【幕間】笑顔の祝言
◇◇
それは勝姫の一言によるものだったーー
ーーお父上がこの世にあるうちに、祝言を挙げさせて頂きたいのです
もちろん宇佐美定勝の肉体はその役目を終え、あれほど大きかった体も今では小さな骨壷に収まっている。つまり、後は墓に入るのを待つばかりだ。
しかし、四十九日の過ぎぬうちは、その霊魂は現世にあると日本では古来より信じられている。
それまでの間は喪に服し、祝い事はせぬというのが通例というものだろう。
ところが勝姫はその習慣に反して、一日でも早く祝言を挙げたいと言う。
その真意は至って単純なものであった。
――お父上があの世へ旅立って、新たに生まれ変わるその前に……私のお父上であるうちに、私の晴れの姿を見ていただきたいのです
と……
そして彼女の強い意向に沿う形で、宇佐美定龍が春日山に戻ってからわずか十日もしない、永禄3年(1560年)6月5日に祝言は開かれる事になったのだった。
………
……
そして……
宇佐美定龍と勝姫の婚儀当日ーー
初夏にも関わらず、この日は爽やかな秋晴れを思わせる陽気の中、定龍はとある場所で仰向けに寝転がっていた。
それは春日山城から少し離れた丘の上。
膝の真下辺りまで伸びた草は、寝そべる彼の全身を見事に隠している。
誰に邪魔をされる事もなく、
ただ一人で空を見上げている定龍。
澄み切った青い空に、ふわふわと漂う白い雲。
その雲を見ながら、彼は一人の男を心に想っていた。
それは言わずもがな、彼の『友』であり、『父』でもある宇佐美定勝その人であった。
「定勝殿、私はどうしたらよいのでしょう……」
今日は彼にとっても晴れの日だというのに、彼の心はどこかすっきりとしないものに覆われている。
出自も分からぬ農民の自分が、宇佐美家を継ぐ事に対する重責。
宇佐美家の一人娘として大事に育てられてきた勝姫が自分の妻となる事への言い表せぬ罪悪感。
そして、将来に対する漠然とした不安……
新星のごとく現れ、飛ぶ鳥を落とす勢いで出世していった『傑物』であっても、その中身は思春期真っただ中の少年なのだ。
祝言を挙げるその日だというのに、こうして一人で物思いに耽ってしまうのは、彼もまた人間であるという、何よりの証と言えよう。
もちろんただ雲を見つめていても答えなど出ぬ事は分かっている。
それでも祝い事の準備に追われて慌ただしい屋敷の中にいるよりは、鳥のさえずりと風が草花を揺らす音しかせぬ丘の上の方が、だいぶましであった。
答えなき答えを求め、彼は静かに目を閉じた。
目の前の景色が黒一色に染まると、視覚以外の感覚が研ぎ澄まされていく。
すると自分の身がこの世のものでなくなるような、そんな不思議な浮遊感を全身に感じた。
まるで大空に漂う雲のように――
……と、その時であった……
「定龍さまぁぁぁぁ!! また、ここにおられるのでしょう!? 」
と、聞き慣れた大声が、彼の鼓膜を震わせたのである。
急速に体重は元通りに戻り、現実へと引き戻されていくと、地面から伝わるひんやりとした土の温度が感じられる。
すると心の中が再び塞がれていくのが分かった。
――立ち上がる事は恐怖だ。
そんな考えが脳裏に浮かぶと、彼を呼ぶ声に答える事も出来ず、彼はただ草むらの中に仰向けになり続けていたのだった。
しかし……
一陣の風が、そんな彼を叱咤した……
――おい、しけた面してんじゃねえよ
と――
びゅっと強く吹いたその風は、草むらの中にいる彼の姿を露わにする。
すると彼の事を呼んだ人物の目にも、その姿が映ったのであった。
「定龍様!! 何をしておられるのですか!? 」
なおも仰向けになっている定龍の視界が、突然青い空から、その人物の顔で埋め尽くされた。
それは、勝姫の顔。
いつもと異なり白粉と紅で水化粧を施した彼女の顔は、いつにも増して大人っぽく、定龍は思わずドキリと胸が高鳴った。
しかし当の本人は、いつも通りだ。
小さな頬をぷくりと膨らませながら、定龍の腕をぐいっと掴む。
そして定龍を強引に立たせると、口を尖らせて小言をつけたのだった。
「もう、屋敷の中は大騒ぎになっておるのですよ!
弥太郎なぞは、『辰丸は、鬼嫁怖さに退散したんじゃねえか! 』と大笑いしていたくらいです!
まあ、拳骨一つで黙らせましたが……」
花嫁衣装の白い打掛は羽織っていないものの、小袖は純白。
化粧も相まって、普段のあどけなさと可愛らしさを残した彼女とは全く雰囲気が異なっている。
定龍は思わずその姿に見とれると、ぼそりと素直な気持ちを吐露した。
「……美しい……」
その言葉の瞬間に、勝姫の白い頬が桃色に染まっていく。
そして彼女はくるりと定龍に背を向けた。
「もうっ……! 定龍様は意地悪です! 私をいつも困り顔にさせて……」
定龍は彼女の背中に向けて、ぺこりと頭を下げる。
「申し訳ございません」
「謝る必要なんかありません。ただ……」
「ただ……? 」
気恥ずかしさのあまり、勝姫の言葉が止まる。
しかし彼女は大きく一つ息を吸うと、腹に力を込めて定龍に告げたのだった。
「ただ……あまり難しいお顔をしないでください。
私は、定龍様が側にいてくださるだけで十分なのですから」
今度は定龍の顔が真っ赤に染まっていく。
体中の血が一気に沸き立つと、まるで雷が落ちたような衝撃が走った。
すると爽やかな風が、再び定龍に言葉を投げかけたのだった。
――いいか。物事は単純に考えろ
定龍の頭に二つの選択が浮かぶ。
自分は今……
幸せか?
それとも、
不幸か?
と――
彼は迷う事はなかった。
「すとん」と心の箍が外れた音がする。
そして次の瞬間には、体がふわりと浮いてしまう程に軽くなった気がした。
――ダッ……
定龍は一歩踏み出す。
それは肩幅ほどもない、小さな一歩だ。
しかし彼の心を覆っていた不安や恐怖という衣を脱ぎ捨てた、大きな一歩。
その足音に、勝姫が振り返った。
すると定龍の目に飛び込んできたのは……
柔らかで眩しい笑顔――
置き去りにしてきた不安と恐怖が、その笑顔によってかき消されていった。
そうして定龍の心が晴れていくと……
彼もまた笑顔になった――
――ギュッ!
定龍が強く勝姫の手を握ると、彼女もまた負けない力で彼の手を握り返した。
勝姫の手は、少しだけ汗に濡れている。
これによって、定龍はようやく気付いたのだ。
彼女も今日この日からの新たな生活や未来に不安であったことを……
それでも定龍だけには笑顔を見せよう、
そうやって生きていこうと、心に誓ったことを……
ならば自分はどうするべきか……
それはすごく単純なことだ。
ただ彼女と幸せに、笑顔で過ごそう――
そして、定龍は弾けるように声をかけた。
「さあ、行きましょう! 」
「ええ、定龍様! 」
二人の影が一つとなって春日山へと向かっていく。
すると一陣の風が彼らの背中を押した。
それは……
優しくて、
暖かくて、
でもちょっぴり素直ではない風――
――見せつけてくれるじゃねえか…… まあ、幸せにな
◇◇
乱世にあって、この日の春日山は笑顔で溢れた。
本庄繁長と小島弥太郎が、酒の飲み比べで周囲を湧かせれば、宇佐美定満と柿崎景家は下手な踊りで笑いを誘う。
甘粕景持、千坂景親そして加地春綱……
その他大勢の長尾家の家臣たちが肩を抱き合いながら、賑やかに囃す。
そして、突然現れた長尾景虎と近衛前久に、全員の目玉が飛び出て、その様子を見た景虎と前久が大笑いした。
もはやそこには『景虎派』も『上田派』もない。
唯一そこにあるのは『和』の一文字。
それは宇佐美定勝が目指した『夢』の形――
いつの間にか夜の帳が下りている。
綺麗な月が彼ら全員を祝福するように、春日山を黄金色に照らしていたのだった――
本作の中では、私の最も好きなお話になりました。
ご一読いただき、誠にありがとうございました。
これからもよろしくお願いします。