、ゆっくりと目を開く。
部屋の中の緊張が一気に高まると、全員が息を飲んで謙信の口元を見つめている。
そして……
謙信は一つの名を口にしたのである……
「卯松…… 上杉卯松を越後守護代とする」
――な……う、卯松様ですと……
――そ、そんなことが……
思わず家老たちの口から驚愕の言葉が漏れ出すのも無理はないだろう。
上杉卯松と言えば、亡き長尾政景の実子であり、今は上杉謙信の養子。
確かに上杉家の正統な後継者候補でもある為、これならお家が分裂する恐れはないだろう。
しかし、それでも未だ五歳の彼が『越後守護代』の大役が務まるはずもなく、その後見人によっては不和が生じる可能性を秘めているのだ。
ーー上田派の復権を目論む者が後見人になれば、その時こそ一大事になろう……
もちろん謙信もその事は重々承知なようで、次のように続けた。
「後見人は、十郎殿にお頼み申す。それから兼豊。お主も補佐に回るがよい」
謙信は、後見人に『越の十良』と称された人徳者の上杉景信を指名した。
そして長尾政景の側近であった樋口兼豊を彼らの補佐にあてたのであった。
このうち特に上杉景信は、旧長尾三家の『古志長尾家』の当主。
しかし派閥争いから一歩離れた所で、対立する『景虎派』と『上田派』の間を上手く取り持っていた存在だったのである。
彼が春日山にて越後の安定に尽力するとなれば、旧上田派からも景虎派からも文句の出ようがない。
そして特に政務において手腕を発揮していた樋口兼豊が与力となれば、領地経営も大きく崩れることはないだろう。
ーーなんと絶妙な……
長親は舌を巻いた。
ふと定龍の方を見れば、謙信と顔を合わせてニコリと微笑んでいる。
その様子を見て彼は即座に理解したのだった。
ーーこれもあのお方の手配か……! なんというお方なのだ……
だが……
上杉謙信が関東に進出していく上で課題はまだある、そう長親には思えてならない。
すると、膝を進めてきたのは筆頭家老の本庄実乃であった。
「しかし、定龍。我が軍の多くは越後に田畑を持つ農民たち。
彼らを土地から離し、武蔵国へ持っていくといのは、無理があるのではないか? 」
彼はしゃがれた声でたずねると、定龍はその問いをまるで想定していたかのようにニコリと微笑む。
そして驚くべき事を口にしたのであった。
「ご安心くだされ! 鎮東府に置く兵は越後の農民からは出しませぬ! 」
「ど、どういうことじゃ!? 農民たちから兵を出さぬなら、どこから出すのじゃ!? 」
「あえて言うなら全国……でございます」
「ぜ、全国じゃと……? 」
「関東将軍の名の元、全国に散らばる牢人たちに商人らを通じて声をかけていただきます。
鎮東府にて兵を集めていると……」
「し、しかし牢人たちにあてがう農地などなかろう。耕す事が出来ねば、食うに困るであろう。
いかがするのだ!? 」
この頃、越後の兵たちはみな自分の耕す農地を持ち、食い扶持はその収穫により得ている。
しかしこの事もまた、上杉謙信が思い通りに軍事行動が起こす事が出来ない理由の一つとなっていた。
すなわち雪が深い冬から春先にかけてだけではなく、田植えの時期と収穫の時期もまた兵を動かせなかったのだ。
こうなると余程の理由がない限りは、上杉軍が行軍出来るのは、田植えの終わる五月上旬から収穫までの八月下旬までのわずか四カ月弱となる。
これでは遠征も出来なければ、時間をかけた攻城戦も出来ない。
つまり今の越後兵では、とてもじゃないが、『関東将軍』の務めなど果たせるはずもなかったのである。
そこで『軍師』宇佐美定龍が一番最初に手をつけた事とは、
一年中、いつでも軍事行動が起こせるようにする為の改革……
すわなち本拠地変更と兵の整備だったのである。
では、新たな兵たちに与える食い扶持とは何か。
誰もがその事に頭をひねっていた。
しかし定龍は何でもないように、その回答をさらりと言い放ったのであった。
「金子にございます。田畑の代わりに銭を与えましょう」
「銭だと……」
再びざわめく家老たち。
領地を与えず銭で兵を雇う……
しかしそこで湧く疑問は当然出てくる……
「かような銭をいかにして得るというのか……? 」
開いた口が塞がらない様子の実乃に対し、相変わらず余裕の微笑を携えたまま、定龍は長親の方を向いた。
ーーここで私の番なのですね!
長親も彼の視線に気付くと、小さく頷く。
そして膝を進めて発言を求めたのだった。
「申し上げます! 」
謙信は口に出さず、こくりと頷いた。
すると長親はさらに高い声を大きくして続けたのだった。
「本年より越後布の納め先を、昨年来からの朝倉、浅井に加え、伊達、蘆名、斎藤、織田、六角と成りました事、ここにご報告申し上げます! 」
――ババッ!!!
それはまさに驚天動地。
思わずその場にいる全員が長親の方へと座り直すと、部屋全体が揺れた。
そして……
長親はさらに度肝を抜く言葉で締めくくったのであった……
「その結果、本年の当家の収入は、越後国の税収を含め、およそ十万貫(今で言う約100億円)となる試算でございます」
――じゅ、じゅ、十万だとぉぉぉぉ!?
なおこの頃、関東一円に広大な領地を広げている北条家ですら、その年収は約六万五千貫と言われている。
不毛な大地が広がる越後一国だけで、これだけの年収を得る事がいかに非現実的であるか……
家老たちの中には、あまりの驚きように泡を吹いている者までいる。
その様子を見れば明らかというものだ。
しかし……
定龍だけは何事もなかったかのように、淡々と続けたのであった。
「では今回の作戦に話を移します」
謙信は小さく頷くと、定龍はぐっと睨みつけるような鋭い視線に変えた。
長親はそのあまりの気迫に、ゴクリと唾を飲み込む。
そして定龍は、空気をビリビリと震わせるような声で、高らかと宣言したのだった。
「今回の関東進出戦は松山城の制圧だけが目標ではございません!
鎮東府における当家の基盤を確固なものとすべく、上野国と武蔵国の制圧を目標といたします! 」
ーーな、なんだと!? しかし……それでは……
長親は背筋に寒いものが走った。
鎮東府を置く予定の武蔵松山城は、未だ北条家の城だ。
無論その城にたどりつくまでには、越後の南にある上野国を平定し、その上でさらに南下して武蔵国に入らねばならない。
なおこの時の関東の情勢としては、
相模国に強固な基盤を持つ北条家が、圧倒的な戦力を武器として、武蔵国から上野国にかけて広大な土地と多くの城を持つに至っている。
つまり上野と武蔵は、『相模の獅子』北条氏康の支配下にある訳だ。
ーー北条氏康と徹底的に戦うつもりか……!?
長親は一種の絶望すら感じていた。
それも無理はない。
上杉家と北条家では、食料の収穫量が桁違いと言っても過言ではないからだ。
そして収穫量の違いは、そのまま兵の動員数の差異になる。
ーー兵力の上では、倍は違う…… 無茶だ……
顔を青くしているのは長親だけではない。
柿崎景家などの猛将たちは逆境に燃え上がり、顔を真っ赤に染めていたが、多くの者は長親と同様に、顔面蒼白であった。
そんな中、定龍は清流のような口調で、さらさらと続けたのだった。
「既に上野岩櫃城の斎藤、武蔵忍城の成田、武蔵岩付城の太田、下野唐沢山城の佐野、下野宇都宮城の宇都宮……これらの方々には内々で当家にお味方していただく約束を取り付けております」
「な、なんと!? 」
思わず長親の口から甲高い声が漏れた。
皆の顔が一斉に長親に向けられると、長親は慌てて小さくなって俯く。
そして心の中で、
ーーそんなことあり得るはずもない! なぜ定龍殿は、あんなにも忙しい中で、ここまで手が回っているのだ!?
と、唾を飛ばしながら問いかける。
そして定龍の打った一手に、心の底から震えていた。
実は、北条氏康の関東支配は、まだまだ磐石とは言い難いものであったのだ。
その強引とも言えるその勢力の広げ方に反発する大名たちも多かったのも事実。
定龍はそこを的確についたのである。
未だに北条家が手を伸ばし切れていない、常陸国の佐竹氏、安房国の里見氏などは公然と『反北条』を掲げ、その勢力を伸ばそうと画策しているし、武蔵国や上野国であっても、北条家支配を是としない国衆や大名たちは確かに存在している。
定龍はそんな彼らのうち、上野と武蔵の者たちから援軍を得る事を、既に取り付けていると言う……
ーーもし内側から崩れたなら……北条氏康と対等に、いや対等以上に戦えるはず!
この時点で長親の定龍に対する畏怖の念は頂点に達しようとしていた。
しかし……
定龍の策はこれに止まらなかった……
「さらに鎮東府の設置にあたり必要な銭は、伊達、浅井、朝倉よりお借りして用立てております。
ついてはお屋形様におかれましては、いつでも三国峠を越え、上野から武蔵へと進出されても問題ございません」
まさしく奇策縦横。
二歩、三歩先を読み策を巡らせていく定龍に、家老たちは「よくやった! 定龍!! 」と、口ぐちに彼をたたえている。
しかし当の本人は言いたい事を全て言い終えた後も涼しい顔をして、息一つ乱れていない。
そんな彼の様子に河田長親は、
――もはや化け物だ…… 謙信公が『軍神』なら、定龍殿はさしずめ『龍神』……
と、ただひたすら尊敬の眼差しを向けていたのだった……
そしてしばらくすると、ようやく場が落ち着く。
それを見計らったかのように、定龍がちらりと謙信の顔を見ると、その視線を受け取った謙信は、ゆっくりと立ち上がった。
そして弾けるような声で号令したのであった。
「皆の者!! これより関東鎮圧の戦いを始める!!
出陣の触れは後日!! それまでに入念に準備を進めるがよい!! 」
――ははぁぁぁぁっ!!
家老たちが一斉に返事をすると、部屋が再び揺れる。
それはまるで新たな航海へと出立する前の船のようだ。
この時は、全員がその航海の先にある『光』を疑わなかったのは言うまでもないだろう。
――上杉謙信様と宇佐美定龍殿がいれば、必ずや関東を制する事が出来る! いや……もしかしたら天下さえも治めてしまうのではないか……
長親の興奮は家老たちにも感染る。
彼らの胸は躍り、部屋を出る足取りも軽かった。
ところが……
これよりわずか一カ月後に、彼らが一様に地獄を見ることになるなど……
誰が正しく頭に思い浮かべる事が出来ようか――
色々と新しい名前が出てきて、申し訳ございません。
なるべく図を多くして、読みづらくないように心がけてまいりますので、どうかご容赦いただけると幸いでございます。
※地図もなるべく現在の都道府県が分かるものを利用して、イメージをつけやすくしております
なお本作はフィクションになります。
作品に不要な城や人物はあえて登場させておりませんので、
その点もご容赦願います。