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漆黒と純白

◇◇

 それは近衛前久が、父とともに近江国にいた時のことだ。

 当時十六歳の織田信長が、前久の父を突然訪ねに来たことがあった事を思い出した。



ーー貴殿が近衛関白公であるか?


ーーいかにも、近衛稙家このえたねいえ(近衛前久の父親)と申す。


ーーうむ、われは織田上総介信長。では早速、一つ問おう!


ーーほう、われに答えられる問いならばよいのだがな。


ーーわれは『鉄砲』を欲しておる。


ーー『鉄砲』? それなら堺の商人あきんどの元へ行けば……


ーーふんっ! 関白公と名乗るからには、どれ程のお方と思っていたが、所詮はケツの穴の小さき男であったか……


ーーおいっ! その物言い! 目上の者に対し無礼であろう!


ーーならば答えよ! われが欲するは一丁や二丁ではない! 人の足元しか見られん視野の狭き下賤のやからから買う気など、さらさらないのじゃ!


ーーな……なんだと……!?


ーーわれが欲するは鉄砲五百! どこぞで手に入るか答えてみせよ!


――ご……五百だとぉぉ!? し、しかし一体いくら出せるというのか!?


――五千貫(現在でいう五億円程度)!!



 この時彼は二つの事に度肝を抜かしたことを良く覚えている。



 一つは、織田信長という男がこの時はまだ十六歳の少年で、未だ家督も継がぬ世子であったにも関わらず五千貫もの大金を動かしたこと。

 そして、もう一つは、当時商人から買えば一丁百貫(約一千万円程度)はくだらない鉄砲を、一丁あたりわずか十貫で手に入れようとしていた事だ。

 

 

 しかし信長の目は到底冗談を言っているようには見えず、至って真剣そのもの。

 

 その野望に燃えた目を前久は二度と忘れることはないだろう。

 そしてこの時から予感を覚えていたのである。

 

 

――この男は必ずや天下を食う傑物になる……



 と――

 

 

 結局父は、近江にある国友村を紹介し、信長は見事に鉄砲を希望の額で入手したという……

 

 

 

 前久は今、その時の父の吃驚仰天きっきょうぎょうてんな気持ちを正しく理解していた。

 

 

 なぜなら目の前のわずか十五の少年辰丸が問いかけてきたのである。

 

 

 

「鉄砲が欲しいのです。百丁ほど。千貫(約一億円)で手に入りませんでしょうか」



「百丁…… 一千貫だと……」



 前久は完全に言葉を失ってしまった。

 

 確か目の前の少年は『農民の出』であったはず……


 五千貫を動かした十六の信長は、それでも国守の一族、言わば大金を動かせるだけの下地があったと言えよう。


 しかし未だ武家に取り立てられたばかりの、少年がどうして千貫もの大金を動かせようか。


 それだけではない。


 そんな大金を『鉄砲』という、まだ世間に広く渡っていない、言わば得体の知れないものに投じようとしているのだ。



「お主……かような大金……いかにして手にしたのか? 」



 すると辰丸は静かに首を横に振った。

 

 

「今は手元にございません」



「なんだ……驚かせおって……冗談のつもりなら、答えてやる義理はねえな。

早く景虎様を追いかけて、出ていくとよい」



 前久は手を振り辰丸に「早く出ていけ」という合図を送る。

 

 しかし、辰丸は口元にかすかな笑みを浮かべながら、微動だにしなかったのである。

 

 

 そして……

 

 次の辰丸の言葉に、前久は大驚失色たいきょうしっしょくしてしまったのであった。

 

 

「三百貫分の青芋あおそならございます」



「な……なに……!? 」



 まるで脳を激しく揺らされたような衝撃に、思わず近くの柱に寄りかかった前久。

 そんな彼に辰丸は、一歩また一歩と詰め寄りながら続けた。

 

 

「この二年間、私は農民たちの手伝いに精を出しました。

そこで皆さんと仲良くしていただき、越後名物の青芋を大量に、しかも安くお分けいただいたのです。」



「さ……さようであったか……それはよかったのう」



 全身に汗をかきながらも、とぼけた声を上げる前久に対し、辰丸はついに彼の目の前までやって来た。

 

 そして辰丸は顔を前久の耳元に近づけて、ささやいたのだった。

 

 

「三百貫の青芋を、一千貫にする道を、関白公ならご存知かと」



 ぞわりと前久の背筋が凍ると、彼は完全に蛇に睨まれた蛙のように完全に固まってしまったのである。

 

 辰丸は前久から一歩離れると、冷気を伴った目を細めながら彼のことを見つめた。

 なおも口を開けない前久に対して、辰丸は穏やかな口調で続けたのだった。

 

 

「京では、青芋を元にした染物や着物が、良い値で売られておりました。

何でも越後から安く買い付けて、近江や堺に住む職人たちへ青芋を卸されているのは、とある方々とか……」



 辰丸の言う『とある方々』とは、言うまでもなく前久を始めとする数名の公家や商人のことだ。

 

 この時、越後の長尾景虎はこの青芋で莫大な利益を上げていたと言われている。

 先ほど前久が景虎に「例の件」と耳打ちをしたのは、この青芋の販路の目途についてであった。

 

 なお、近衛前久はこの先に薩摩に渡り、坊津という港から異国と密貿易(幕府や朝廷に対して報告せずに貿易をすること)によって蓄財するなど、類稀たぐいまれなる商いの素養がある。


 その事を辰丸は既に京に入る前から見通していた。


 いや、正確には「景虎の上洛の目的が将軍謁見だけではなく、青芋の新たな販路拡大であること」を、旅路につく前より見抜いており、京に入ってから真っ先にその交渉相手と面会すると踏んでいたのだ。

 

 果たして辰丸の予想は、見事に的中したという訳だ。


 辰丸は続けた。



「もし関白公が全てをご承知いただけるというこであれば、三百貫分の青芋は、私が越後に戻り次第、すぐに京に運ばせましょう。

関白公はそれを元手として、鉄砲百丁を私あてまでお届けくだされ。

余った銭は関白公の懐にお納めいただき、天下のお役に立てていただければ、それに越したことはございません」



 なんと言う大胆な商談であろうか……!



 しかし、もし本当にこの少年が三百貫分の青芋を送ってきたならば、鉄砲百丁と引き換えにしても、大きな利益が出ると、前久は算盤を弾いていた。


 前久は、グッと辰丸を睨みつけるように見つめた。


 辰丸は変わらぬ微笑みを携えて、前久のことを見つめ返した。



 この目……



 織田信長とは違う。



 しかし、織田信長と同等の『何か』を感じさせる。



 例えるなら、織田信長のそれが『漆黒』であれば、目の前の少年のそれは『純白』……



 もしこの二人が同じ戦場に立てば……



 前久はそう考えた瞬間に、思わず涙が浮かんできそうな程の感動に心が震えた。



 そして心の底から見てみたくなったのである。


 『軍神』長尾景虎の隣に立つ『龍神』辰丸、その二人が天下に名乗りを挙げて、『魔王』織田信長と雌雄を決するその時を。



 前久は……



「あははははははっ!! よい! よいぞ!! 」



 と、思わず大笑いを始めた。



 そして辰丸の両肩に手を置くと、熱を帯びた声で言ったのである。



「よいだろう! われに全て任せよ!

鉄砲百、それに銃弾五千!

きっちり送り届けさせよう!

鉄砲の名手にな!

その男から鉄砲の扱いについては手ほどきを受けるがよい! 」



 今度は辰丸が目を丸くする番だった。



 銃弾五千に、鉄砲の名手……



 前久はさも当たり前のようにさらりと言い放ったのだが、これは辰丸にとっては想定外のことだったのだ。



「あの……」



 せめて礼を……そう言いかけた瞬間のことだった。

 前久はくるりと振り返ると、「では、われに付いてこい! 」と言って、廊下をずんずん歩き始めたのである。


 辰丸は慌てて「ちょっとお待ちください」と言うと、彼の背中を早足で追いかけていった。


 前久は前を進みながら言った。



「将軍謁見の場までの近道を教えてやろう!

そうすれば景虎殿に追いつけるはずだ! 」


「は、はいっ! ありがとうございます! 」


「はははっ! 礼などまだよい! それよりも約束いたせ! 」


「は、はい……なんでございましょう……」



 そして、前久はかつてない興奮を隠しきれず、弾むような声で言ったのだった。



「飛べ! 辰丸!! 天下は広いぞ!! どこまでも高く飛び、その名を日の本に轟かせるのだ!! 」



 とーー



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