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辰丸の懸守

◇◇

 永禄2年(1559年)5月11日――


 この日、長尾家の面々は終日自由を言い渡されていた。

 恐らく長尾景虎は、青芋あおその販路について、近衛前久このえさきひさや京の商人たちと協議しているのだろう。


 辰丸は「鉄砲調達」、「長尾家統合」、「景虎の関東将軍就任」の三点を自分なりにやり切ったこともあり、どこか気が抜けたようであった。



 部屋の中で、ゴロンと寝転がると仰向けとなった。



 明日は京を発つ。

 そして数日後には越後に帰ることが出来るだろう。


 まだ帰路が残されてはいるが、どっと疲れが出る。



 そして一人になれば、決まって思い出されるのは……



 涙にくれる黒姫の顔であった……



 彼はギュッと目をつむった。

 こうすれば全てを忘れられると考えたからだ。

 しかしそんな彼の思惑とは裏腹に、今度は彼女の姿が瞼の裏に浮かび上がってくる……


 後悔や未練などないはずなのだ。


 いや、それらを持つことなど許されるはずもない身なのだ。



 それでも浮かんでは消えを繰り返す黒姫の残像。


 そしてもう一つ彼を悩ませるもの。

 それは、初めての口吸い(口づけのこと)……



「柔らかかったな……」



 辰丸は、目を閉じたまま、唇に手を触れた。

 まるであの時の感触を思い出すように……


 と、その時であった。



「何が柔らかかったのでしょう? 」


「うわぁっ!! 」



 急に頭上で響いてきた声に驚いた辰丸は、慌てて飛び起きた。


 するとそこには勝姫がキョトンとした顔をして座っていたのである。


 まさか「黒姫の唇が柔らかかった」など言えるはずもなく、辰丸はただ顔を真っ赤にして勝姫を見つめるより他なかった。


 その様子を目を細めて、じーっと見る勝姫。



「辰丸様、怪しいです」


「い、いや、なんでもございません!

そ、それに急にいかがしたのです!? 」



 額に汗を浮かべながら、必死に話題を変えようとする辰丸のことをしばらく見つめていた勝姫であったが、「はぁ……まあ、いいか」と大きくため息をつくと、ずんずんと辰丸の元に寄ってきた。


 辰丸は真剣な表情の勝姫の圧力に、恐怖を感じて、


「い、いかがしたのですか!? 」


 と言いながら後ずさりする。


 しかし彼女はそんな辰丸のことなど御構い無しに、とうとう彼のすぐ側までやって来ると、ムズッと彼の細い腕を掴んだ。



「今日は特にやることもないのでしょう?

ならば街に出ましょう!

折角京まで来たのです!

日の本一の街を散策せずして、越後に帰るのはもったないというものです! 」


「し、しかし、私は……」


「私は何ですか?

どうせ暗い顔をして一日中寝転がっているだけなのでしょう?

ならば京の最後の日くらい、私の言う通りにしてくださいな」



 そう言うと、勝姫は辰丸を立たせて、自分は背中を向けた。

 そしてボソリと呟くように告げたのだった。



「……辰丸様には暗い顔よりも、楽しそうに笑ってらっしゃる顔がお似合いです。

だから……」



 この言葉で辰丸は、目を丸くした。


 そして気づいたのである。



 川中島を出立してから、どこか暗い顔をしがちであった辰丸……



 そんな自分の事を、健気に元気づけようとしてくれていることに……



 辰丸は勝姫の背中を見て微笑むと、


「実は前久様にお伺いした、美味しいと評判のお団子屋さんに行ってみたかったのです。

もしよかったら、お付き合いいただけないでしょうか? 」


 と、努めて明るい声で語りかけた。


 クルリと振り返る勝姫。


 始めは目を丸くしたが、すぐに満面の笑みを浮かべると、


「はいっ! 行きましょう! 」


 と、辰丸の手を取った。



 繋いだ手が熱を帯びている。



 それは辰丸だけでなく、勝姫も同じようだ。


 

 緊張からだろうか、それとも興奮からだろうか……




 それとも……

 



 そこまでで辰丸は頭で考えるのを辞めた。


 今日は……


 今日だけは心で全てを感じよう。


 そして今、感じていることを、辰丸は口に出した。



「ありがとう」



 勝姫は嬉しそうに目を細める。

 そして、弾むような声で言ったのだった。



「どういたしまして! 」




………

……

 団子屋、芝居小屋、着物屋ーー



 辰丸と勝姫の二人は時間を忘れて京の街を堪能した。



 以前からそうだったのだが、勝姫はとにかくよく笑う。


 

 こうして二人だけで行動を共にしていると、あらためて彼女には笑顔がすごく良く合うと、辰丸は思った。


 そして不思議と、ずっとその笑顔を見ていても全く飽きない。

 だから、こうして雑貨屋に入ってからというものの、彼は店頭に並べられた品物よりも、勝姫の横顔ばかりを見ていたのだった。


 すると店の主人が辰丸の様子を見て、揶揄からかった。



「おいっ! 旦那さんよう!

いくら奥方様が美人だからといって、そんなに彼女の顔ばかり見てないで、うちの品の方も見ておくれよ! 」



 その店の主人の言葉に、辰丸と勝姫は、顔を真っ赤にして固まってしまった。


 そして辰丸は、絞り出すようにして言った。



「わ、わ、私たちは夫婦めおとではございませぬ」


「あれ? そうだったのかい!?

仲睦まじいからてっきり新婚さんとばかり思っていたんだがのう? 」



 すると頭から湯気が出るくらいに熱くなっている勝姫が、店頭の品を一つ手に取って、たどたどしく震える声で言ったのだった。



「た、た、辰丸様! わ、私はこれが欲しゅうございます! 」


「わ、分かりました! 主人、これをもらおう! 」


「へいっ! 毎度あり! 」



 そして辰丸が代金を支払って品物を受け取ると、二人は逃げるようにして、その場を去ったのだった。



………

……

 しばらく無言で足早に歩く二人。


 とてもじゃないが互いに顔など合わせることは出来ない。


 そしてとある神社の中に入ると、人混みのない所でようやく一息ついたのだった。



 ふと、辰丸は先ほどの雑貨屋で買った品物が手元にまだあることを気付く。


 それは、美しいくしであった。


 勝姫に似合いそうな朱色の模様が散りばめられている。


 辰丸は呼吸を整えた後、勝姫と向き合うと、その櫛を差し出した。



「こ、これ……お勝殿に……」



 勝姫は相変わらず赤い顔のまま、辰丸が差し出した櫛を受け取った。



「ありがとうございます……

実は私からも辰丸様に贈り物があるのです」



 そして勝姫が懐から取り出したのは……



 懸守かけまもりーー



 それは護符などを入れて御守りとして利用する小さな袋のことだ。

 細い紐を通せば、首からかけて、常に身に付けておく事が出来る。


 勝姫は前日にこの懸守を手に入れ、中に護符を入れておいたらしい。



「護符は絶対に開いてはなりませんよ! 」



 と、勝姫は何度も辰丸に念を押した。



「ありがとうございます。ずっと大切にします」



 と、辰丸は早速それを首からかけると、ニコリと勝姫に微笑みかけた。


 その笑顔を目にして、勝姫は心の底からほっと安心した。



 なぜならこの笑顔が見たかったのだから……



 そして辰丸の方も安心したようだ。

 ため息まじりに先ほどの出来事を話した。



「しかしあの店の主人には参りましたね……

とんだ勘違いをされてしまいました」



 しかし勝姫は辰丸の言葉を否定するように、消え入りそうな声で言ったのだった。



「わ、私は辰丸様となら夫婦に間違えられても、別に構いません……」


「え……それは……」



 再び顔がみるみるうちに熱くなる辰丸。




 初夏にしては爽やかな乾いた風が吹くと、神社の中の高い木々が揺れる。



ーーガザガサ……



 木の葉が重なり合う音が、互いに顔を合わせることが出来ない二人を、優しく包み込んでいた。




「そ、そろそろ帰りましょうか! 」




 勝姫が意を決したように、ぎこちない声で言うと、辰丸も


「そ、そうしましょう! 」


 と、ぎくしゃくした調子で返した。


 

 辰丸はここでも頭で考えないように努めた。



ーー心で……心で感じるんだ……!



 そんな風に何度も言い聞かせると、全てを心に委ねたのだった。



 すると……



「えっ……辰丸様……? 」



 彼は自然と勝姫の手を優しく握って歩き始めたのだった。



 驚きに目を丸くする勝姫。



 しかし彼女もまた頭で考えるのを辞めたのだろう。



 次の瞬間には、心の底から幸せそうな表情となって、辰丸の手を握り返したのだったーー




………

……

 辰丸と勝姫の二人が去った神社ーー



 実はそこにたまたま通りかかった二人の男がいたことに、辰丸も勝姫も気づいてなどいなかったのである。



 そしてそんな彼らの様子を見て、一人の方がどこか観念したように話した。



「……親父殿、俺は決めたぜ……」



 その言葉に、もう一人の方も肩の力を抜きながら返した。



「本当に良いのだな……? 」



 それは……



 宇佐美定満と定勝の親子であった。



 定勝は父親の問いかけに答えた。



「俺は賭けてみたいんだよ。あの男の未来に」


「そうか……なら、わしから何も言うことなどない。

そもそもお主の娘なのだ。

お主の好きなようにすればよい」


「ふん……! そんなこと言っておきながら、親父殿だって本当は少しほっとしているのだろう? 」



 定満は定勝の顔を見て、眉をピクリと動かす。



「ああ、そうかもしれぬ。何せお主はもう二度と妻を娶るつもりはないというのだから……

もしこのまま嫡男が出来ぬようなら、宇佐美家は断絶してしまうからのう」


「ふんっ! 可愛い孫娘の幸せよりも、お家のことを真っ先に口にするなんて、これだから後先短けえ老いぼれは嫌だねぇ」


「そう言うてくれるな……

お主の亡き妻も、空の上から喜んでくれておるだろうよ。

お家のことも、娘のことも……」


「ああ……だといいがな。

あとは……辰丸の心次第だな」



 そう定勝は祈るような気持ちで言った。


 すると定満は少し驚いたような声を上げたのだった。



「お主がそんなにも惚れ込むなんて……不思議なこともあるものじゃ」



「そっくりそのままお言葉を返すぜ、親父殿」



 そんな風な会話を繰り返しながら、二人もまた今宵の宿へと向かって歩き始めたのだった。



 



 






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