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虎穴虎子! 本庄繁長の乱⑦

心を込めて書きました。


皆様の心に届くことをお祈りいたしております。

◇◇

――長尾景虎が川中島を出る前に、懐の書状を届けなければ、辰丸の命はない……!



 宇佐美定勝は全速力で駆けていた。

 昨日の朝、辰丸と別れ、その日の昼には平林城を抜けた。


 そして夜が訪れ、朝を迎えた。


 彼はほとんど休むことなく走り続けていた。

 その間、決して無心ではなかったのである。



――なんで俺は得体の知れない男の為に命を懸けているのだろうか?



 体はとうに限界に達し、既に足の感覚はない。

 走っている、という事は認識しているが、それが他人から見て「速い」のか「遅い」のか、そんな事は皆目見当もつかぬ。

 

 息は上がり、前日からほとんど寝てないからだろうか、頭の中はぼーっとしている。

 

 それでも先ほどから浮かんでいる疑問は、彼の頭にこびりついて離れなかった。

 

 

――なんで俺は得体の知れない男の為に命を懸けているのだろうか?


 

 もはや一人娘以外は、全てを捨てたつもりであった。

 地位も名誉も、そしてちっぽけな誇りさえも。

 

 生きていくのに最低限の米と金があればいい。

 酒も女も博打にも興味はない。

 かと言って、もとどりを切って仏門に入るつもりもない。

 

 

 ただ無為に。

 

 

 ただ平穏に。

 

 

 そんな風に生きて、一生を終えるものだと思っていた。

 

 

 しかしそんな自分が今、つい数年前までは何の縁もなかった少年の為に、文字通りに「必死」になっているのはなぜなのだろうか。

 

 

 辛い。

 

 

 苦しい。

 

 

 もう足を止めてしまいたい。

 

 

 ああ……途中で馬を調達できる位の金を持ち合わせていれば、こんなに辛い思いをしなくて済んだのか。

 

 

 もしここで立ち止まったなら、どれほど楽になるだろうか。

 

 懐に大事にしまった書状を、長尾景虎に届ける事を止めてしまっても、きっとあいつは「仕方ありません」と許してくれるんじゃないか。

 

 

 しかし彼の足は止まることはなかった。

 

 それは彼の知らない所で、見えない何かが、彼の心が挫けるのを必死に抑えていたからである。

 

 そして弱気な心が顔を出す度に、彼は思うのである。

 

 

――なんで俺は得体の知れない男の為に命を懸けているのだろうか?

 

 

 と……

 

 

 もういくつ山を越えただろうか。

 

 

 もういくつ野を駆け抜けただろうか。

 

 

 あとどれくらい野山を走らねばならぬのだろうか。

 

 

 未だに目の前に広がる地平線は答えをくれぬ。

 

 しかしそれでも彼は走り続けるだろう。

 

 

――なんで俺は得体の知れない男の為に命を懸けているのだろうか?



 この疑問の答えが見出せぬ限りは……

 

 

 ただ、彼はうすうす気づいていた。

 

 

 彼の疑問に答えなどないことを。

 

 

 否、そもそも彼は答えを出そうともしていないことを。

 

 

 だから彼は諦めていたのである。

 

 自分が「諦める」という選択を手に取ることを。

 

 

 しかし不思議なものだ。

 

 

 決して悪い気はしない。

 

 

 全てを捨てて、全てを諦めた自分の人生が、今最も輝いているのだから。

 

 

――俺は馬鹿だ



 思わず口元が緩む。

 

 

 意識は混濁していくが、心の中は真夏の空のように爽快であった。

 

 

 なぜなら彼はこの歳になって初めて知ったからだ。

 

 

 ちっぽけで無力でも、

 誰かの為に走ることは、

 こんなにも『幸せ』なことなのだということに――

 

 

 そしてそれは彼が走り始めてから丁度三日後。

 すなわち永禄3年(1560年)4月15日のことだ。

 

 

 

「見えたぁぁぁぁぁ!!! 」




 思わず彼は腹の底から声を上げた。

 

 彼の視界に飛び込んできたのは……

 

 

 懐かしの春日山城――

 

 

 思わず肩の力が抜けると、途端に鉛がつけられたからのように、足がずしりと重くなった。

 

 口がへの字に曲がり、あまりの苦しさに目からは涙が出てきた。

 

 

 それでもどうにか足を止めることもなく、駆け続ける。

 すると少しずつ春日山は大きくなってきた。

 

 もうすぐだ。

 

 もうすぐで春日山だ。

 

 

 きっと屋敷で待つ一人娘にも、本庄城で起こった事は耳に入っていることだろう。

 きっと一人娘はそれでも人前では気丈に振舞っていることだろう。

 

 しかしきっと……

 

 一人の夜は涙で目を腫らしていることだろう……

 

 

 今すぐ一人娘の元へ行き、抱きしめてあげたい。

 そして耳元で「大丈夫だ」とささやいてあげたい。

 

 

 なぜなら定勝は辰丸と約束しているからだ。

 

 

 絶対に無事に帰ると……

 

 

 ところが……

 

 

 彼は春日山を横目に見ながら通り過ぎていった――

 

 

 

 辰丸という「得体の知れない男」の為に――

 

 

 

――俺は大馬鹿だ。涙にくれる娘を抱きしめることも出来ねえなんて




 ふと彼の脳裏に、若くして亡くなった妻、お富の姿が浮かんだ。

 

 彼はばつが悪そうに苦笑いを浮かべる。

 

 

――すまねえな……俺はお勝を泣かせてしまった



 ところが彼の心と反して、

 

 

 お富は笑顔だった。

 

 

 いや……

 

 

 彼は知らないのだ。

 

 

 『笑顔』以外のお富の表情を……

 

 

 死の間際まで、

 最期の最期まで、

 彼女は『笑顔』だったのだ。

 

 

――やっぱりお主にはかなわん



 これで彼の心のかせが一つ外れた。

 

 すると背中の春日山がみるみるうちに小さくなっていく気がしてならなかった。

 

 

 

 

 越後から信濃への国境に近くなると、道はますます険しくなっていく。

 

 山は険しく、道は悪い。

 

 それでも今の彼には何の障害にもならなかった。

 

 

 ただ一人の男……

 

 ただ一人の友の為に!



 前へ!!

 

 


 そして……



 ついに……



 彼は辿り着いたのだ。




 川中島にーー


 

 

「申し上げまぁぁぁぁぁす!! 宇佐美定勝!! ここに書状を持ってまいりましたぁぁぁ!! 」




 許しをもらう事もせず、定勝は動かし続けた足の勢いそのままに、転がるように長尾景虎の本陣へと入っていった。

 

 

「何事だ!? 」



 するとそこには今にも本陣を引き払って本庄城へ攻め込まんとしていた長尾景虎の姿があったのである。

 その顔は、怒りが爆発せんとするばかりに真っ赤に染まっていた。

 それは、宿老色部勝長を討たれ、寵愛する辰丸が疑われたことによるものであることは明らかだ。

 

 

 しかし、ぼろぼろになって転がり込んできた定勝を見て、そんな景虎すらも目を丸くしている。

 無論、彼の横にいる宇佐美定満と千坂景親も同様で、口を半開きにして定勝を見つめていた。

 

 

 定勝はそんな彼らの目など気にすることもなく、懐に大事にしまった一通の書状を差し出す。

 

 

 景虎はその書状を目にした瞬間に、それが辰丸の手によって書かれた物である事に気付いた。

 そして定勝の手から奪い取るようにして受け取ると、すぐにその内容に目を通したのだった。

 

 

――大変情けない話ではございますが、私は裏切者のそしりを受ける身となってしまいました。

しかしこれも全て私の至らぬ身から出た錆でございます。

誰ぞの陥穽かんせいが悪いのではなく、全て私の責任でございます。

つきましてはどうかお屋形様におかれましては、猛る気持ちを収めていただき、目の前の敵に集中頂くよう、切にお願い申し上げます。

必ずや私が本庄繁長を、殿の前にひざまずかせてみせましょう。

どうかそれまでは、私を信じて下さいませ。

なお、武田晴信との事が片付いた折には、予定通りに『長尾三家統合』の儀を進めていただきますようお願い申し上げます。



 景虎は身じろぎ一つせずに書状に目を通した後、静かに目を閉じた。



 さながら自分の燃え盛る怒りの炎に、水を注ぐように……



 そして……



 しばらくした後……



 千坂景親に低い声で告げた。



「全軍に告げよ。

撤退は取りやめとし、宿敵との一戦に集中する、と」



「御意にございます」



 そして束の間の休息を取っている定勝の方に目を向けて言った。



「定勝、大儀であった。今日はゆっくり休むがよい」



「はっ! ありがたき幸せ」



 定勝は軽く頭を下げると、そそくさと本陣を立ち去ったのだった。



 一度足を止めた反動は大きい。



 もはや足は棒のように固くなり、全身は震える程に疲労困憊だ。


 今目の前に寝床があれば、前のめりに倒れ込んでいたに違いない。



 しかし……



 今彼の目の前にあるのは……



 帰る為の道であった。



 『友』の元へと帰る道ーー




「やはり俺は大馬鹿だ」




 定勝はニヤリと笑うと、



ーーバシッ!!



 と、両手で自分の頬を一発叩いた。



「よしっ! 行くか! 」



「待て! 定勝! 」



 それは宇佐美定満であった。

 しかし定勝は定満の方へと振り返ることもなく、片手をひらひらと振った。



「すまねえな、親父。ちょっくら友の元まで戻るわ」

 

 

 定満は定勝の背中を見ながら、一言だけ告げた。



「死ぬでないぞ」



「ふんっ! 親父殿はまだ俺のことを分かっちゃいねえようだな」



 定勝はそう言い残して、来た道を引き返していった。



 定満は、その背中を見えなくなるまで見つめていた。



「……馬鹿者め……よく知っておるわ……」



 定満の目から涙が溢れる。


 

 なぜなら定満は良く分かっているからだ。



 息子の覚悟をーー





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