三軍暴骨……関東進出戦①
◇◇
永禄4年(1561年)3月1日ーー
相模国(現在の神奈川県西部)、『無敵のお城』と称された難攻不落の堅城、小田原城。
その城の一室で、三人の男たちが輪になって座り、茶をすすっていた。
その中にあって見るからに利発者の男が、隣にいるこちらはいかにも武辺者といった男に声をかけた。
「孫九郎。今年はどんな一年になるであろうか? 」
話を振られた孫九郎と呼ばれた武辺者は、少し考え込むと、ボソリと呟いた。
「……上杉」
しかしその言葉はあまりにも短く、これだけでは何が言いたいのか、さっぱり分かったものではない。
そこで利発そうな男は、ちらりともう一人を見た。
こちらはいかにも老獪といった風貌の小さな老人だ。
彼はふぅと大きなため息をつきながら口を開いた。
「これこれ、新九郎! 孫九郎の言葉の意味をわしに答えさせるのは、そろそろ辞めにしてくれんかのう……
まあ……大方、越後で関東将軍などほざいておる上杉が、攻め込んでくるのではないか、とでも言いたいのだろう」
孫九郎は老人の言葉にこくりと頷いていることから察するに、どうやら彼の意中をとらえたものであったようだ。
すると老人と孫九郎の視線が新九郎と呼ばれた利発者に集まる。
彼らの視線を受けた新九郎は、口元に苦笑いを浮かべた。
「おいおい! じじ殿も孫九郎もずるいではないか!? 相談したいのは俺の方なのだぞ!? 」
「仕方あるまいて。主が北条家の主人なのだからのう。主の言葉に従うまでじゃ」
幻庵なる老人が口にした「北条家の主人」との通り、新九郎という今年で四十六になるこの壮年こそ……
『相模の獅子』と称され、今や関東の覇者と言っても過言ではない、
北条氏康その人であった――
氏康は既に息子の北条氏政に家督こそ譲ってはいるが、その実権は依然として握り続けている。
つまり実質的には「北条家の主人」なわけである。
そして、孫九郎と呼ばれた武辺者は、
『地黄八幡』と称され、武神と知られる八幡神の化身とまで恐れられた無双の勇士……
北条綱成。
さらに、じじ殿と呼ばれた老人は、
北条家の中では「別格」とされ、政務、外交、軍事と八面六臂の働きをしている人物……
北条幻庵。
つまりここに居る三人は、北条家の屋台骨とも言える者たちなのである。
そして今、北条氏康は問われていた。
上杉謙信に対して、関東における絶大なる権力を室町幕府が保証した今、北条家の取るべき行動とは何か……
氏康は静かに目を閉じる……
彼の心の中にいるもう一人の自分と対話する為……
実は、北条氏康には『軍師』の存在がいない。
なぜなら、『軍師』は彼の心の中にいる、
『もう一人』の北条氏康だったから――
氏康はゆっくりと薄目を開けると、先ほどまでの暖かな雰囲気を一変させた。
まるで能面のような冷たい表情。
そしてその表情に負けぬ程に、凍えるような声で言ったのだった。
「見えたぞ…… 近い未来が……」
その言葉に幻庵がニタリと口角を上げる。
「ほう、よいぞ新九郎。続けてみよ」
そして氏康は変わらぬ口調で続けたのだった。
「上杉は越後を出る。
上野、下野、武蔵をその手に収めんと、牙をむいて……」
「……俺が……止める……」
綱成が鬼のような形相で漏らしたが、氏康は静かに首を横に振った。
「その必要はない。なぜならあやつは知らんからだ。『本当の戦』を……」
「ほう……『軍神』相手に、随分と大きな口を叩くものよのう」
「確かに奴は『軍神』と称される程に強い……
しかしそれは、あくまで局地戦での事」
「局地戦とな……」
「飛車一枚だけでは玉は取れん。
棋盤を大きく使い、ありとあらゆる駒を使わねばな」
幻庵と綱成の表情が固くなると、息を飲んで氏康の次の言葉を待った。
そして氏康はぐっと腹に力を込めて続けたのだった。
「北条は関東全体を使って奴を迎え撃つこととする」
「関東全体……とな……」
幻庵が大きく目を見開くと、氏康は微かに笑みを浮かべて小さく頷いた。
「すなわち序盤は好き勝手やらせて問題ない。
勝って驕ったところを叩く」
氏康はそう言い切った。
しかし、綱成は納得いかないようだ。
「……めんどくさい……初めから叩く……」
と、氏康に恨めしそうな目を向ける。
だが、氏康はそんな綱成をなだめるように言ったのだった。
「魚は脂が乗っている方が旨いであろう。
それは敵も同じ事。
勝って驕る相手を木端微塵にしてくれた方が、実に爽快なものよ。
それにその方が……」
そこで一旦言葉を止めた氏康。
そして……
『相模の獅子』は牙をむいて、ニタリと笑ったのだった――
「その方が、心を粉砕できる」
「まさか……お主……」
「俺は上杉謙信の心を粉砕する。
義理の父である、上杉憲政と同じようにな。
そして二度と北条に歯向かえないようにした後、越後をいただくとしよう」
心を粉砕し、相手を従わせる……
それは『もう一人』の北条氏康が得意とした戦術……
「じじ殿、一つ頼まれてくれ」
「何でも申しつけよ。ただし、西に東にこの老体を動かそうものなら、魂の前に肉体が言う事を聞かなくなるでのう。そこだけは注意せよ」
北条氏康は幻庵の言葉に、ニコリと微笑む。
その顔は先ほどまでの冷徹な『軍師』から、温厚な『総大将』に戻っていた。
そして最後に『総大将』の氏康は、大きな声で締めくくったのだった。
「順手牽羊の計を使うとする!
さあ、始めようか!
北条の戦を!! 」
こうして『相模の獅子』は静かにその牙を研ぎ始めた。
上杉謙信と宇佐美定龍の二人を飲みこまんとして――
◇◇
永禄4年(1561年)5月1日 越後春日山ーー
この年も田植えの時期を終えると、上杉家の重臣たちは春日山に集められた。
もちろん宇佐美定龍もその内の一人。
そして彼は今、当主である上杉謙信の隣にその席を与えられていた。
謙信は全ての家老が揃ったのを確認した後、低い声で口を開いた。
「昨年の大飢饉をここに居る全員の力で乗り切ったこと、あらためて礼を言う。
そしてこれからは、『関東将軍』としての職務を全うすることを、ここで明らかにしたい。
ついては、定龍よりその策を述べてもらう」
全員の視線が定龍の細い体に集まる。
しかし、ここにいる定龍は、以前のように場違いな田舎者などではない。
歴戦の勇士たちの鋭い視線を一身に集めようとも、全く動じる様子もなく、毅然とした態度で胸を張るその姿は、まさに『軍師』と称するに相応しいものだ。
謙信の指名を受けた彼は、一歩前に膝を進めると、ぐっと顎を上げて全員を見渡した。
大きく一つ息を吸う。
その直後、腹に渾身の力を込めると、貫くような声で告げたのだった。
「これより関東の戦乱を治め、民に平和をもたらす為の戦を始めます!! 」
そしてこの後、定龍の口から発せられた策は、この場の全員の度肝を抜くものだった――