破邪顕正! 磐船の戦い①
◇◇
永禄3年(1560年)5月1日 春日山城ーー
留守居役を命じられている長尾政景は、自分の屋敷の一室でどっしりと腰を下ろしていた。
口元にはいつも通りの笑み。
しかし、トントンと床をつつく仕草が出ている時は、何かに焦りや苛立ちを覚えている時である。
その癖が今の彼にも明らかに出ていた。
そんな彼が苛立ちを隠せない理由はただ一つ。
ーーなぜ、景虎は本庄城を攻めないのだ?
というものであったのは、言うまでもない。
武田晴信と本庄繁長の二人が同時に兵を挙げてから、およそ一ヶ月が経過した。
しかし両方とも依然とした硬直状態。
政景の思惑では、川中島における睨み合いに終止符を打った景虎が本庄城へ急行するものだったのだが、それが見事に外れてしまったという事になる。
ーーなぜなのだ……
長尾政景は、長尾景虎という男の事を、生まれた頃から知っている。
それだけに、信頼する仲間を討たれ、寵愛する家臣に疑いがかけられれば、必ずや逆上するものだと踏んでいたのだ。
しかし現実はそうならなかった……
その理由が全く持って分からない。
川中島にいる『上田派』の直江景綱に、それとなく景虎の意向を探るように指示を出したが、彼からの返事も決して思わしくない。
さらに悪いことに、本庄繁長と対峙している平林城からは、「兵たちから不満が溜まり始めており、早急に決着をつけたい」と何度も催促の書状が届いているのだ。
それもそのはずだろう。
本庄繁長の鎮圧については、仮にその戦に勝っても、大きな報酬を得られるものでもない。
なぜなら同じ越後の国内で起こっている戦だからだ。
そして平林城に詰めている『揚北衆』の兵たちは皆、国に戻れば田畑を耕す農民たちなのだ。
田植えの時期が終わったと言えども、その苗が育つまでは大事な時期であり、自分たちの領地に戻って雑草取りや害虫駆除に精を出したいというのが本音なはずだ。
現に本庄城にこもっている本庄軍の兵たちは、なんと順に武装を解き、畑仕事をしていると言うではないか。
そしてその仕事がひと段落ついたところで、城で待機している兵と交代しているとのこと。
つまり彼らは高を括っているのだ。
長尾景虎は攻め込んでこない、と……
その様子を知った平林城の兵たちに不満が溜まるのは当たり前のことだったのである。
長尾政景は焦っていた。
その焦りは、いつしか怒りと変わり、目の前にいない一人の男に当てられようとしていた。
ーーあの餓鬼が何か企んでいるに違いない……!
しかし、それこそ……
その男の張った罠だとも気付かず……
「この書状を、本庄繁長に届けよ」
政景は使番にそう指示したのだったーー
………
……
永禄3年(1560年)5月4日 本庄城ーー
ーー辰丸の裏切りの疑いが確かなものとなった。ついては牢にいるあやつの首を刎ね、春日山まで届けよ。
さすれば景虎殿は大層お喜びになられることだろう。
長尾政景の直筆のその書状を手にしているのは、他でもない、辰丸自身であった。
今は宇佐美定龍と名乗る彼は、本庄繁長からその書状を手渡された瞬間、口元に静かな笑みを浮かべた。
「とうとう尻尾を出しましたね」
「いかがするのだ? 」
定龍の冷たい表情に、ゾッとしたものを覚えながらも、本庄繁長は低い声で訊ねた。
すると定龍は凍えるような声で言ったのだった。
「このまま何もしなくてよいかと思われます。
己の策に溺れ、奈落の底へ落ちていく様をじっくりと見届けてあげましょう」
とーー
………
……
そして……
事態は思いがけない出来事によって急転したのである。
それは永禄3年(1560年)5月19日のこと……
川中島付近も、しとしとと雨が降りしきる長雨の時季の到来を感じさせる日であった。
そんな中、まるで雨天を切り裂く雷鳴のような一報が、武田、長尾の両軍に、ほぼ同時に届けられたのである。
その報せとは……
――尾張桶狭間にて、今川義元討死!
というものだった――
この報せに動転したのは武田晴信の方であった。
『海道一の弓取り』と称され、その実力は武田晴信も認めていた今川義元が、未だ尾張一国を治める事に苦労していた織田信長に討たれるなど、にわかに信じられようか。
その上、義元の嫡男で家督を譲られたばかりの今川氏真は討たれていないのか?
織田信長は義元を討った後に、尾張から東に侵攻してくるのか?
様々な疑問が武田晴信の脳裏を埋め尽くすと、もはや川中島で無為な時を過ごしている場合ではなかったのである。
本陣にて終始渋い顔をしていた武田晴信は、弟の武田信繁を呼ぶと、苦渋の決断を下したのであった。
「止むを得ぬ。ここは一旦退くかね。
次郎殿、後のことは頼む」
こうして武田軍と長尾軍は互いに無傷のまま、それぞれの本拠地へと戻っていった。
その際に、今年いっぱいの不戦を約定としたことで、実質的に武田晴信は長尾景虎の『関東将軍就任』を認めざるを得なくなってしまった。
すなわち武田晴信にとっては、『敗北』に等しい撤退だったのである。
そして……
同時に長尾政景の思惑も完全に崩れた瞬間でもあった。
しかし、政景にとっての転落は、この時はまだ始まりに過ぎなかったのであった――
………
……
永禄3年(1560年)5月20日――
春日山城に戻った長尾景虎は、越後国内の城に待機している重臣たちに向けて書状を差し出した。
その内容はわずか一文、
――予定通り六月に長尾三家統合の儀を執り行うゆえ、春日山城へ集まりたまえ
というものだった。
これに長尾政景が心慌意乱したのは想像するに難くない。
彼は自分にも届けられた書状を手にしたまま、景虎の屋敷へと駆けこんだのである。
「景虎殿! 本庄繁長の一件も片付かぬうちに、かような招集をかけるのは、気が早すぎるのではないか!? 」
焦りからか顔を真っ赤にした政景に対して、景虎は平静を保ったまま答えた。
「本庄繁長の件は、全て辰丸に任せてある」
「し、しかし平林城に詰めている加地春綱らからの報せによれば、辰丸に裏切りの疑いがあると耳にしておる!
かような者に任せておくなど、何を企んでおるか分かったものではない!
ひとまずは本庄繁長の件が落ち着くまでは……」
そう政景が言いかけた瞬間……
ひらりと一通の書状が、景虎の手から政景の目の前に投げられた。
それは、辰丸が景虎に送った書状……
すなわち宇佐美定勝が己の命を懸けて届けた書状だったのである。
それを手に取るなり、長尾政景の真っ赤な顔は一気に蒼白へと変わっていった。
それもそのはずであろう。
彼自身の言葉で裏切りの疑いがかけられている事を告白し、景虎には武田晴信との一戦に集中することと、それが終われば『長尾三家統合』の儀を予定通りに進めることが進言されているのだから……
――この書状のせいであったか……! おのれぇぇぇ!! 小癪な真似をしおってぇぇ!!
そう……
彼はようやく気付いたのである。
この書状の存在によって、長尾景虎が本庄城へ攻め込まなかったのだと……
しかし、気付いた時には既に事態は手遅れであったと言えよう。
そして、次の瞬間、彼はもう一つの懸念が頭をよぎったのである。
「まさか……景虎殿。この招集の書状は、平林城に詰めている加地や竹俣にも送ったのではあるまいな……? 」
景虎の表情は全く変わらない。
それは政景を責める訳でもなく、かと言って手を差し伸べている訳でもない。
つまり景虎は、彼が成すべき事を淡々とこなしているだけのことであり、そこに何の表裏もなかったのである。
ゆえに彼は、先ほどと変わらぬ平常心をもって、政景の問いかけにも答えたのだった。
「ええ、もちろん送っておる。『この書状が届き次第、軍を解き、春日山へ急行せよ』と……」
その言葉に……
政景は……
我を失った――
「いかん!! それだけはならんぞ、景虎ぁぁぁ!! お主は分かっておらんのだ!!
辰丸という悪鬼のごとき疫病神の事を!!
あやつは必ずや当家に災いをもたらす!!
そのような者を信じて軍を解くなど、敵に背を向けているようなものじゃ!!
絶対にならんぞぉぉぉ!! 」
周章狼狽の長尾政景。
しかし景虎の心には波紋一つ立つ事はなかった。
なぜなら景虎は信じていたのである。
辰丸のことだけでなく……
この書状を命を懸けて届けてきた宇佐美定勝という『侍』を――
「政景殿。これはもう決めたことだ。
政景殿におかれても、ここは辰丸を信じてはくれまいか。
必ずや、かの者は本庄繁長をここ春日山へと連れてくるであろう」
「ぐぬぬ……この薄情者め……
お主が生まれた頃よりの付き合いのわしよりも、出自も分からぬ餓鬼の事を信じるというのか……」
「政景殿。われはこれから長尾三家を統合する事で、より多くの者たちを束ねていかねばなりませぬ。
家老一人の事を信じる事出来ずして、どうしてお家の者たち全員の事を信じられようか。
しかし、政景殿のご心配はもっともなことであることは重々承知である」
「ならばっ!! 」
刹那的に政景の顔がぱっと明るくなる。
しかし、景虎の次の言葉は、彼の淡い期待を木端微塵に砕くものだった……
「もし、本庄繁長と辰丸に、我が家老たちの背中を衝く動きあれば、その時はわれが自ら討ち果たしてくれよう」
「な……なんだと……」
政景は完全に言葉を失った……
そしてこれ以上は景虎に掛け合う事は出来ぬと悟った彼は、足早に屋敷に戻っていったのだった。
「おのれ……このままで済むと思うなよ……なんとしても長尾三家の統合はさせぬ!
わしが……わしこそが、長尾家の棟梁として相応しい男であると、自らの手で明かしてみせようぞ! 」
屋敷に入るなり、彼はすぐに甲冑を身に付けた。
そしてその直後には馬上の人となっていたのである。
そんな彼が向かった先は……
平林城であった――
そして……
この長尾政景の動きは……
全て宇佐美定龍の掌の中のことだった。
攻守逆転――
『友』であり『父』の命を奪った男に対する破邪顕正の逆襲は、いよいよ佳境を迎えようとしていたのであった――