虎穴虎子! 本庄繁長の乱②
永禄3年(1560年)4月6日――
まだ夜が明けて間もない頃のこと。
辰丸は一人静かに部屋の中で佇んでいた。
家老になって初めての戦。
そして初めての大将……
どんな者でも押し潰されてしまいそうな程に緊張するのは当然と言えよう。
しかし、辰丸は自分でも不思議な程に平常心を保っていた。
いつも通りの一日の始まりのような、そんな心持ちだ。
無論、その身に纏うのは日常ではあり得ぬ甲冑。
真紅の糸が鮮やかに編み込まれたその甲冑の上からは、新調したばかりの白を基調とした陣羽織をはおっている。
腰には彼の細い体には似合わぬ大きな刀を差し、彼が座っている横には鍛形の前立に龍の像があしらわれた兜が置かれていた。
辰丸は静かに目をつむると大きく息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。
その直後から熱い血が体中を巡っていくのが良く分かる。
ここで初めて、ドクンドクンと胸の鼓動が早くなってきた。
彼は昂った気持ちを鎮めようと、ゆっくりと目を開く……
その時……
彼は目に飛び込んできた意外なものに、ふと心を奪われてしまったのだった。
「お勝殿……」
それは辰丸の目の前まで音もなくやって来た勝姫の姿。
両手を合わせて頭を下げながら正座をするその姿は、今までにないよそよそしさを感じさせるものであった。
「御武運を祈願しに参りました」
ゆっくりと顔を上げる勝姫。
実はこのところ二人はあまり顔を合わせていなかった。
辰丸が春日山での生活に慣れてきたということもあるが、上洛以来、互いにどこか気まずいものを感じていたからだ。
もちろん辰丸が、勝姫との縁談をに断り続けていることも、彼らが疎遠となってしまった大きな要因と言えよう。
そのような状況であったからこそ、目の前に勝姫がいる事が意外でならなかった。
あらためて彼女の顔を見つめる辰丸。
いつにも増して真剣な表情の彼女は、大人の女性を意識させるもので、その落ち着いた姿を目にしただけで不思議と鼓動が収まっていく。
そして一呼吸置いた彼女は、襖の外に向けて「佐彦……」と呼びかけた。
すると佐彦が、酒と盃を乗せた膳部を恭しく差し出す。
勝姫は盃を辰丸に手渡すと、しなやかな手つきで酒を注いだ。
部屋の中に差し込む朝日は、二人を明るく照らす。
部屋に伸びた二つの灼然たる黒い影は、二人の不退転の覚悟を映し出しているようであった。
虚無恬淡――
辰丸は酒を口に含んだその瞬間、心を埋め尽くす全ての思いを捨てていた。
そして、盃は空になった……
――パリンッ!!
辰丸は勢い良く土器の盃を床に落とすと、盃はあらゆる邪気や雑念と共に粉々になって砕けた。
それを見届けた辰丸は、ぐっと腹に力を込めて言葉を吐き出した。
「では、行ってきます」
「どうか御無事で……」
勝姫は、辰丸の横にある兜を差し出すと、辰丸はそれを受け取る。
ずしりと手にかかる重みは、単に兜の重量だけであろうか……
しかし辰丸はそんな些細な事に頭を巡らせることもなくそれをかぶり、きゅっと緒を締めた。
そして静かに立ち上がると、部屋の外へと姿を消していったのだった――
一人部屋に残された勝姫。
疎遠になってしまってからでも、いつも辰丸を近くに感じていた。
一日のうち、少しでも辰丸の姿が目に入ると、それだけで幸せを感じることが出来た。
勝姫が辰丸の事を想うの気持ちは、
例え二人の距離が離れようとも、
例え周囲が騒がしくなろうとも、
京の街を二人で巡ったあの時から全く変わっていなかった……
その彼が今、遠い戦場へと赴いてしまった。
もう辰丸を感じる事は出来ない……
それを実感したその瞬間、彼女の細い肩が震え出した。
今まで抑えていた感情が一気に溢れ出す。
それでも彼女は泣き崩れることもなければ、大きな泣き声を上げる事もなかった。
辰丸が心を奮い立たせて戦場に赴いたように、彼女もまた気丈に彼の帰りを待とうと心に決めていたからである。
「辰丸様…… どうか、どうか御無事で……」
彼女は胸の前で手を合わせると、天に祈るような気持ちで呟いた。
その両手の中には……
二人の思い出の櫛……
太陽が越後の空に高く昇ると、部屋の中は白色に染まる。
その中にあって勝姫の横顔もまた凛とした輝きに包まれていったのだった――
………
……
同日 昼――
辰丸率いる長尾軍一千の兵が春日山城を出立した。
そのうち百は辰丸自身が準備した兵で、残りは景虎が何かあった時の為に残した兵たちだ。
その中には侍大将となった小島弥太郎と、宇佐美定満によって辰丸の補佐を命じられた宇佐美定勝の姿もある。
辰丸にとっては『友』と呼べるこの二人の存在は、どんな大軍よりも心強かったと言えよう。
それほどに、軍勢の中の一兵士として参加する戦と、大将として兵を率いる戦とでは、その身に感じる孤独と、責任の重さは比にならぬ程の違いがあったのであった。
長尾軍はこのまま越後北部へと進んでいく。
この後は色部勝長の居城である平林城で長尾家に加担する揚北衆の軍勢と合流する事になっている。
具体的には、色部勝長五百、竹俣重綱五百、そして加地春綱五百を始めとする総計三千。
辰丸率いる本隊と合わせれば、長尾軍は四千にもなる予定だ。
対する本庄繁長は、盟友鮎川清長と共に本庄城にて挙兵し終えているとのこと。
その数はおよそ二千。
兵力差は倍あるが、本庄繁長は城を出て戦いに挑んでくるであろうことが予想されていた。
なぜなら彼らを支援する出羽の大宝寺氏の存在があり、彼らは背後を衝かれる心配がないからだ。
そこで辰丸は、まずは大宝寺氏の攻略から手をつけた。
すなわち万が一本庄繁長が蜂起した場合の事を考えて、予め長尾景虎より大宝寺氏に降伏を勧告する書状を辰丸が預かっていたのである。
辰丸は使番にその書状を手渡すと、「これを大宝寺氏へ。急ぎで頼みますよ」と指示をした。
これで早ければ長尾軍が平林城へ到着する頃には、大宝寺氏の降伏の報せが届くことだろう。
そして大宝寺氏が降伏したとなれば、本庄繁長は思惑とは逆に背後から狙われる事になる。
兵力差も歴然であることから、どんなに戦上手な彼であっても「野戦では勝ち目なし」と考えるのは、自明の理であった。
こうなれば後は本庄城を取り囲むだけのこと。
その後、『利』をもって説き明かせば、自ずと城門を開けるに違いない。
すなわちこの戦は、大宝寺氏の降伏が成れば決着したといっても過言ではないものであり、味方だけではなく、敵方も一切の犠牲なく終わる事が出来るはずなのだ。
しかし……
辰丸の胸の内は晴れる事はなかった。
むしろ春日山城から離れるに従って、不安の雲はどんどん厚みを増していく。
その不安の元凶は、言うまでもなく長尾政景の存在だ。
もし辰丸の読み通りであれば、このまま彼が指を加えて本庄繁長を降伏させるとは思えない。
そもそも今回の本庄繁長の蜂起を裏から手引きしたのは長尾政景その人であると、辰丸は踏んでいた。
それが正しければ、みすみす繁長の降伏を待つだけとはしないはずだからだ。
必ず、何か仕掛けを作っている……
とは言え、『上田派』である竹俣重綱や加地春綱が、本庄繁長側に寝返って、あからさまに長尾軍に槍を向けてくることはない、と辰丸は考えている。
なぜなら彼らは『上田派』ではあるが、それ以前に長尾家に対して歯向かうつもりはさらさらないからだ。
もし長尾軍の大将である辰丸を急襲した場合、仮に辰丸の軍勢を壊滅させたとしても、確実にその暴挙は露見する。
そうならば、一時の勝利の美酒が後の辛酸へと変わる事は、誰が考えても明白なことだ。
かつての黒川清実のように……
仮にも長尾家の家老に席を並べる彼らが、そのような馬鹿げた事をしでかすとは考えにくい。
……となれば、一体何が自分の身と長尾軍を待っているのだろうか……
さながら暗闇の中を手さぐりで進んでいくような緊張感に、辰丸はまだ進軍開始してから半日も経たずうちに、ぐったりとした疲労を覚えていた。
……と、その時であった。
「あんまり深く考えるな。もはやなるようにしかならないんだからよ」
と、聞き慣れた低い声が馬上の辰丸にかけられたのである。
それは、宇佐美定勝であった。
実のところ、彼は今回の戦に参加しない予定であった。
しかし辰丸の事を心配した彼は、わざわざ川中島にいる父の宇佐美定満にうかがいを立ててまで、長尾軍に加わったのである。
元より足軽大将の身分である彼は、二十名の足軽を引き連れて徒歩で進軍していたのだった。
そして辰丸は定勝の方へ視線を向けた途端に、張り詰めた緊張がほぐれるのを感じた。
定勝も、辰丸の緊張が解けた事を感じて、安心したように肩の力を抜く。
すると今度は左手にいる定勝とは逆側、つまり辰丸の右手から高い声がかけられた。
それも聞き慣れた声……すなわち小島弥太郎の声だった。
「そうそう、おっちゃんの言う通りだぜ!
まあ、おっちゃんは戦ではあんまり役に立たねえけど、何かあったらおいらが守ってやるからよ!
辰丸はなんにも心配することはねえって! 」
「やい! 弥太郎! お主はいつも一言多いのだ! ちっとは年長者を敬え! 」
「へんっ! 自分の事を敬えって奴ほど、ろくな奴はいねえってもんだ!
その証においらと辰丸はこうして馬に乗っているが、おっちゃんはいつまで経っても徒歩のまんまじゃねえか! 」
辰丸は弥太郎の言葉に、ピクリと眉を動かす。
なぜなら彼は知っているからだ……
いつまで経っても宇佐美定勝が徒歩である理由を……
定勝はその辰丸の反応を見て、彼がその理由を知っていることを勘付くと、「ふぅ」と大きなため息をついた。
「まあ、俺の事は今はどうでもいいじゃねえか。
それより、辰丸。なんとしても無事に帰ると約束してくれ」
辰丸は定勝の言葉の意図が咄嗟には思いつかずに「ええ、それはもちろんお約束いたします」と当たり前のように返事をした。
すると定勝は口元を緩めた。
「ふぅ……これで一安心というものだ。何せお主を無事に帰さないと、泣く者がおるのでな」
辰丸はその言葉を耳にした瞬間に顔が真っ赤に染まる。
もちろん定勝の言う『泣く者』とは勝姫の事を指しているのは明らかだからだ。
その様子に眉をひそめていた弥太郎だが、しばらくした後、ぱっと顔を明るくすると、周囲に聞こえるような大きな声を上げた。
「おお!! 辰丸もついにお勝殿と夫婦になると決めたということだな!!
いやあ、城内のみんなが『あの二人はいつ夫婦になるんだろう? 』と首をかしげていたから心配していたんだが、ようやく辰丸も腹を決めたということだな!
これはめでてえ!! はははっ! 」
辰丸は目を丸くすると、「ど、どういうことですか!? 」と、定勝の顔を覗き込んだ。
するとニヤリと口角を上げた定勝は、悪びれもせずに言ったのだった。
「いやあ、本丸が落ちなければ、外堀を埋めるというのが城攻めの定石であろう?
それを実践したまでのことよ」
「さ、定勝殿!! な、なんということを!! 」
「はははっ! もう逃げも隠れもできねえぞ! 早く腹を括って、俺の息子になれ!! はははっ! 」
「そんな……定勝殿……」
「いいんだぞ? もう、『父上』って呼んでも。はははっ! 」
定勝の高笑いが越後の空にこだますと、どこか重い空気だった長尾軍全体が軽い雰囲気に包まれていく。
辰丸は定勝に救われたと、心から感謝した。
もう何度目の事だろう……
定勝に助けてもらったのは……
そしてこれから何度助けられるのだろうか。
「定勝殿……ありがとうございます」
思わず辰丸は感謝の言葉を漏らしていた。
するとそれを聞いた定勝は、「ふん」と鼻を鳴らして、
「だから『父上』と呼べと何度言えば分かるのだ」
と、照れ隠しのように冗談を口にしたのだった。
この時点で辰丸は心に決めた。
この戦が終わり、春日山城に戻ったら……
この人の事を『父』と呼ぼう。
と……
しかし――
拙作にイラストを頂きました。
「第一部・第一章」の最終話「正道へと導く才」に挿絵として掲載いたしておりますので、
よろしかったらご覧いただければと存じます。