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黒姫と龍 〜別離〜②

心を込めて綴りました。

◇◇

 辰丸の胸の中に、小さな顔をうずめる黒姫。

 二人の影が一つになって、部屋の床に薄い影を落としている。


 それは月が隠れればすぐに消えてしまう、儚い影。


 

 しばらく静かに涙を流していた黒姫は、寄せるさざ波のような声で、辰丸にたずねた。



「辰丸殿、ご存知でらっしゃいますか?

この地に伝わる『黒姫伝説』なるものを……」



「いえ、存じ上げておりません。お教えいただけますでしょうか」



「かつてこの地には、黒姫というお姫様がいらしたそうです。

それはお花見をしていた時のこと。

一匹の白蛇が黒姫と彼女の父親の元へ現れます。

彼女の父親は白蛇を恐れることなく、黒姫に「この蛇にも一献あげなさい」と、彼女に命じます。

彼女は笑顔でその蛇にお酒を注ぎました。

見た目は蛇、もちろん素性など分からない。

それでも分け隔てなく接する黒姫に、好意を寄せた白蛇。

実は彼は山に住む龍神様だったそうです。

龍神様は、黒姫に何度も求婚いたしました。

しかし彼女の父親は、「人ならざる者に娘をやるわけにはいかん」と、龍神様の求婚を断り続けるのです。

ところが、黒姫は一途な龍神様に惹かれていきます。

つまり、龍神様と黒姫は恋に落ちたのです。

しかし……彼らの恋は実ることはなかった……

ついには彼女の父親の罠に嵌り、龍神様は追い詰められてしまうのです」



「龍神様はその後いかがしたのですか……? 」



「全てを破壊しつくしました。

大洪水が村々を襲い、国は滅びてしまうほどだったのです。

そこで黒姫は龍神様の前に一人で立った。

そしてこう言ったのです。

『どうかお鎮まり下さい! 私は龍神様と共に参ります! だから、どうか皆をお助け下さい』

と……

そうして龍神様は黒姫を背に乗せて、山の方へと姿を消した……これが黒姫伝説でございます」



「随分と身勝手な龍神様でございますね……」



「はて……? 辰丸殿には左様に映りましたか……」



「とおっしゃいますと、黒姫様にはどのように映られたのでしょう? 」



「とても激しい恋……わらわは、伝説にある姫様が羨ましゅうございます。

心から愛しておられる方と、一生を添い遂げたのでしょうから……」



「そうですか……」



「ねえ、辰丸殿……辰丸殿は龍神様でございましょうか? 」



 互いにささやき合うようにして続いていた会話。

 

 しかし、黒姫の声だけは、少しずつ熱を帯び、ついには懇願へと変わっていった。



「もし……もし……わらわと恋に落ちたその時は……わらわを妙高の山間に連れ去り、静かに二人で添い遂げていただけますでしょうか? 」



「黒姫様……」



 辰丸は答えない。

 

 なぜなら分かっているからだ。

 

 

 この恋は許されぬことを。

 

 

 二人は身分の差がある。

 有力国衆の高梨家の血を引く黒姫であれば、有力な武家との婚姻により、高梨家の地盤固めに大いに役立つことが出来るはずだ。

 

 

 農民の出の彼の元へ嫁ぐなど、許されるはずもない。

 

 

 すなわち彼らの恋は、絶対に実を結ぶことがないことを――

 

 

 しかし……



 それでも……

 

 

 もし、それが世のことわりだとしても……

 

 

 この気持ちだけは、天に届けなくては……

 

 

 彼に伝えなくては……

 

 

 彼女は、滂沱として流れる涙で袖を濡らしながら、潰れそうな想いを打ち明けたのだった。

 

 

「辰丸殿……

わらわは、辰丸殿のことを心からお慕いいたしております。

もし叶うのなら、わらわの龍神様となってはいただけませんでしょうか。

どうか… どうか… 」



 これ以上は言葉に出来ない。

 

 

 言葉にしてはならない。

 

 

 そんな気がしてならなかった。

 

 

 ぐっと唇をかみしめた辰丸。

 

 一度目を瞑り、自分の気持ちを鎮めると、静かに胸の内を語り始めたのだった。

 

 

「黒姫様。私は、あなたを一目見たその時から、お慕いいたしておりました」



 その言葉に、大きく目を見開いて辰丸の顔を覗き込む黒姫。

 彼女は必死に声を上げた。

 

 

「ならば……! 」



 しかし、辰丸は彼女が言葉を続けることを許さない。

 彼女の荒れ狂う冬の海のような口調とは対照的に、空に漂う雲のように穏やかな口調で続けた。

 

 

「今もこうしているのが、夢のような気がしてなりません。

しかし、どんなに私がお慕い申し上げようとも、私があなたを幸せにすることは出来ません。

どんなにあなたが私のことを慕っていただけようとも、私はあなたの気持ちに応えることは出来ません。

ならば、今宵の月も朝が来れば明るい空の中に消えていくことがことわりのように、

あなたと過ごすこの幸せな時も、今宵のこの時限りであることが、二人のさだめと、心に決めなくてはなりません」



「そんな…… そんなことを言わないで……」



 哀しみのあまり嗚咽する黒姫。

 そんな彼女を優しく抱きしめる辰丸。

 

 辰丸の頬にも一筋の涙が伝う。

 

 

 黒姫は絞り出すように声を出した。

 

 

「忘るなよ 宿る袂は かはるとも かたみに絞る 夜はの月影 」



 それは藤原定家ふじわらのさだいえの詠った一句。

 

 もう二度と会う事がなくとも、今宵の月の光を見ながら涙を絞り出したことを、どうか忘れないで欲しい……

 

 

 それは、痛切な恋慕の歌。

 

 

 そして辰丸は、同じく藤原定家の歌で返したのであった。

 

 

「春の夜の 夢の浮橋 とだえして 峰に別るる 横雲の空 」



 春の夜が明け、まるで浮橋のように儚い夢が終われば、山の峰で別れる雲を映す空しかありません……

 

 これは「源氏物語」の結末を題材にした悲恋の歌。

 

 

 そしてこの歌のように、東の空から白み始めると、

 

 二人の儚い恋も終わりを告げようとしていた。

 

 

 黒姫を残し、ゆっくりとその場を立ち上がる辰丸。

 

 

 黒姫はなおも涙にくれていた。

 

 

 辰丸は黒姫に背を向けて、どこまでも穏やかな声で告げた。

 

 

「黒姫様の事は例えこの世とあの世に別れようとも、忘れることはございません。

しかし、浮世の恋は泡沫うたかたの夢でございます。

どうか私の事はお忘れになって、お幸せにお過ごしいただきますようにお願い申し上げます。

では……さようなら……」



 一歩……

 

 また一歩……

 

 二人の距離は離れていく。

 

 

「忘れじの 行末までは かたければ けふをかぎりの 命ともがな 」



 黒姫が新古今和歌集の一句を、辰丸の背中に向けて詠う。

 

 忘れまいという言葉は、遠い未来まで約束されることは難しいこと……

 ならばその言葉を胸に、今日限りの命でありたい……

 

 

 そんな黒姫の心の叫びは、辰丸にも届いている。

 

 届いているからゆえ、辰丸の両目からも涙がしずくとなって落ちる。

 

 しかし……

 

 彼は振り返ることはなかった。

 

 

 なぜなら彼は黒姫伝説の『龍神』ではない、

 

 

 天下泰平の為に生きると決めた『侍』なのだから――

 

 

 

 こうして二人の恋は、終わりを告げた。 



 

 

 ところが……

 

 

 彼ら二人の運命は、一時の『別離』にとどまることはなかった。

 

 

 誰もが想像だにしない『結末』を迎えることになるなど……

 

 

 この時の二人が知る由もなかったのであった――





『黒姫伝説』は、この地方に伝わる伝承でございます。


いくつか伝承があるとのことですが、そのうちで最も美しいと思った伝承を採用いたしました。


黒姫の名前は、この地方の「黒姫高原」など、実際の地名にも残されております。

どうぞこの地方を訪れた際には、彼女の事を思い起こしていただけると幸いでございます。



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