越後の奸雄、策を講じる
◇◇
辰丸と定満が語り合っているのと丁度同じ頃ーー
御館のとある部屋には数人の家老たちが集まっていた。
その中心に座っているのは、長尾政景。
そして彼を囲む『上田派』の面々だ。
しかし、いつもなら部屋がいっぱいになるほどに集まるその人数は、今日は随分と寂しいものであった。
政景は、口元こそニヤニヤと笑っているが、手元でせわしなく床をつついているあたり、余裕を装ってはいるが、内心は面白くないのだろう。
彼の胸の内を苦くしているのは、無論、『長尾三家統合』であることは間違いない。
実はこの『長尾三家統合』については、景虎の口から公表されるよりも前に、重臣たちの間では知れ渡っていた。
その直後の事である。
『上田派』の者たちが、一人また一人と政景の前から消えていったのは……
ーー長尾政景様にこれ以上肩入れしても、先があるまい
そんな声は、家老たちからだけではなく、越後の商人たちからも聞こえ出すと、当然のように政景自身の耳にも入ってくるようになってきたのである。
そうなると彼の苛つきは頂点に達したのだった。
そして今こうして目の前に集まった面々は、そのほとんどが『揚北衆』。
そうでないのは、『揚北衆以外の国衆』の直江景綱や、政景の家老である樋口兼豊くらいなものであった。
この状況を見て彼は、言いようのない危機感を覚えていたのだった。
「政景様、いかがなさるおつもりでしょう? 」
そう口を開いたのは、竹俣重綱。
まだ若い彼は、あまり場の空気というものを読むのが得意ではないらしい。
その質問はこの場では、言わば『暗黙のご法度』であった。
一斉に竹俣重綱に冷たい目が向けられると、彼は「相すみません……」と、小さくなって部屋の隅へと移っていった。
その様子に、政景はあえて笑みを大きくして答えた。
「いかがするつもりか……と、問われれば、将軍義輝公の『御内書』に従うだけである。
ははは! 重綱殿はわしが義輝公に逆らってまで、長尾家を守らんとする熱血漢にでも映ったのか?
すまんのう、わしは意外と薄情者なのだ。
どうじゃ? お主もわしに失望したか? わしの元から立ち去ろうと、そう思ったか? どうなのじゃ?
もしそのつもりがなければ、どうして分かり切ったことを問いかけたのじゃ? 」
重綱はますます小さくなって政景に頭を下げている。
政景はそんな彼を見て、苦々しいものを顔に浮かべたが、これ以上彼の事を追い詰めても無駄に味方を減らすだけだと思い直し、彼の元へと歩み寄ると、優しく肩に手をかけた。
「はははっ! これは意地悪なことをしてしもうたのう! すまん、すまん!
しかし、わしも人なのだ。
御先祖様が代々守り抜いてきた長尾家の名を、『お家も持たぬ』悪餓鬼の讒言によって、取り潰されてしまうことに、悔しい思いがないわけではない。
しかし、これも時代のさだめと割り切ることにした。
これも天下泰平の為のこと…… 上田長尾家当主である以上、常に越後国と天下の事を思わんとならんからのう! はははっ! 」
「なんと器量の大きなお方であろうか!! この重綱、一生を懸けて政景様についていきまする!! 」
再び深々と頭を下げた竹俣重綱に対して、政景は彼の背中をさすりながら「もうよい、お主の気概、この政景は嬉しいぞ」と、優しく声をかけている。
しかしその目は全く笑っていないことに、周囲の人々はかえってゾッと恐ろしいものを感じていたのであった。
――何か企んでおられる……
直江景綱や、『揚北衆』の加地春綱らは、薄々そのように思い始めていた。
そして、その推測を確かなものにしたのは、他でもない、政景の言葉であった。
「しかし、景虎殿も偉くなるものよのう! 『関東将軍』とな!?
なんでも甲斐や信濃の平定も、その役目に含まれておるようではないか!
今頃、武田晴信も戦々恐々としておるに違いあるまい!
何せ景虎殿がいつ関東将軍に就任するか、全く分からんのだからのう はははっ! 」
政景の口から突如として発せられた『武田晴信』という名前……
この時点で勘の良い直江景綱は、とある事に気付いていたのである……
それは……
――武田晴信を動かすおつもりか……
というものであった。
政景はまくし立てるように早口で続けた。
「だが、武田晴信は手ごわいぞ! まともに勝負すれば、共に激しく消耗し、笑うのは北条であり今川であろう!
そこで……だ。
このわしが自ら一計うつことを、景虎殿には了承してもらった」
「まさか……政景様自らがご出陣されるのでしょうか!? 」
「はははっ! 勘違いするでない、重綱殿! 春日山城の留守居ばかりのわしが、今更戦場で槍を振るっても、大して役に立てぬ! 」
「それでは……」
政景は全員を見渡して、ニヤリと口角を上げた。
相変わらずその目だけは、漆黒の何かを携えたまま……
「皆は大熊朝秀を覚えておるか? 」
その名が出た瞬間、先ほどの『武田晴信』の名が出たときよりも遥かに大きな衝撃が、部屋の中に走った。
大熊朝秀――
本庄実乃が『景虎派』の筆頭ならば、大熊朝秀は『上田派』の筆頭であった。
もちろん長尾家においては、数少ない『宿老』の一人であった彼だが、本庄実乃との激しい派閥争いに敗れると、越後を追放されてしまったのである。
そして今の彼は……
『甲山の鬼神』飯富源四郎昌景に拾われたと、風の噂が流れていた。
その彼と政景が通じているというのは、人々にとってまさに寝耳に水だったのである。
驚きのあまりに言葉を失っている人々をよそに、政景は続けたのだった。
「来年の六月より先、景虎殿が甲斐と信濃を制圧する大義名分が出来る。
そうなればいよいよ大軍を持って、宿敵を討ちにいくであろうな。
その絶好機に大熊殿が寝返れば……」
「武田晴信を内から崩す事が出来る……ということですな」
竹俣重綱の言葉に小さく頷いた政景は、淡々と続けた。
「……しかし、もしわしが武田晴信ならば、景虎殿が『関東将軍』に就任する前に動くであろうな。
もし『関東将軍』に就任した後となれば、将軍様の意向に逆らう逆賊となってしまうからのう」
「つまり武田晴信は、お屋形様が来年六月に『関東将軍』へ就任することが分かれば、来年の春にでも動く……ということですかな? 」
「万が一、武田晴信に漏れてしまったなら……それは避けられまい」
長尾政景と竹俣重綱が会話を続けている間も、直江景綱は全く表情を変えなかった。
しかし、その腹の内では、政景の考えを知り、凍えるように震えていたのである。
――大熊朝秀を通じて、武田晴信にお屋形様の『関東将軍』就任の時期を漏らすおつもりか…… しかし、それだけではまだ甘い。まだ何か考えておられるに違いない……
すると政景は一通の書状を取りだした。
「これは揚北衆の一人、本庄繁長なる青年からの書状である」
「本庄繁長…… ああ、揚北衆でありながら、未だに長尾家に忠誠を誓わぬ強情者か」
加地春綱がそうつぶやくと、政景はニヤリと笑った。
「そう悪く言ってくれるな。かの者の書によると、いよいよ本庄繁長も長尾家の一員として席が欲しいそうじゃ。
そこで長尾家一門衆であるわしを通じて、景虎殿に口添えして欲しいと書状を寄越してきたという訳じゃ」
「なんと……繁長が……? それはまことでありましょうか」
本庄繁長――
未だ十九の若武者だが、既に波乱万丈の生涯を送ってきた。
従来より長尾家に反抗的であった本庄家。
それはまだ彼が生まれたばかりの頃、彼の叔父らによって、繁長の父の本庄家当主を討たれ、家族ごと居城である本庄城を追われてしまった。
しかし、十三となり元服すると、生来の勇猛さをいかんなく発揮して、なんと本庄城を奪取したのである。
それ以降、本庄家の盟友でもある鮎川清長とともに、出羽の大宝寺氏と通じて、何かと長尾家に反抗し続けてきたのであった。
その本庄繁長が、長尾景虎に対して、降伏の意志を示していると言うのだ。
同じく『揚北衆』の加地春綱にしてみれば、にわかに信じられないというのが本音であろう。
しかし政景の手から渡された書状は確かに本庄繁長自身からのものであり、盟友の鮎川清長とともに長尾家に降るという内容であった。
「これが真であれば、いよいよ越後の支配は盤石なものになりますな」
そう加地春綱は、ほっとしたように肩の力を抜いた。
しかし……
長尾政景は、ますます声を低くして続けたのだった……
「はて……? 何度も長尾家に歯向かってきた本庄家が、そうやすやすと降参してくるだろうか……? 」
「なんと…… どういうことでしょう……? 」
「いや、杞憂ならそれでよいのだ。しかし、どうにもわしには信じられん」
「……と、申されますと……? 」
「軍門に降ったと見せかけて、ある時、武田晴信らと通じて蜂起する……かような未来が目に浮かぶようじゃ」
「……ならば本庄繁長を討つより仕方ない…… そう、政景殿は申すのであろうか? 」
春綱の問いに政景は頷きはせずに、目をギョロリとさせながら周囲を見渡した。
その眼光の鋭さに、その場の全員が息を飲む。
そして彼はあくまで穏やかな口調を装って続けたのだった。
「いや……『討伐』などと血生臭い事は嫌いだからのう。
試してみようと思うのじゃ。その忠誠の程をのう……」
「いかにして? 」
「本庄城の明け渡し……などはいかがであろうか……」
「な、な、なんですと!? それは…」
驚愕に言葉を失う春綱。
それもそうだろう……
もし、本庄繁長に対して「本庄城の明け渡し」を勧告したなら……
確実に彼は逆上して、激しい反抗をしてくるに違いない。
つまり長尾政景は、あえて本庄繁長を怒らせて揚北の地……すなわち越後国の最北部で戦を起こさせようとしているというのだ。
その真意を彼は相変わらず不敵な笑みを浮かべたまま語ったのだった。
「もし……武田晴信の川中島侵攻に、本庄繁長の蜂起が来年の春に同時に襲いかかってきたなら……
とてもじゃないが、『関東将軍』を就任する祝いを六月に行う余裕などあるまいな。
いや、もっと言えば、その二つの問題を片付けるまでは、『長尾三家統合』と『関東将軍就任』の二つは延期すべきであろう。
来年とは言わず、五年でも十年でも……」
「……もし、『御内書』の通りに事が進まぬということになれば、長尾家当主としては完全に失格ですな」
竹俣重綱が何かを思いついたように、口元を緩める。
すると長尾政景は眉をひそめて、彼をたしなめた。
「これこれ、滅多な事を言うものではない。長尾家の繁栄の為、一つずつ災いを解いていく事に、わしらも全力を傾けようではないか」
「はっ! これは大変失礼いたしました! しかし、お屋形様が二つの離れた地での問題を解決できましょうか? 」
注意を受けながらも笑みを絶やさない竹俣重綱に対して、政景もこらえきれずに口元を歪めて締めくくったのだった。
「万が一、景虎殿に災いを解く器量がない、となれば、その時はその器量を持つ者が、上に立つより他あるまい。
ふふっ……それが誰かは、わしには分からぬがな。はははははははっ!! 」
こうして政景の高笑いが部屋の中を包むと、その場の全員が口元に笑みを浮かべた。
しかし内心では、自分は一切動かずに大局を動かす事を企む長尾政景という男に、耐え難い恐怖を覚えていたのである。
――この人に目を付けられたら……その時こそ身の破滅の時だ……
そして、彼は忘れ物でもあったかのように最後に付け加えたのだった。
「そう言えば、ここのところ目障りな『蠅』がうろついていてかなわんのう。
この機に、その『蠅』も叩きつぶしておくとしようか……
かの宇佐美定勝のように……
くくく……わははははははっ!! 」
と――
こうしていよいよ『越後の奸雄』長尾政景の手が、未だ何の力も持たぬ辰丸に伸びようとしていたのだった――
【1560年時点 越後国周辺情報】