虎穴虎子! 本庄繁長の乱⑧
◇◇
永禄3年(1560年)4月17日ーー
本庄城の城主の間に、焦燥感を露わにした声が響いた。
「なぜだ!? なぜ何の返事も寄越さぬ!! 」
「まあ、落ち着いてくだされ、繁長殿。
まだ最初の使者を送ってから五日しか経っていないではないか」
「落ち着いてられるか! もう五日も経っているのだぞ! それなのに何の返事も寄越さぬとは、無礼にも程があろう! 」
まるで熊のような大きな体に、豪快な髭面。
太い眉を鋭く上げて、顔を真っ赤にさせているのが、本庄繁長だ。
一方でそんな繁長を一生懸命なだめているのが、彼と同じ十九歳でありながら、随分年上に見られる鮎川清長であった。
そもそも本庄繁長の運命を狂わせたのは、長尾政景が昨年送ってきた一通の書状であった。
長尾景虎の『関東将軍就任』に合わせて降伏を申し出た彼に、「我がお屋形様は長年のそなたの愚行を鑑みて、本庄城を取り上げるつもりである」と書状を送ってきたのだ。
逆上した彼に、武田晴信から書状が届いたのは年末のことだ。
ーー田植えの時期が終わるとともに、共に長尾景虎討伐に動こうぞ
その誘いに乗って、兵を城に集めて蜂起した訳だが、形勢は思わしくなかった。
そんな折に届けられたのは、再び長尾政景からの書状であった。
ーー色部勝長と今回の長尾軍総大将の辰丸という男に不穏な動きがある。
この二人の首を差し出せば、本庄城の安堵を我がお屋形様に強く進言しようではないか。
繁長はこの言葉を深く信じた。
そして夜襲を仕掛けたのである。
辰丸こそ逃してしまったが、色部勝長を討った彼は、その首と共に「本領安堵の約束」を取り付ける為の書状を、平林城にいる加地春綱へ送った。
その後、辰丸が降伏してきた後に、その身柄を確保している事を添えて、再度書状を送ったのが三日前の事だ。
しかしいずれの返事も、
ーー今、お屋形様からのお返事を待っているところである。ついては少々待たれよ
というものであったのである。
元来、気が長い方ではない本庄繁長。
それでもしばらくは様子を見ようと思っていた。
しかし彼の焦りの炎に油が注がれたのは、とある人物の言葉だった。
ーーこのままですと、長尾景虎様は近いうちにここ本庄城へ攻め込んでくるでしょう。
そうなる前に手を打たねばなりません。
それは……
辰丸の言葉……
降伏しにやって来た彼を牢屋へと送るその時に告げられた言葉だ。
その時は、「負け犬の遠吠え」くらいにしか思えなかったのだが、日を追うにつれて、じわじわとその言葉が胸を締め付け始めたのである。
もし……
本当に『軍神』長尾景虎が自ら軍勢を引き連れて攻め込んできたなら……
さしもの繁長であっても、それを思い浮かべただけで背筋が凍った。
しかし、そんなはずはない。
なぜなら手元にある長尾政景の書状は、雄弁に語っているではないか。
ーーわしの言う通りにすれば、悪いようにはならない
と……
「繁長殿、いかがしたのだ!? 」
一人で考えに耽っていた繁長に、突如として鮎川清長から声がかけられる。
その声にはっとしたように目を見開くと、何かを思い立ったのかすぐに繁長は立ち上がった。
「な、なんでもない!!
とにかく、これ以上は待っていられん! もう一度、使者を送るのだ!! 」
そう言い捨てると、紙と筆のある部屋へと、大股で歩いていってしまったのだった。
その様子を、どこか冷めた目で見つめていた鮎川清長。
彼は大きなため息をつきながら漏らした。
「……これは、かの者の言う通りなのかもしれぬ……」
そして、本庄繁長とは異なる場所へと足を向けたのである。
それは城の外れにある、牢屋であったーー
◇◇
翌日、平林城ーー
「また、本庄繁長から書状が届いたらしいな。
あやつもしつこい男よのう」
竹俣重綱は、加地春綱にそう話しかけた。
その春綱の座っているすぐ隣には、繁長からの書状が投げ捨てられるようにして放置してある。
「文字や内容の乱れからして、繁長は相当焦っているようだ」
「いかがするのだ? このままにしておくと暴走しかねないのではないか? 」
「ふふ、例え暴走したとしても攻め込んでくるのは、ここ平林城。
仮に焼け落ちても、我らにはなんの被害はないではないか。なぜならこの城は色部家の城なのだからな。
むしろそうなれば、本庄城を同じ目に遭わせる大義名分が出来るというものだ」
加地春綱は表情一つ変えることなく淡々と言うと、竹俣重綱は目を丸くした。
「お主……随分と考えが政景様に似てきたのう……」
加地春綱は冷めた視線を竹俣重綱に送ると、彼の言葉に反応することもなく、とある事に釘を刺した。
「それよりも、例の件はいつでも出来るように準備を整えておるのだろうな? 」
「ああ、当たり前だ」
「ふふ、ならよい。
もし次に『蝿』が城をうろついた時は、鉄砲の『的』とせよ。
鉄砲なるものがどれほどに使い物になるか、その『蝿』で試すがよい……
そのように政景様がおっしゃっていたようだからな」
「はははっ! かつての長尾家の重臣を『蝿』と称するあたり、やはり政景様は恐ろしいお方よ」
「ふふ、かつては重臣であっても、今では『長尾家一うだつのあがらぬ男』ではないか。
『蝿』と言われても仕方あるまい」
「はははっ! 違いない! 」
緊張に包まれている本庄城とは、正反対にどこか緩みのある平林城。
しかし緩んでいたのは彼らだけではない。
この時、遠く春日山城にて待機している長尾政景をはじめ、『上田派』の誰もが「全ては政景の掌の上で進んでいる」と、笑いを堪え切れないでいたのであった。
ところが……
既に事態は動き始めていたのである……
彼らの思惑を全て『ぶち壊し』にする方へ……
二人の男の熱い絆によってーー
◇◇
永禄3年(1560年)4月18日 本庄城評定の間ーー
「なぜ、こやつがここにおるのだ? 」
本庄繁長は、顔を真っ赤にして目の前に座る一人の男を目にして声を震わせた。
「もちろん、それがしがお連れしたのだ」
そう答えたのは、その男の隣に座っている鮎川清長であった。
しかしその答えは本庄繁長の意を得たものではなかったようだ。
「そんな事を聞いた訳ではなぁぁぁぁい!! 」
ーーダァァァンッ!!
まるで床が抜け落ちてしまうのではないかと思われる程に、荒荒しく右足で床を強く踏んだ繁長。
しかしそんな彼の威圧にも、涼しい顔をしている男は、静かに頭を下げたのだった。
「あらためて、辰丸と申します。以後、お見知り置きを……」
囚われの身、
そして裏切者のそしりを受ける身……
圧倒的な逆境から始まる辰丸の勝負は、こうして幕を上げたのだったーー
………
……
「なに……? では俺は長尾政景に踊らされている……そう言いたいのか!? 」
本庄繁長は、目を丸くしながら辰丸の言葉に耳を傾けていた。
辰丸の姿を目にした時こそ逆上した彼であったが、鮎川清長の説得により、どうにか腹の虫を収めると「ひとまず話だけは聞いてやる」と、腕を組んで腰を下ろした。
そしてその辰丸いわく、本庄繁長の今までの行いが、全て長尾政景の醜い思惑通りであるというではないか。
その事を聞かされた繁長は、顔を青くしたのだった。
「ええ、その通りでございます」
「し、しかし、そんな事、何の証があって言うのだ!? 」
その問いに辰丸は、ゆっくりと首を横に振った。
それは「証はございません」と言っているのと同じであった。
途端に繁長の額に青筋が走る。
「どういうことだ…… 分かるように説明せよ」
聞く者を震え上がらせるような低い声を発する繁長に対して、全く動じることなく辰丸は答えた。
「ですから存在しないのです。何も」
「それが答えになるとでも思っているのかぁぁ!! 」
とうとう繁長が咆哮を上げると、慌てて清長が割り込んできた。
「辰丸殿! もう少し分かりやすく話しては貰えぬだろうか? 」
辰丸は小さく頷くと、流れるような口調で話し始めた。
「本庄繁長様が長尾景虎様に降伏の意向を示された『物』が、一切景虎様に届いていない……つまり存在していないのですよ」
それを聞いた瞬間、本庄繁長と鮎川清長の二人は、あまりの驚愕のあまり、思わず仰け反った。
「な、な、なんだとぉぉぉ!?
恥を偲んで書いた俺からの『降伏の書状』が、景虎殿に届いていないだとぉぉ!?
なぜだ!? なぜなんだ!? 」
再び首を横に振る辰丸。
そして彼は淡々とした口調で続けたのだった。
「なぜ景虎様に書状が届いていなかったのかは、分かりません。
しかし私は常に景虎様の側にあった身。
書状が届いていないのは確かにございます。
恐らくは政景様が処分したのかと……」
再びめきめきと拳を固め始める繁長。
しかしその怒りの矛先は、辰丸ではなく、今目の前にいない長尾政景へと変わっているのは、明らかであった。
「しかし……なぜ俺を躍らせた……?
俺を弄んで、何の得があるのだ……? 」
その問いの瞬間……
辰丸の表情が変わったーー
ここが勝負所だったからだ……
「長尾三家統合の邪魔立て。すなわち醜き保身の為にございます」
「政景の『自分の地位を守る為』という私利私欲による陥穽によって……
俺は同じ揚北衆の色部殿を討ち、いらぬ景虎殿の怒りを買ってしまったのか……」
本庄繁長の顔色が赤から青に変わっていく。
それは彼が怒りのあまりに我を忘れる一歩手前である事を、鮎川清長はよく知っていた。
つまり、本庄繁長はこの時点で、まだ元服も済ませていない少年の術中に完全に嵌ってしまったという事でもあったのだ。
ーー辰丸という男……なんという男なのだ……
驚きよりも恐怖の方が清長の心を支配する。
そして、彼もまた辰丸の解き放つ『何か』に吸い込まれていくのが、自分でもよく分かっていた。
しかし、清長はすんでのところで踏み止まって、辰丸へ問いかけた。
「辰丸殿、しかしこのままでは長尾景虎殿の軍勢が攻めてきてしまうのではないか!?
それをいかにして止めるのだ!? 」
すると……
先ほどまでの鋭い斬れ味の刃のような辰丸の表情は……
慈愛に満ちた優しいものに変わったのだ。
そして彼はまるで春の陽射しのような声で言った。
「我が『友』であり、『父』でもあるお方が、景虎様に我が書状を届けに、川中島へ急いでおります。
だから繁長殿と清長殿が攻め立てられることはございませぬ。どうかご安心くだされ」
「川中島へだと……しかし……その男が政景の魔の手を掻い潜り、景虎殿へ書状を届けることが出来るという保証はどこにあるのだ? 」
その問いかけに、辰丸は三度首を横に振る。
そして、口元に微かな笑みを浮かべて、胸のあたりを、トントンと叩いたのだった。
「保証などありませぬ。
しかし『心』から私は信じております。
宇佐美定勝という侍を」




