破邪顕正! 磐船の戦い②
永禄3年(1560年)5月23日――
景虎からの「軍を解いて、重臣たちは春日山へ集まれ」との書状が届いた平林城は、にわかに騒がしくなった。
ーーこれでようやく村に戻れるぞ!
ーー早く田んぼ仕事してえな!
書状の内容は加地春綱と竹俣重綱の二人をはじめ、揚北衆の中で伏せられていたにも関わらず、どこからどう漏れたのか、瞬く間に兵たちに知られる事になったのである。
そしてそれは、定龍が率いていた長尾軍の兵たちも同様であった。
「やいっ! お屋形様から軍を解くように御達しがあったようじゃねえか!
ならばおいらたちがここにいなくちゃなんねえ理由はねえはずだ! 」
小島弥太郎は口を尖らせながら、竹俣重綱に詰め寄った。
竹俣重綱は苦々しい顔をして弥太郎を睨んだものの、彼の言い分を否定することは出来ない。
なぜならそれを拒否すれば、長尾景虎の命令を拒否する事になるのだから……
重綱はチラリと隣にいる加地春綱を見ると、春綱は険しい表情のまま、小さく頷いた。
「ふんっ! 未だ降伏せぬ敵と、裏切者を目の前にして立ち去る事しか考えぬ臆病者など、一刻も早くここを出ていけっ! 」
竹俣重綱は吐き捨てるように言うと、弥太郎は余裕の笑みを漏らして、その場を後にしたのだった。
ゾロゾロと平林城を後にしていく一千の長尾軍。
そして、全員が城を出たところで、先頭を行く弥太郎はクルリと振り返ると、大声で全員に呼びかけた。
その内容に全員の心が震えたーー
「重臣、辰丸より任されしこの軍は、ここで解散とする!!
自分の畑に戻りてえ奴は、すぐにでも帰ってよい!
早く母ちゃんや子供に顔を見せてえ奴も、すぐに帰ってやれ!!
どこに行くもてめえらの自由だ!!
だからおいらも自由にさせてもらう!!
おいらは『友』の元へ向かう!!
誰が何と言おうと、おいらの『友』は裏切者なんかじゃねえ!!
だからおいらの『友』が囚われの身なら、おいらも囚われの身にならなきゃなんねえ!!
それが友情ってもんだ!! 」
弥太郎はそう叫ぶと、馬の腹を強く蹴った。
本庄城に馬の首を向けてーー
友を見捨てて帰るなんざ、お天道様が許しても、おいらの心が許さねえ。
それが小島弥太郎の生き様だ。
しかし……
そんな風に考えていたのは……
彼だけであるはずはなかったーー
ーーダダダダダッ!!
なんと弥太郎の馬の脚に負けじと、一千の長尾兵全員が並走してくるではないか!
皆必死な形相。
われが一番に本庄城に着くのだ!
我が大将が『裏切者』のそしりを受けたままで、春日山に戻れるか!!
そんな気迫篭った駆け足だった。
「てめえら……大馬鹿だ……」
弥太郎は口元を緩める。
その目尻に光るものを浮かべながらーー
………
……
同日昼 平林城ーー
「なにぃぃ!? 一千の兵が本庄城へ向かって行っただとぉぉ!?
それを指をくわえて見ておったと言うのか!!
この大馬鹿者共めぇぇ!! 」
キンキンと耳をつんざくような甲高い声が、一室に響き渡った。
その声の持ち主は、小島弥太郎らと入れ替わるようにして城に入った長尾政景であった。
ここにやって来るまでも苛立ちが頂点にあった彼だったが、『人質』として扱えるはずの弥太郎らをみすみす逃しただけではなく、『敵方』である本庄城へと向かわせてしまったことに、怒りが爆発したのだ。
「なんという事をしてくれたのだ!! この大馬鹿者め!! 」
我を忘れてなおも怒鳴り散らす政景に対して、集められた揚北衆たちは成すすべもなく、ただ小さくなって俯いていた。
そして政景は、彼らに鞭を打つように言い放ったのだった。
「全員、兵を集められるだけ集めよ!!
使える者は、老いも若きも関係ない!!
ぜんいんだ!! とにかく一人でも多く集めてこい!!
そして明日の朝一番に、磐船に集まるのだ!!
この命令に反した者は容赦せんぞ!! 」
「しかし……政景殿……」
「異論は許さん!! お主ら、これからも長尾家に居場所が欲しくば、わしの言う通りにいたせ!! 」
政景は、もはや手がつけられない程に、何もかもが乱れていた。
しかしそれでも彼は長尾家の重鎮であることには間違いない。
その為、誰も何も口に出す事はなかった。
しかし……
その場の多くの者が、政景のこの命令にほっと胸を撫で下ろしたのである。
なぜなら……
ーーこれでようやく平林城を出られる……
そう……
もはや彼らは、長尾政景を見限っていたのだ。
つまり城から出ることさえ許されれば、後は彼の命令などに従うつもりなど……
さらさらなかったのであるーー
………
……
翌日ーー
平林城と本庄城の丁度真ん中に位置する磐船と呼ばれる平原。
そこに長尾政景は立っていた。
その顔はまさに『絶望』の色より他ないもの。
彼の傍らには竹俣重綱と加地春綱の姿。
彼ら二人だけは、政景の言葉に律儀に従った。
しかし率いている兵は合わせて五百……
昨日まで率いていた兵の、なんと半分であり、
彼らの兵までもが、長尾政景を見限ったという証だ……
そして……
いくら待てども、その他の揚北衆や兵たちが現れることはなかったのであったーー
………
……
同日、昼ーー
長尾政景が五百の兵とともに磐船に布陣をした事は、既に本庄城にも伝わっていた。
そして城は今、澄み切った静けさに包まれていた。
城門の前に集まった兵たちは総勢三千。
その中にはもちろん本庄繁長と鮎川清長の兵たち二千も含まれている。
彼らは皆、当主の繁長や清長が頭を剃って長尾景虎の元へ降伏しに行くと聞き、いてもたってもいられなくなって集まった者たちであった。
そして繁長と清長が本庄城を開けている間の留守役を買って出たのは、こちらもまた彼らを慕う大宝寺軍。
彼らはまさに『絆』によって結ばれた一心同体の軍と言えよう。
その中心にあって、馬上で佇む一人の若武者……
辰丸こと宇佐美定龍……
まるで出来たばかりのガラス細工のように、透き通った肌と瞳。
そして決意を込めて引き締められた唇。
その姿は神々しさも感じられる程に眩しく、まるで浮き上がっているかのようであった。
そんな彼の横に一騎の若武者が近づいてきた。
長尾家一の無双、鬼小島弥太郎。
無二の親友、宇佐美定勝の死を前日に知らされた彼の瞳は、夜通し泣き明かした為にまだ赤く腫れている。
しかしその声は、抑えきれるはずもない怒りを内に秘めた、静かなものだった。
「いよいよだな……」
定龍はちらりと弥太郎の顔を見る。
そしてどこまでも透き通った声で言った。
「ええ、いよいよです」
「おっちゃんの仇討ちはおいらの役目だ。
これだけは誰が何と言おうと譲らねえからな」
弥太郎の声に鬼が顔を覗かせる。
その様子に、定龍は口元に微かな笑みを浮かべた。
「では、始めましょうか。
お家を惑わす悪逆を、完膚なきまで叩きのめす一戦を」
その言葉に、弥太郎もまた口元を緩めると、くるりと定龍に背を向けた。
そして去り際、彼はぼそりと呟くように言い残したのだった。
「サダタツなんて舌噛んじまうからな。
今まで通り、辰丸は辰丸だ」
気恥ずかしさを隠すように馬を走らせて去っていく弥太郎の背中を見て、定龍の強張っていた頬の筋が緩まる。
そして弥太郎の背中が見えなくなったところで、もう一度気持ちを引き締め直したのだった。
定龍が静かに右手を上げる。
――バッ!!
その瞬間、彼の横に待機していた兵が一本の旗を天に掲げた。
それは昨晩作らせたもの……
真っ白な布地に、
『勝』のくずれ字――
昨日までの雨が嘘のように晴れ渡った青い空に、純白の旗は猛々しくはためていたのだった。
宇佐美定龍、出陣の秋――




