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【幕間】諦めの悪い系譜

◇◇

 永禄3年(1560年)6月8日――



 それは宇佐美定龍と勝姫の二人が祝言を挙げたわずか三日後のこと。

 

 

 長尾家宿老、宇佐美定満は突然隠居する事を長尾景虎に申し出た。

 景虎の隣に座っている定龍にとっても、その事は初耳で、思わず目を丸くしてしまったのだった。

 

 しかし驚くべき事は、それだけではなかった。

 

 

「今日を持って、我が居城の枇杷島びわじま城も、定龍に譲り、しばし旅に出とう存じます」



「なんと……急にいかがしたのだ? 」



 つい先月までは武田晴信との戦いにも、総軍の目付けとしての任務を立派にこなしていただけに、定満が完全に軍務と政務から離れるというのは、にわかに信じがたいものだったのである。

 

 

 驚きを隠せない景虎と定龍に対して、定満は口元を緩ませながら快活な声を上げた。

 

 

「いやはや! この歳にもなれば、腰の痛みがひどくてのう! 近くに良い温泉が湧いているとうかがったゆえ、暫くの間ゆっくりしようかと、思っている次第ですじゃ! はははっ! 」



「うむ……さようか。くれぐれも道中気を付けるのだぞ」



「ありがたきお言葉にございます。では、本日はこれにて」



 定満は一つ頭を下げると、いつも通りの仕草で部屋をあとにしていったのだった。

 

 

 

………

……

 御館おたての景虎の部屋を出た定満は、廊下から外の空を見上げた。

 

 この日はあいにくの雨。

 

 灰色の分厚い雲が空を覆い、雨のしずくが地面に大きな水たまりを作っている。

 

 その様子に、定満は微かな笑みを漏らした。

 

 

「ふふ、最後の日にふさわしい空模様じゃ」



 初夏とは言え、陽射しがないと廊下はひんやりと感じる。

 定満は一つ息を大きく吐くと、どこか決意を込めたかのように右足を一歩踏み出した。

 

 しかしそんな彼を足止めする声が背中からかけられたのである。

 

 

「定満様。少しよろしいでしょうか」



 それは定龍だった。

 

 明らかに定満の事を心配しているように、眉をへの字にひそめている。

 その様子を見て、ふぅとため息をついた定満は、淡々とした口調でたずねた。

 

 

「わしに何か用がありそうだのう。聞きたい事はなんじゃ? 」



「い……いえ……」



 定龍は何か言いづらそうに口ごもっている。

 

 定満は「まったく……最後の最後くらい、すんなりと行かせてくれんかね」と言いながらも、近くの部屋に入るように定龍を促したのだった。

 

 


………

……

 そこは様々な書類がしまわれた部屋。

 

 長尾家の過去のありとあらゆる記録が残された部屋とも言えよう。

 定満はちらりとそれらの書類に目を走らせると、静かに床の上に腰を下ろした。

 

 定龍もまた、その部屋に誰もいない事を確認した後、ちょこんと腰を下ろす。

 

 それと同時に定満の方から口を開いた。

 

 

「こたびの隠居の話……びっくりさせてしまったようじゃのう」



 定龍は目を細めると、口を閉ざしたまま小さくうなずいた。

 

 

「定龍よ……人は誰でも『役目』というものがある、とわしは思うておる。

その『役目』が終わった……ならば、もはや長居は無用。

それだけの事じゃよ」



「役目……でございますか」



「わしの場合は、お屋形様が長尾家家内の『不和』を正し、立派な当主となられること……それを補佐するのが、わしの『役目』であったと思うておる」



「そのお役目は果たしたということでしょうか? 」



 その問いに定満は、ふっと口元を緩めると、横目で定龍を見ながら答えた。

 

 

「もっとも……家中の『不和』を正したのは、今わしの目の前に座る英雄じゃがのう」



 定龍はぎゅっと口をつぐむと、顔を真っ赤に染めた。

 するとますます口角を上げた定満は続けたのだった。

 

 

「かかか、そう固くなるでない。お主が長尾家の英雄である事は誰もが疑いようもない事実じゃ。だから、もっと胸を張れ。

まあ、何はともあれ、結果としては家中に『和』がもたらされ、お屋形様は長尾三家を代表した立派な当主になられたではないか」



「しかし、まだ長尾三家統合の儀は執り行われておりませぬ。せめて、お屋形様の晴れの舞台を目にしていただいてから、御隠居されてもよろしかったのではないでしょうか? 」



 それはもっともな意見だった。

 

 『長尾三家統合』の儀まではあと十日を切っている。

 その儀に参加する為に、京からわざわざ関白、近衛前久も越後へ下向している程なのだ。

 

 まさに一世一代の晴れ舞台といっても過言ではないだろう。

 

 長年、景虎に仕えてきた定満がこの儀に参加しないというのは、寂しくもあり、不自然とも言える。

 

 

 しかし定満は静かに首を横に振ると、低い声で答えたのだった。

 

 

「大馬鹿者で身勝手と思われても仕方ないことかもしれぬがのう……

わしがここまで無心でお屋形様に奉公してこれたのは、せがれの存在が大きかったのじゃ」



「せがれと申しますと……定勝殿……」



「あやつが情熱をもって取り組んだ夢を、わしが叶えてあげたかった。

それがせめてもの『償い』である、その一心だったのじゃ」



「償い……」



 定満は目を閉じると、溢れだそうとする感情を胸の内にしまい込むように、淡々とした口調を保って続けた。

 

 

「あやつが戦場で窮地に立たされた時、そして家老から下ろされた時……わしは何もしてやれんかったからのう……」



 そこで言葉が切れる。

 

 しかし、その続きは聞くまでもないだろう。

 

 

 定勝が叶えたかった夢は、彼自身の命を懸けた行動によって叶えられた。

 しかし、そのせいで定勝は命を落としてしまったのだ。

 

 息子に先立たれた定満がいかに無念であったか……

 そして、己の無力感と深い哀しみは、定満をこれ以上長尾家に留まらせる事を許さなかったに違いない。

 

 それでもこれまでどうにか過ごしてこれたのは、

 

――定勝の忘れ形見である勝姫の婚儀が無事に済むまでは!


 という最後の意地のようなもの。

 

 それが無事に終わった今、もはやこれ以上長尾家に奉公するのは、針のむしろに座っているような心持ちであったことだろう。

 

 

 定龍は、定満の胸中をそのように推し測ると、何も口に出す事は出来なかった。

 

 

 しばらくした後、定満はゆっくりと立ち上がると、未だに硬い表情の定龍に穏やかな笑顔を向けた。

 

 

「今日は雨模様だからのう。出立は明日にする。

だから今宵はお主とお勝と水入らずで夕げを頂くとしようかのう」



 定龍は目を丸くして定満を見つめた後、彼もまた笑顔になって返事をしたのだった。

 

 

「はいっ! 」



 せめて自分が明るく接すれば、定満の心も少しは晴れるのではないか。

 定龍はそんな風に祈るような思いを抱きながら、定満と共に春日山の屋敷へと向かっていったのだった――

 

 


………

……

 それはいつにも増して賑やかな夕げであった――

 

 

 定満はいつも以上に酒を飲み、つられるように定龍だけではなく、なんと勝姫までが酒をたしなんだ。

 

 自然と話し声は大きくなり、他愛もない話題でも皆が腹を抱えて笑った。

 

 定満にとって、心から楽しいと思える夕げは、果たしていつぶりであろうか。

 

 それは……

 

 定勝が元気な産声を上げたあの日……

 

 定勝が元服をしたあの日……

 

 定勝にお富が嫁入りしてきたあの日……

 

 そして、お勝が生まれたあの日……

 

 

 思えば、夕げを心から楽しんだのは、数えるほどしかなかった。

 

 

 その全てに、

 

 

 息子の姿があった。

 

 

 しかし今日は息子の姿はない……

 

 

 にも関わらず、彼は心の底から夕げを楽しんだ。

 

 

 しかし……

 

 

 定龍とお勝の二人が退出し、部屋に一人残されると、

 急に寂しさが胸を襲った。

 

 

 それでもまだ、彼は部屋を出る訳にはいかなかった。

 

 

 なぜならもう一つだけ、すべき事が残っていたからだ。

 

 そして、彼はそれを実行すべく声を上げた。

 

 

「佐彦、佐彦はおるか」



 定龍の元で奉公している小姓、佐彦は、彼の呼びかけにすぐさま部屋の外から返事をした。

 

 

「はっ! ここにおります! 」



「うむ、ではこっちへ来い」



「かしこまりました」



 佐彦は素早く部屋へと入ると、部屋の隅で畏まった。

 そんな彼に対して、目を細めながら定満は「こっちへ来い」と手招きする。

 

 少し戸惑っていた佐彦であったが、無碍に断る訳にもいかず、定満の側へと寄っていったのだった。

 

 

「ほれ、今日は無礼講じゃ。お主も一献飲むとよい」



「し、しかし、私は……」



「遠慮などするものではない。ほれ、早く! 」



「はい……」



 佐彦は定満の言われるがままに、盃を手に取る。

 すると定満はその盃になみなみと酒を注いだ。

 

 それをぐいっと飲み干す佐彦。

 定満はその様子を、嬉しそうに笑顔で眺めていたのだった。

 

 

 そして……

 

 何献か酒を酌み交わした後のこと――

 

 

 定満はそれまでの笑顔に寂寥感を加えて言った。

 

 

「佐彦、お主に一つお願いがあるのじゃ」



 急に調子が変わった事に、佐彦は目を丸くしながらも、すぐに姿勢を正した。

 

 

「はい、私に出来ることであれば、何でもお申しつけくださいませ」



「うむ……いや、なに……そう難しい事ではない……」



 言葉を濁す定満。

 佐彦はどうしてよいか分からず、ただ真剣な顔つきで定満の事を見つめていた。

 

 

 すると……

 

 

 定満の瞳から、ぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちてきたのだ。

 

 

「定満様!? 」



 慌てた佐彦は定満に近寄ろうと身を乗り出したが、定満はそれを手で制した。

 そして、絞り出すように声を出したのだった。

 

 

「どうか……どうか、定龍とお勝のこと……よろしく頼む! この通りじゃ……! 」



 定満は深々と佐彦に対して頭を下げた。

 

 

「定満様! おやめください! 私などに頭を下げるなど! 」



「頼む……! この通りじゃ!! 」



「分かりました! 承知いたしましたゆえ、どうか頭を……! 」



 定満は佐彦の言葉に頭を上げる。

 その頬は涙に濡れ、表情はどこか思いつめたようであった。

 

 

 佐彦の胸に何か嫌な予感がよぎる……

 

 

「定満様! 佐彦からもお願いがございます!

どうかこれからもお元気でいらしてくだされ!!

定満様がご健勝ですと、母が喜ぶのです!! 」



 それは無意識の言葉であった。

 

 佐彦の優しさとも言えよう。

 

 定満は愛おしい目で彼の事を見つめると、言葉に出さずに大きく頷いた。

 

 そして間髪入れず、懐から一通の書状を取り出したのである。

 

 

「これをお屋形様にお渡しするよう、定龍に」



「えっ…… なぜ私に……?」



「よいのじゃ。お主の手から、明日にでも渡しておくれ」



「は、はい……」



 佐彦がそれを受け取ると、定満は「では、今日はもう下がって休め。お主の母上にもくれぐれもよろしくな」と彼に告げた。

 

 丁寧に頭を下げて部屋を後にしていく佐彦。

 

 彼を見届けた後、定満はゆっくりと立ち上がった。

 

 

 彼もまた部屋を出て、縁側から空を見上げる。

 

 

 いつの間にか雨は上がり、雲間からは星の明かりが目に映る。



「許せ、定勝。諦めの悪さは、宇佐美家の系譜とも言えよう」



 彼はそう呟くと、静かにその場を後にした。

 

 

 そして、翌朝……

 

 

 宇佐美定満の姿は、春日山のどこにも見当たらなかったのだった――

 

 

 

………

……

 永禄3年(1560年)6月11日――


 それは宇佐美定満が春日山から姿を消してから、わずか二日後の事である。

 そして『長尾三家統合』の儀まであと五日に迫ったその日のこと……



 春日山城に大きな悲報が届いた。



 それは、上田長尾家当主、長尾政景の死であった――



 長尾政景は本庄繁長の乱を引き起こし、色部勝長の死を招いた事を咎められた罪で、居城の坂戸城に謹慎中の身だった。

 しかし彼は、長尾景虎の姉であり政景の妻でもある、綾の方のとりなしにより、『長尾三家統合』の儀には参加出来る見込みとなっていた。


 その為、坂戸城から春日山城へ出立する事になっていたのであったが、その前日の出来事だったのである。


 坂戸城近くの野尻池という池で、船を浮かべて月見を楽しんでいたところ、不幸にも船が転覆してそのまま帰らぬ人となってしまったらしい。


 そして……



 同じ船には宇佐美定満の姿もあった……



 彼もまた政景とともに命を落とした。



 長尾景虎は今回の事を「不慮の事故」として片付け、それ以上の真相の追求は行わなかった。



 そして、『長尾三家統合』の儀は予定通りに行うことを、あらためて強調した。



 長尾政景、享年三十四歳。

 宇佐美定満、享年七十二歳。


 

 なお、上田長尾家は、嫡男の長尾時宗が勘当となり、残る男子は未だ四歳の卯松うまつのみ。

 しかしその卯松は、未だに正室を持たぬ長尾景虎の養子として迎え入れられる事も決まったのだ。



 これにより上田長尾家は完全に取り潰しになる事が決定的になったのだった。



 こうして、『上田派』は完全に消滅した……









 ……かに思われた。



 しかし……



 なんと長尾政景の無念は、一筋の血脈となって流れていたのである。


 今は消えそうな程に微かなその流れが、

 これより数十年先に大きな濁流になるなど、誰が想像出来ようか……



 それほどに大きな流れを生み出せる程の実力と智謀を持つ男は、

 この時はまだ乳飲み子として坂戸城城下の屋敷で、母の手の中に抱かれている。


 その男の名は……




 直江兼続なおえかねつぐ――




 彼もまた宇佐美定龍という、本来あるべきでない存在によって、大きく運命を変えられることになるのだが……


 

 母の手の中で、気持ちの良い寝息を立てている彼が、そのような事を知る由もなかったのである―― 














 



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