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孤城落日……消えゆく威光①

永禄元年(1558年)8月20日――


 越後の農村が、たわわに実った稲によって黄金色に染まるこの頃。

 人々は待ちに待った収穫の時を迎えていた。

 それは、一年で最も農民たちの笑顔が眩しく輝く瞬間でもある。

 

 

 その輪の中に、辰丸の姿はあった。

 

 

 しかし人々は辰丸の事を全く知らない。

 細い体に似合わぬ、腰に差した立派な得物からして、彼が侍である事を疑う者こそいなかったが、未だ彼の素性を正しく理解している農民などいなかったのである。

 

 ところが辰丸はそんな事など気にも留めず、あくせくと稲刈りに精を出す農民たちに混じって、泥仕事に汗をかいていたのであった。

 

 

――おおい! そこの若いお侍さん! こっちの婆やを手伝っておくれよう!


「はいっ! かしこまりました! 」


――そこの若えの! 握り飯出来たから食ってけー!


「はいっ! ありがとうございます! 」



 さながら水を得た魚のように、軽やかな足取りで右へ行ったり、左へ行ったりしながら躍動している辰丸。

 その横顔は、秋の爽やかな陽射しを浴びて、きらきらと輝いていた。

 

 

 まるで彼が本来いるべき場所を示しているように、辰丸にとっては幸福の時間であった――

 

 

 しかし、そんな穏やかな時間も、凛とした少女の声が響き渡ったことで終わりを迎えることになる。

 

 

「辰丸さまぁぁ!! ここに辰丸様はおられませんかぁ!? 」



 長い髪を後ろに結わいたその少女は、武家の娘であることを示すように、小袖には綺麗な帯、さらに打掛うちかけを腰に巻いている。

 勝ち気な性格を表す健康的で血色のよい肌。大きくてくりっとした瞳に、長いまつげが特徴的な美少女だ。

 彼女の名は「かつ」。

 「おかつ」とか「勝姫かつひめ」とか呼ばれていて、歳は辰丸と同じで今年十四になる。


 はきはきした性格に、物怖じしない態度は、大層立派な侍の娘であろうと誰もが思うところだが、なんと彼女は、『長尾家一のうだつの上がらぬ男』と揶揄されている宇佐美定勝の一人娘なのだから驚きだ。

 

 

 さて、そんな彼女が両方の頬をぷくりと膨らませながら、辰丸を探していた。

 

 実は彼女と辰丸には面識がある。

 というよりも、ここ最近、彼女が何かと彼のお節介を焼いているのだ。

 

 

 その経緯はこうだ。

 

 

 下野遠征から戻った辰丸は、弱冠十四の身でありながら、宇都宮氏を降伏させた大功によって家老に取り立てられた。

 

 身分が変われば、俸禄ほうろくだけではなくて、住む場所も変わるのは当然のこと。

 辰丸は今まで暮らしていた長屋の大部屋から、城からほど近い場所に、広い屋敷を与えられた。

 しかし飛ぶ鳥を落とす勢いで出世した彼も、僅か一年前までは農村で静かに暮らしていた一介の少年に過ぎないのだ。

 

 広い屋敷も、高い俸禄も持て余し、小姓たちや侍女たちにでさえ、どう振舞ったらよいか戸惑う日々に、辰丸は徐々に表情を暗くしていったのである。

 

 そんな彼を見かねたのが、勝姫と宇佐美定勝であった。

 

 定勝の父親は言わずとしれた『長尾家四天王』の一人、宇佐美定満。

 当然のように春日山城にほど近い場所に屋敷を構えていた。

 しかし定満は別の城を任されており、普段は春日山から離れて、その城で暮らしている。

 定勝はそんな父に代わり、春日山の屋敷を任され、一人娘の勝姫と暮らしているという訳だ。

 

 ご近所であり、友人でもある辰丸が戸惑う様子に、定勝はいてもたってもいられずに、娘の勝姫に「色々と世話を焼いてくれ」と頭を下げた。

 一方の勝姫の方も、近所に越してきた同年齢の色白の少年のことを気にしていたようで、二つ返事で父の頼みに頷くと、早速その日から辰丸の面倒を、あれやこれやと見るようになったのであった。

 

 しかし……

 生来、自由に川中島の野山を駆け巡っていた辰丸にとって、しきたりで固められた武家の生活は窮屈で仕方なかった。

 それに、急にずかずかと自分の生活に入り込んできた勝姫という少女に対して、どのように接したらよいか、ひどく狼狽したのである。

 

 

 こうなると辰丸の行いはただ一つ……

 

 

 彼は屋敷の外で過ごす時間が、自然と長くなっていった。

 屋敷の中にいる時間と言えば、わずかに寝る時ばかり。

 

 

 そしてこの日も同様で、辰丸は朝から屋敷を飛び出し、城下町を抜け、春日山城からほど近い農村で、農民たちと収穫の喜びを共にしていた訳だ。

 

 しかし今日は、辰丸を自由にさせておく訳にはいかなかい。

 なぜならこの日は、家老たちが一斉に集められる『評定ひょうじょう』が開かれるからだ。

 

 辰丸自身も評定に出ねばならない事は、当然知っているが、評定が開かれる時刻までに登城すればよいとばかり思っていた。

 しかし登城するにあたっては、綺麗に身だしなみを整えねばならない。

 それに、新参者である以上は、早めに城に入って各所に挨拶回りをしたり、古参の重臣たちよりも先に評定が開かれる大きな部屋に入って、彼らを迎え入れることが慣例であることなど、頭の隅にも入っていなかったのである。


 その事に気付いた勝姫は、血眼になって辰丸を探し始め、昼前になってようやくこの農村にたどりついたのであった。

 

 

――お姫様、辰丸って名前かは知らんが、あそこに細い体付きのお侍さんならおるよ!


「ありがとう! 」

 

 

 勝姫は笑顔で頭を下げると、風のように農家の男が指差した方へと駆けていった。

 

 

 そしてついに、農民たちに囲まれながら、のんきに握り飯を頬張る辰丸を見つけたのであった。

 

 

「辰丸様!! そんなところで何をやっておられるのですか!? 」



 勝姫の透き通った声に、辰丸の周囲で談笑していた人々が一斉に彼女の方を目を丸くして見つめる。

 辰丸もまた腰を下ろしたまま、慈眼温容じげんおんような優しい笑顔を勝姫に向けたのだった。

 

 

「皆で稲刈りをし、実りの時をお祝いしているのです。お勝殿もお一ついかがでしょう? 」



 その柔らかな口調と表情に、思わず勝姫は赤面して体を固くしてしまったが、それも束の間、彼女は大股で辰丸の元まで歩いていくと、むずっと彼の細い腕を掴んだ。

 

 

「のんきに握り飯など食べている場合ではございませぬ! 早く屋敷に戻りますよ! 」



「いてて、お勝殿。そんなに強く引っ張らなくてもよいでしょう……」



 辰丸は思わず顔をしかめて、彼女に小言を言うと、

 

 

「いえ! しっかりと手を掴んでおかないと、辰丸様はまた空に浮かぶ雲のように、ふわりふわりとどこかへ行かれてしまうではありませんか! 」



 と、勝姫は頬をふくらませながら、辰丸を強引に立ち上がらせたのだった。

 

 

――お侍さん、今日は用事があったのかね?



 年老いた女性が辰丸に、不思議そうにたずねると、辰丸は人々に向かって一礼した。

 

 

「みなさん、どうやら私はおいとませねばならぬようです。最後までお手伝い出来ずに、申し訳ございません」



 すると人々は首を横に振って、口々に辰丸へ感謝の気持ちを述べたのだった。

 

 

――お侍さんが謝るなんて道理はねえ! むしろ手伝ってもらったのはこっちの方だ。ありがとうな!


――そうだ、そうだ! お侍さん、ありがとう!



 その様子に辰丸は、もう一度にこりと微笑む。

 そして横に立つ勝姫に対しても、ぺこりと頭を下げたのだった。

 

 

「お勝殿、いつもありがとうございます。

今日は私にとっては初めての評定。色々とお教えくださいな」



 顔を上げた辰丸の笑顔が間近に迫る……

 

 

 その笑顔を大きな瞳に映した勝姫の顔は……

 

 

 みるみるうちに真っ赤に染まっていった。

 

 

 それを覚られまいと、くるりと辰丸に背を向けた勝姫。

 

 

「べ、別に私はお父上に言いつけられているだけですから!

それに無駄口叩いてる暇はございません! 早く行かねば間に合いませぬ!! 」



 と、なぜか怒ったような口調で告げると、まるで韋駄天のように屋敷の方へと駆けていってしまったのだ。

 

 おいてけぼりにされた事に慌てた辰丸は、

 

 

「ちょ、ちょっとお待ちください! 」



 と、彼女の背中に声をかける。

 しかし、「待て! 」と言われて立ち止まる盗賊などいないように、勝姫の足はむしろ早まっているようだ。

 

 彼は最後にもう一度農民たちの方へ一礼すると、どんどん離れていく勝姫を追いかけ始めた。

 

 

 しかし、その時ふと一つの疑問が頭に浮かんできた。

 

 

「はて……? 先ほどは『しっかりと手を掴んでおかないと、どこかへ行ってしまう』と言ってた割には、逃げていくように、ずんずんと進んでしまうのはなぜなのでしょうか……? 」



 そんな風に首をかしげながら、全く差の縮まる様子がない勝姫の背中に向けて、息を切らせて走っていったのだった。

 

 



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