破邪顕正! 磐船の戦い③
永禄3年(1560年)5月24日 磐船――
「もうすぐじゃ…… もうすぐ一万の大軍がわしの元に集まり、本庄城に籠る敵を蹴散らすはず。
さすれば越後の国難を救ったわしこそが長尾家の棟梁に相応しい男ではないか!
違うかぁぁぁ!!? 」
広大な荒れ地の中にあって、長尾政景の奇声が虚しく響き渡る。
しかし側に居る竹俣重綱や加地春綱が政景の言葉に反応することはなかった。
それは彼らだけではなく、ここにいる五百の兵も同じ事。
彼ら全員は、ただ押し黙ったまま政景の様子を眺めている。
それらの痛々しい視線を一身に浴びた政景は、急に恥ずかしくなったのか、赤い顔を元に戻すと唇を震わせながら笑みを浮かべた。
「すまぬ、すまぬ。わしともあろう者が取り乱してしもうた。
しかし皆遅いのう。かように準備に手こずっていては日が暮れてしまうではないか。ははは……」
どんなに声の調子を変えようとも、もはや政景の言葉は誰の心にも響かない。
その事は政景の胸に、鋭い刃となって突き刺さると、掻き毟りたくなるほどの痛みとなって彼を襲ったのだった。
……と、その時のこと――
――前方より軍勢の影あり!! こちらに向かって近づいて来ております!!
と、物見の大声が政景の耳にも確かに届いたのである。
その瞬間に、政景の全身の毛がぞわりと逆立ち、それまでに失っていた血色が戻ってきた。
――ようやく自分に味方する大軍が現れたのだ!!
そう信じ込んだ政景の表情は、まさに喜色満面――
彼は嬉しさを爆発させて傍らの竹俣重綱の肩をバンバンと叩いた。
「ほれ、見ろ!! やっぱりわしの元には人が集まる!! がはははっ!! よい! よいぞ!!」
そして政景は馬にまたがると、自らその軍勢を出迎えに磐船の平原を駆けて行ったのである。
その様子に慌てて竹俣重綱と加地春綱も続いていったのだった。
「来たぞ! 来たぞ! これでようやく憎き悪餓鬼を討ち果たせる! 何なら城ごと焼いてしまってもよいな! はははっ! 」
そんな風に高笑いしながら見晴らしのよい場所へと急いだ。
……ところが……
政景は目に飛び込んできた旗を見て、
萎縮震慄した――
「そ……そんな……馬鹿な……」
それは『上』の一文字……すなわち本庄繁長の軍勢である事を示す旗……
そして見慣れぬくずし字の『勝』の一字……
しかしその旗を掲げているのは、彼が良く見慣れた人物……
「辰丸……だと……!? 」
定龍にも長尾政景らの姿が目に映ったのだろう。
彼は少し離れた所で、軍勢の足を止めた。
そしてその場にいる全員に聞こえるような大声で言い放ったのだった。
「われは辰丸あらため、宇佐美定龍である!! 」
「宇佐美……定龍だと……? 」
長尾政景は定龍の気迫に飲み込まれ、ただ顔を青くするより他なかった。
そんな彼に対し、定龍は研ぎ澄まされた名刀のような声で、その場の空気を切り裂いていった。
「そこにおられるのは長尾政景殿とお見受けいたす!
われはこれより本庄繁長殿そして鮎川清長殿と共に、お屋形様の元へ参る所存!
ついては道を開けていただきたく候!! 」
「なにぃ? 長尾家一門の当主であるわしに、道を開けよとほざくか!? 」
ぎりっと政景は歯ぎしりして定龍を睨みつける。
しかし、定龍の気迫こもった表情は、全く変わらない。
それどころかより一層険しさを増していく。
そして周囲も凍りつく程の冷たい口調で告げた。
「私利私欲の為だけに多くの忠臣を死に追いやった悪逆非道の輩が、恐れ多くも長尾家一門を語るか……」
「なんだと!? この無礼者が! お主、口の聞き方を忘れたか!?
ちょっと景虎に気に入られておるからといって調子に乗るでないわ!! 」
唾を飛ばしながら必死に罵倒する政景に対し、
定龍は一喝した。
「調子に乗っておるのは貴様だろうがぁぁぁ!! 」
定龍の声は衝撃波となって、ビリビリと空気が震わせる。
あまりの気迫に政景は、思わず「ひぃっ」と情けない声を上げると、一歩後ずさりした。
その背中を竹俣重綱が、慌てて支えている。
そしてなおも言葉を失っている政景に対して、定龍は貫くような大声で告げたのだった。
「われはお屋形様の命によって、春日山に向かっているのである!!
それを邪魔立てすることは、すなわちお屋形様に反逆してるも同じこと!!
本来ならば今すぐ成敗してくれる所を、大人しく道を開けば今は許してやると情けをかけているのが何故分からぬか!! 」
「な……情けだと……」
「貴様が小賢しい策を弄し、家中を惑わしたのは、数々の書状からして明らかである!!
よって貴様の悪行は後に白日の元に晒されるだろう!!
その時を震えて待つがよい!! 」
「なんだとぉぉぉ!! もう許せん!! 全軍前へ!! 」
長尾政景はついに逆上して兵たちに号令をかけた。
すると政景の前に出てきた竹俣重綱の兵が横にずらりと並んで槍を定龍に向けた。
重綱隊と定龍の距離はわずか十歩ほど……
しかし定龍は慌てる様子など微塵も見せず、大きくため息をついた。
「愚かにも槍を私に向けるとは…… その意味が分かっての愚行でしょうか……」
そして定龍はゆっくりと右手を上げた。
――ザザッ!!
それを合図に定龍を中心として百人の兵が一斉に一歩前に出てくると、横に整列する。
その様子に政景はニタリと笑みを漏らした。
「くくく…… 『鉄砲』なるものか。
あの図体だけはでかい宇佐美定勝を『的』にしても、十発に一発しか当たらなかったというではないか。
かように使えぬ武器を百も揃えて……
お主のような田舎者は銭と兵の使い方が下手で困るのう! がははは!! 」
定龍と弥太郎の顔が「宇佐美定勝を『的』にした」という言葉が出た瞬間に、ピクリと動く。
しかし定龍は冷静に兵たちに指示をした。
「弾を込めよ!! 」
兵たちが慣れた手つきで鉄砲の口から火薬と弾を込める。
何度も、何度も訓練を重ねた動作であることは、素人目から見ても明らかだ。
しかし政景は全く臆する事なく、ついに突撃の号令をかけたのであった……
「狙うは宇佐美定龍の首じゃ!! 全軍、突撃ぃぃぃぃぃ!! 」
――ワアアアアアッ!!
一斉に兵たちが定龍一人を目がけて殺到していった。
一歩、二歩、三歩……
みるみるうちにその距離が縮まってくる。
そして残り五歩まできたその時だった――
「一斉に…… うてぇぇぇぇぇい!!! 」
定龍の咆哮が天に響くと、
――ドドドドドドッ!!
と、凄まじい破裂音が磐船の空にこだました。
百丁の鉄砲から弾が放たれた直後……
全ての音が消えた。
まるで時が止まったかのように――
そして……
――ドサッ……
と、土の上に一人の兵が倒れ込む音が、静寂を破ると……
――ドサ、ドサ、ドサ、ドサ……
と、次々と竹俣隊の兵たちが倒れていったのである。
「な……に……」
まるで横に並んだ壁が崩れ落ちて行くかのように、長尾政景と竹俣重綱の周囲にいる兵たちが倒れ込んでいく。
定龍の首元まであと五歩のところに迫っていた兵たちが全員姿を消すと、ぽかりと空間があけられる。
その空間に飛び込んでいったのは……
「皆の者!! おいらに続けぇぇぇ!!! 」
『長尾家一の無双』、小島弥太郎と、
「遅れるなぁぁぁ!! 揚北の強さ、見せつけよ!! 」
『越後の鬼神』、本庄繁長であった――