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人は石垣

永禄2年(1559年)5月9日――



 長尾景虎の一行は、いよいよ京に到着した。

 将軍との謁見を控え、一同は身なりを整えると、とある公家の屋敷へと入ったのだった。

 

 

「よう来られたのう、景虎殿! 」



 公家とは到底思えぬ快活なだみ声で迎えたのは、この屋敷の主人あるじである近衛前久このえさきひさであった。

 

 辰丸にとっては初めて目にした貴族であったが、想像していた姿とは遥かに異なるものであった。

 色黒で体付きも良く、どこからどうみても武家にしか見えない、まだ二十三の若者。

 しかし藤氏長者とうしのちょうじゃであり、関白左大臣の官職も担う、れっきとした上級貴族なのだ。

 

 彼と景虎は旧来から仲が良く、今回の将軍謁見への段取りは、全て彼によって準備されたものだったのである。

 


「こたびの件、色々と骨を折っていただき、誠にありがとうございます」


「はははっ! 景虎殿! 相変わらずお主は固いのう!

わしとお主の仲ではないか!

もっと楽にいたしておくれ! はははっ! 」



 バンバンと景虎の肩を叩きながら、大笑いをする近衛前久。

 一方の景虎は、不器用な笑みを浮かべるのが精一杯なようであった。


 すると……


 近衛前久は表情はそのままに、目だけを鋭く光らせて、急に低い声で、景虎にささやいた。



「それに……例の件の手はずも整っておる」



 その目を見た景虎は、顔を引き締めて答えた。



「こちらも……何の問題もございませぬ」



 その答えを聞いて、さらに上機嫌になった近衛前久は、「さようか! はははっ! よいよい! 」と、はしゃぎながら、飛び跳ねるように景虎の元から離れると、自分の席にドカリと腰を下ろした。



 景虎をも飲み込む程に豪放な前久のことを長尾家の家臣たちは、ただ目を丸くして見つめていた。


 そんな彼らの視線に、今更気付いたように、目を大きくして大声を上げた。



「ややっ!? これは長尾家の強者の面々ではございませんか!

相変わらず、強盛な者ばかりであるな!

うん? そなたの顔は見たことがないが……」



 近衛前久が辰丸に声をかけると、辰丸は深く頭を下げて挨拶をした。



「辰丸にございます。以後、お見知り置きをお願い申し上げます」


「辰丸……とな? はて? どこぞのお家の者であろうか? かなり若き者ゆえ、きっと名家の出であろう? 」



 近衛前久の問いかけに、辰丸は戸惑った。

 なぜなら彼は自分でも出自が分からぬ、名字すら持たぬ農民の出なのだ。


 彼はばつが悪そうに、頭を下げながら、前久の視線を避けることしかできない。


 恥ずかしさのあまり、その場から逃げ出したくて仕方ない辰丸。

 そんな彼に助け舟を出したのは宇佐美定満であった。



「かの者は、お屋形様が直々に川中島にて見出した逸材にございます。

かの者の策により、武田軍を川中島より撃退し、宇都宮広綱も降したのでございます。

出自こそ農民の出ではございますが、まさに伏龍と言うに相応しい者なのでございます」



 定満の言葉に、ニヤリと口元を緩めた前久は、辰丸の目の前までやってくると、彼の頭をごしごしと撫でた。



「よいっ! よいぞ! 先日ここへ来た織田上総介おだかずさのすけも、『農民の出ではあるが、面白い猿を足軽大将として取り立ててやった』と、大層嬉しそうに話しておったわ!

『人は石垣』と誰ぞも口にしておったからのう!

こうして新たな人と出会うのは、良いことことだ!

はははっ! 」



 前久は愉快そう大笑いしたのを見て辰丸はほっと胸を撫で下ろしたのだが……



 その他の長尾家の面々は、顔を真っ青にして固まってしまった。


 明らかに彼らの様子がおかしいことに眉をひそめた前久。


 すると景虎が地鳴りをするような低い声で言った。



「その『人は石垣』という言葉……もしや宿敵の口から出たものでは? 」



 前久は「しまった! 」という顔をすると、



「いやぁ! これは、したり! はははっ!

まあ、細かい事を気にしないでおくれよ!

それより、上総介じゃ! 上総介! 」



 と、強引に話題を織田上総介なる者のことに変えたのだった。


 すると景虎は首を傾げて問いかけた。



「織田上総介……と申しますと、尾張の? 」


「そうじゃ! あやつは恐ろしい男になるぞ!

何せ庶家の出でありながら、主家の主だった者たちを、ことことく斬り伏せ、その上弟まで刀の錆にしてまでのし上がってきたのだからな!

ついには、かの名家、斯波氏を尾張から追い出しおったわ!

そして、尾張の守護に着任するやいなや、わしに近付き、上様との謁見まで果たしおった」



 目を輝かせながら、流れるように熱い口調で語る前久。

 その話を景虎は食い入るようにして聞いていた。


 そしてまるで前久の興奮が乗り移ったように、景虎の顔も赤く染まっていったのである。


 その様子に、前久はますます口角を上げると、まくし立てるように続けたのだった。



「景虎殿! お主とわずか二つしか歳が変わらぬが、破天荒な事をあやつは成し遂げるぞ!

お主も負けてなどおられん! はははっ! 

織田上総介信長。その名をよく胸に刻んでおくがよい! 」



「織田上総介信長……」



 それは言わずもがな、『天下布武』を掲げて、天下にその名を轟かせることになる『第六天魔王の化身』……



 織田信長ーー



 この時は未だ尾張の一国守に過ぎない彼であったが、その名はこうして少しずつ広がりつつあったのである。



 そして前久は、先ほどまでの興奮を潜めると、顔を少し曇らせて続けたのだった。



「その上総介は京の様子を見て、こう嘆いておった。

『なんとけがらわしき旗の多いことよ』と……」



 その言葉に、場の空気がピリッと締まった。


 そして辰丸もまた、織田信長と同じことを感じていたのである。

 いや、正確には『穢らわしい』とは感じなかったのだが、少なくとも強い違和感を感じていたのは確かであった。


 なぜなら京の街のあちこちに、「三階菱に釘抜き」の旗……すなわち三好氏の旗がはためいているからである。



 三好氏とは元は淡路島に本拠地を置く豪族であったが、知勇兼備の将、三好長慶みよしちょうけいが当主となると、一気に摂津(現在の大阪府)を支配下に収め、京へと上った。

 そして今では将軍、足利義輝の相伴衆、いわゆる側近に居座り、幕府を自らの傀儡としているのだ。



 つまり京の街はもはや、三好氏のもの……



 そんな順逆わきまえぬ乱れた世を、長尾景虎や織田信長といった若い戦国大名たちは憂い、世を変えんと闘志を燃やしているのであった。


 そして、近衛前久もそのうちの一人。


 彼はそんな中にあって、長尾景虎という人間がたまらなく好きであった。


 彼の戦場での強さ、そして情熱的な瞳に惚れ込み、どうにかして彼の旗を京に立てられないかと、頭を巡らせているのであった。



 その為には、京に巣食う鬼畜たちを退治せんと、景虎に大軍を率いてもらい、ここまで上らせる必要がある。


 しかし肝心の景虎は、今はその気がなさそうだ。

 

 なぜなら彼は関東管領の上杉憲政の哀れな姿に、ひどく同情し、憲政の悲願である、関東の安定に心血を注いでいるからだ。


 今回の上洛にしても、名目通り『将軍からの命令』であるから行ったことであり、兵もわずかで、とても景虎の威光を天下に轟かせるものではなかったのである。



 惜しい! 景虎なら成し遂げられるはずなのだ!

 京の惨状を救うことが!



 前久は、もし目の前に景虎本人がいなかったなら、歯ぎしりして床を叩いていたに違いない。



 そんな前久の心情など汲み取ることもなく、景虎は軽く頭を下げると、


「では、そろそろ上様の元へ参ります」


 と、その場を退出しようと、その場を離れたのである。


 前久は慌てて、


「ちょっと待たれよ!! 景虎殿! 」


 と、呼び止めると、景虎は不思議そうな顔をして、足を止めた。


 そして、前久は今までの緩んだ顔を引き締めると、一つの事を景虎に告げたのである。



「海道一の弓取りが動くぞ」



 その言葉に、景虎だけではなく、全員が思わず動きを止めた。


 明らかに長尾家の面々が、前久の言葉に衝撃を受けている証であった。


 前久はその様子に口元を少しだけ緩めて続けた。



「来年の今頃……いよいよ今川治部が大軍を持って、京に上ってくる。

無論、尾張、美濃を降してな。

既に近江の六角とは話がついているということだ。

そのまま六角と合流して、京の解放、そして今川の旗を都に立てる腹づもりとのこと。

このわしに上様との橋渡しをせいと、あやつから頼み込んできたのだ」



ーーなんと……



 長尾家の家老たちの間で動揺が走る。



 大軍を持って京と将軍家を救う……



 それは幕府に忠誠を誓う大名であれば、誰もが持つ夢であった。



 『海道一の弓取り』今川治部こと、今川義元……



 駿河、遠江、三河を完全に手中に収めた彼が、大軍を率いた上洛を画策している事を、前久は景虎に打ち明けたのだ。


 

 ここで前久は期待していたのだ。



 景虎の闘争心に火がつくことを……



 しかし景虎は、前久に背を向けたまま……



 無言でその場を後にした。


 前久は思わず「ちっ! 」と舌打ちをして、その背中を見送る。


 そして長尾家の他の面々も、足早に去っていく景虎の背中を大慌てで追っていったのだった。




………

……

 先ほどまで大人数のためか熱気がこもっていた部屋も、一人になると寂寥感すら漂う。


 そんな中、近衛前久は「ふぅ」と大きくため息をつくと、苦々しいものを顔に浮かべて口を歪めた。



「景虎め……ちとは素直になれ! 本当ははらわたが煮えくり返っている癖に! 」



 彼は気づいているのだ。

 景虎の本当の気持ちに。



 すなわち、今川義元に先を越されることが、悔しくて仕方ないという、切歯扼腕せっしやくわんの想いに……



「さてさて……どうしたらよいものかのう……」



 一人頭を悩ます彼は、何か喉を潤すものでもないかと部屋を出たのであった。



 すると、そこに先ほどまで部屋の中にいた少年が待ち受けていたのである。


 前久は目を丸くして問いかけた。



「お主は……辰丸とか申す者か? 」



「はい、名を覚えて頂き、恐縮でございます」



 なんと主人の長尾景虎から離れて、前久が出てくるのを待っていたのである。

 前久は慌てて問いかけた。



「おいおい! 早く行かないと、景虎殿が義輝公の元へと行ってしまうぞ!? いかがした!? 」


「はい、どうしてもおうかがいしたい事がございまして……」

 

「なんだ!? 早く申してみよ! もしお主が一人はぐれたとなれば、申し訳が立たんからのう! 」



 そして次の瞬間……


 辰丸の穏やかな表情が一変したのである……



 その表情を目にした直後、前久の全身に汗が溢れ出した。



 それはまるで……



 龍神ーー



 しかし驚くのは、まだ早かった。



 辰丸の問いは、前久の想像を遥かに超越するものだったのだからーー





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