重見天日! 永禄大飢饉
◇◇
『永禄大飢饉』――
例年にない冷夏であった永禄二年(1559年)。関東全域が未曾有の大飢饉に襲われた。
なんとかこの年はそれまでの蓄えで乗り切ったものの、翌年の永禄三年(1560年)も同じように飢饉に襲われると、いよいよ領民たちの中で、冬を越せぬ者が現れる事態へと発展してしまったのである。
無論、この年の六月に晴れて『長尾三家統合』を果たし、その名を上杉政虎と変えた、長尾景虎の所領でも、同じ事であったのだ。
「とにかく米を民に行き届かせるのだ!! 城の中に備蓄した米は全て出すのです!! 」
春日山の米蔵に一人の少年の声が轟く。
それは宿老、宇佐美定龍の姿であった。
既に季節は冬。深々と雪が降る中、頬を真っ赤にしながら懸命に定龍は周囲に指示を出していた。
――とにかく一人でも多くの民の命を救う!!
この一心で、居城の枇杷島城と自領の事は、彼の与力である小島弥太郎に任せて、自身は越後国全土に渡る領民救済の指揮を一手に担っていた。
彼は、全城の城主に対して、城の備蓄米を全て農民に配るように書状を飛ばし、さらに本拠地である春日山城の米をも、越後国全土の村々へ運ばせた。
米蔵に自ら足を運び、全身から湯気を立たせながら懸命に米を外へと運び出していく。
そしてそれらをどこへ運ぶのか、細かい指示まで彼の口から発せられた。
既に喉は枯れ、声はかすれている。
全身に汗をかき、彼の手の皮はぼろぼろで米俵には血が滲んでいた。
だが、当の本人はそんな自身の体の事など気にする素振りすら見せず、一心不乱に作業に没頭していたのであった。
ところが……
「いたっ! 」
ついに手の傷が悲鳴を上げると、担いだ米俵がぐらりと揺れた。
しかし次の瞬間……
ーーガツッ!
と、定龍の頭上で音がしたかと思うと、担いでいた米俵が浮いたように軽くなったのだ。
「よいしょっ!
ガハハ!! 定龍!
そんな細い体であんまり無茶するな! 」
「実乃様! ありがとうございます! 」
定龍を助けたのは、本庄実乃。
言わずもがな、筆頭家老であり、戦場に出れば総大将の政虎に次ぐ、第二位の『副大将』の地位の人だ。
既に六十を超えた彼だが、どこからどう見ても四十そこそこにしか見えない、筋骨隆々な体つき。
さらに冬にも関わらず、真っ黒な顔と、若々しさに満ち溢れていた。
「力仕事は俺らに任せよ!! ガハハ!!
よしっ! てめえら!! もう一働きするぞ! 」
ーーオオッ!!
人望において上杉家随一の彼は、若い連中とともに米の運び出しに精を出していたのだった。
そんな本庄実乃の活躍もあり、一両日中には春日山の備蓄米は捌けるに違いない。
しかし、到底春日山の備蓄米だけで、越後全体の民たちが厳しい冬を乗り切れるものではない。
定龍は米蔵での作業を本庄実乃に任せると、疾風のようにとある場所へと駆け出していった。
彼が次に向かったその場所は……
越後国の政庁、御館ーー
まるで息を止めたままの全速力で御館に入った彼は、すぐに一人の男を呼んだ。
「河田殿!! 金子の方の準備はいかがですか!? 」
「はいっ! 定龍様! 城下の商人らから二千貫をかき集めて参りました!! 」
二千貫(現代で言う約二億円)もの大金をわずか数日の間にかき集めてきたと報告したのは、なんと定龍と同い年の少年。
――淡海の神童
とまで称された近江国出身の新星、河田長親であった。
先の長尾景虎上洛の際に、景虎自身に見出され、さながら定龍と肩を並べるように出世していった彼は、勘定方の最高責任者である勘定奉行を若干十七で任されていたのであった。
そして彼は見事に宿老、宇佐美定龍の期待に応えて、大金を調達してきたのだ。
「よしっ! よくやりました!! 」
定龍と長親は互いに視線を交わすと、微かな笑みを浮かべた。
河田長親はその美貌も近江国では知られている。
無骨な男の多い上杉家において、定龍と長親の二人が揃うと、まるで一枚の絵画の中にあるように浮き上がって見える。
しかし互いに笑みを浮かべたのも束の間、すぐに二人とも互いのすべき事に頭を巡らせていた。
長親の方から、この後の事を定龍に進言する。
「定龍様! では、それがしはこの金子をもって米に変えて参ります!! 」
すると定龍は早口で返した。
「長親殿! 米でなくともよい! 口にする事が出来るものなら、芋でも蕎麦でもなんでもよいです!
そしてそれら全てを農民に『貸しつけ』とし、配布しなさい!」
「貸しつけ……しかし民たちにそれを返済するあてなど……」
「大丈夫です! 単にばらまいただけでは今後の威信に関わります! だからここは貸しとするのが上策!
後の事は私に任せなさい! 」
「かしこまりました! では、貸しつけの手はずを整えます!! 」
まるで餅つきをしているかのように、阿吽の呼吸で、互いの意思が伝わる。
まさにそれは傑物同士の以心伝心といえよう。
定龍と長親は互いに目線を交わして頷き合うと、次の瞬間には共に部屋を飛び出していった。
河田長親が御館の城を出て商家の元へと走っていった一方で、定龍は当主の上杉政虎の元へと急いだ。
そして城主の間の前までやってくるなり、大きな声で中へ呼びかけた。
「お屋形様! お願いしたい儀がございます!! 入ってよろしいでしょうか!? 」
「うむ、入れ」
「ありがたき幸せ!! 」
流れるような手つきで襖を開けた定龍は、部屋に入るなり政虎に深々と頭を下げた。
なお政虎はこの火急の事態において、彼が必要とする最低限の判断は行っていたものの、実務については全て定龍に委ねていた。
しかしそれでもいざ何かあれば常に動けるように、城主の間で仁王のような険しい顔つきで鎮座していたのであった。
「申し上げます。お屋形様におかれましては、一つ触れを出していただきたく存じます」
「触れ……か。いかような触れであろうか」
政虎の目つきは鋭いまま。
さながら得物を捕えた猛虎のようだ。
しかしその視線を真正面に受け止めながら、定龍は彼よりもさらに厳しい眼光で告げたのだった。
「徳政令でございます! 」
「徳政令……」
徳政令とは、主に民や武士が負った負債を無効にする命令のことである。
通常は土倉と呼ばれる、いわゆる高利貸からの借金を無効とする場合が多いが、今回はその債権者が上杉家そのものになる。
つまり民にとっては、実質的には上杉家から無償で施しを受けることにはなるが、建前上は上杉家に対して大きな『貸し』を作ることになるのだ。
無論これらは『三家統合』を果たしたばかりで、未だお家が不安定な上杉家にとっては、足元を固める為の強い追い風となろう。
転禍為福――
すなわち禍い転じて福となす……
逆境の中にあって、定龍はとっさの判断で、お家の為の策を巡らせたのであった。
しかし、そこには一つの懸念があった。
それは……
「それでは商人たちが納得いかないのではないか? 」
そう、まさに政虎がずばりと言い当てた通りであった。
なぜなら河田長親がかき集めてきた二千貫もの大金は、商人たちから上杉家に対する貸付けである事は明らかだからである。
つまり農民たちの借金を無効にすることは、すなわち商人たちからの上杉家に対する借金も無効とすることを意味するのだ。
これでは農民たちは味方につけられようとも、逆に商人たちを敵に回してしまいかねない。
しかし、その事に気づかぬ定龍であるはずもない。
彼は全く動じる素振りすら見せず、穏やかな笑みを携えたまま続けた。
「諸役免除条目にございます」
「諸役免除条目か……」
諸役免除条目とは、いわゆる租税や軍役の免除のことを言う。
越後国内において商売をすれば、その売上の一部を税として納めねばならぬのが通常の掟であるが、それを免税せよと定龍は進言したのだ。
つまり商人たちしてみれば、免税される分がそのまま利幅につながる。
しかも軍役も免除されれば、戦によって商売を邪魔されることもなくなるのだ。
もしそれが為されれば、商人たちは狂喜乱舞するに違いない。
「五年……五年の免除といたしましょう」
「うむ……」
政虎は静かに目を閉じると、深く考え込んだ。
確かに諸役免除条目を行えば、商人たちの不満は和らぐであろう。
しかし……
それは、そのまま上杉家の今後の身入りがなくなることも意味しているのを忘れてはならない。
ただでさえ、今回の飢饉で、食料も金銭も蓄えを全て無くした。
その上で、今後の収入も減るとなると、果たして領内経営が成り立つのだろうか……
政虎はその事が心に引っかかっていたのである。
しかし定龍はあくまで冷静に一言加えたのだった。
「越後布の新たな販路として、越前朝倉、近江浅井の二家との取引が決まりましてございます」
「な……なんと……」
定龍の言葉に思わず政虎は驚愕し、目を見開いた。
それもそのはずだろう。
越後布とは、越後の名産である青芋を原料とした布製品で、主に高位な武士や貴族たちの着物に用いられている、言わば高級品である。
その取引は専ら京の座(市場)で行われていたのだが、幕府の権威が衰えた今、その取引で大きな利益を得るのは難しくなっていた。
そこで定龍は、京の座だけではなく、直接力のある大名家へ卸す事を画策し、早くも朝倉氏と浅井氏の二氏に対して定期的に納入する事をまとめてきたというのだ。
誰が耳にしても驚くものだろう。
そしてこれにより例え商人たちへの租税を免除したとしても、それを補って余りあるほどの、莫大な利益を得られる事は火を見るより明らかであった。
なおも驚きの表情で定龍を見つめている政虎に対して、定龍は力強い口調であらためて言った。
「お屋形様、どうかご決断を」
ここまで聞けば、首を縦に振らない理由などない。
「うむ、ではお主の言う通りにしよう」
定龍はニコリと微笑むと、再び頭を下げた。
「ありがたき幸せにございます。では、私は早速触れの支度をいたしますので、これにて失礼いたします」
用件が終わればすぐに、新たな仕事へと取り掛かる定龍。
再び流れるような所作で、彼は部屋を後にしようとした。
すると、政虎はその背中に対して、先ほどとは大きく異なる優しい口調で声をかけたのだった。
「定龍、よくここまでやってくれた。とにかく体だけは労れ」
定龍は背中を向けたまま、頭をペコリと下げる。
「もったいなきお言葉にございます」
定龍はそう言い残して足早に去っていったのだった――
………
……
越後国内の全ての城主に対する徳政令の触れを出し終えた定龍は、ようやく春日山の屋敷に戻ってきた。
思えばこの三日間、ろくに物も食べず、ほぼ不眠不休で仕事に没頭したのだ……
この屋敷に入ったのも随分と久方ぶりに感じる。
懐かしさというのは、眠っている疲れを一気に引き出す。
定龍は急に体が鉛をつけたかのように重く感じられることに、戸惑った。
しかし……
「おかえりなさいませ、定龍様」
そんな彼を迎え入れたのは、勝姫だった。
いつもと変わらぬ優しい笑顔を見せる彼女。
定龍も思わず口元を緩ませると、途端にまるで羽が生えたかのように体が軽くなっていった。
定龍は枯らした声で答えた。
「ええ、今戻りました」
勝姫は、定龍の肩に積もった雪を振り払いながら、穏やかな口調で言った。
「夕げの支度が整っております」
「ありがとう。しかし、まだやる事が残っているのだ。先にそれを片付けてから頂くとしよう」
定龍の言葉に勝姫は目を丸くしたが、それも束の間、再び柔らかな笑顔に戻ると、
「かしこまりました。では、用事が終わりましたらいつでもお声かけくださいませ」
と、小さく頭を下げたのだった。
自室へと入る定龍。
外は相変わらず雪が降り続いているが、この部屋は暖かい。
それはいつ定龍が戻ってきてもいいように、勝姫が暖を取ってくれていた事を示していた。
定龍の胸に勝姫の優しさが沁みる……
そして机の前にすわるなり、御館から持ってきた書類の山を広げた。
「ふぅ……もうひと踏ん張りですね」
定龍はそう漏らすと、腹に力を込める。
ちりちりと油をしみこませた麻の芯が燃える音だけが、部屋の中に聞こえていた。
定龍はそんな静寂と仄かな灯りの中、残された仕事に没頭したのであった――
そして……
「定龍様……? 」
それは既に夜の帳が下りた頃のこと……
なかなか夕げに顔を見せない定龍の事を心配した勝姫は、彼の部屋をそっと訪れた。
すると……
そこには机にうつぶせになって、すやすやと気持ち良さそうな寝息を立てている定龍の姿があったのだ。
どうやら全ての仕事を終えたのだろう……
定龍の顔は充実感と達成感に溢れていたのだった。
その様子に勝姫は、くすりと笑みを浮かべる。
そして、そっと自分が羽織っていた上掛けを彼の肩からかけると……
ーーチュッ……
起こさぬようにそっと、その白い頬に口づけをしたのだった。
「御苦労様でございます」
頬を赤く染めた勝姫は小さな声でそうつぶやくと、彼の横に座り、彼の目が覚めるのをじっと待ち続けたのだった――
………
……
こうして激動の一年は終わり、新たな年を迎えたーー
そして春の来ない冬などない……
重見天日ーー
暗黒とも言えた『永禄大飢饉』……
なんと越後国では、ほとんど死者を出すこともなくやり過ごす事が叶ったのである。
それは、宇佐美定龍の縦横無尽な働きによるところだけではない。
上杉政虎以下、上杉家の家中、そして越後国の商人たちや農民たちに至るまで全員の『和』によってもたらされた『奇跡』であった。
そしてその『奇跡』を忘れぬよう、
上杉政虎は一つの決断をする。
それは……
今後二度とこのような大飢饉が訪れぬように願いを込めて、仏門へと入ったのだ。
つまり……
上杉政虎から……
上杉謙信へと名を変えたのだった。
奇しくもちょうど前年の同じ頃、宿敵、武田晴信も同様に仏門に入り名を変えていた。
武田信玄、と……
つまりこの時、
上杉謙信と武田信玄が誕生したのだったーー
なお、史実においては『永禄大飢饉(1559年)』への対応は、以下の通りでした。
北条氏康…仏門に入り、家督を嫡男氏政に譲る。そして『代替わりの徳政』として、徳政令を出し、危機を乗り越えた
武田晴信…なんとか危機を乗り越えると、その責任は自分にあると自戒し、仏門に入り、武田信玄と名乗った
上杉政虎…徳政令を出すと、直江津の商人たちに租税免除の触れを出す。しかし、それでも危機を乗り越える事が出来ず、北条領へ侵攻し、略奪行為を繰り返した……
本当に定龍くんがいて良かったです。




