引縄批根! 消えた使番⑤
永禄元年(1558年)6月25日 未刻(午後二時頃)ーー
多功城から少し北にある宇都宮城にも、長尾、佐野の連合軍が多功城を攻め込んでいるという一報が入ってきた。
長尾景虎と佐野昌綱の両雄の強さは、幼い宇都宮氏第二十一代当主、宇都宮広綱ですら耳にしたことがある。
彼は顔を曇らせて呟いた。
「うむ……いかがしたものかのう……ここ宇都宮城まで長尾景虎が攻め込んできたら……」
しかし彼の隣に座る宇都宮家の名軍師、芳賀高定は、どこか余裕の表情で、その報せを受けたのだった。
「お屋形様。何も心配にはおよびませぬ」
「どうしてそう言い切れるのじゃ? 」
「宇都宮城は北と西を日光の山々に、東を鬼怒川に囲まれた天下の要害の地にあり、わずかに残された南からの攻め口には難攻不落の多功城。
例え長尾景虎が『軍神』とうたわれようとも、この城にたどり着くこともかないますまい」
「そ、そうじゃな! 高定がそう言うなら間違いあるまい! 」
無邪気な広綱はパッと顔を明るくさせると、ようやく浮かせた腰を落ち着かせた。
しかし高定の胸中は、決して穏やかではなかった。
なぜならこの城は、つい先日まで、壬生氏によって乗っ取られていたのだ。
周囲の力を借り、そして何よりも高定の鬼謀によってどうにか宇都宮氏の元へと戻したのだが、それだけに未だ戦力が安定していない。
その上、名家の威光だけに重きを置いた宇都宮城は、守るに難い城なのだ。
万が一、城の周囲を兵たちで囲まれでもしたら、たちまち窮地に陥ってしまう……
それでも目の前の幼い当主の顔を不安に曇らせたくはないーー
その一心で、高定は顔に余裕の笑みを浮かべ続けていたのだった。
しかし……
彼の余裕の笑みは……
次の瞬間に、消え去ったーー
「敵襲ぅぅぅ!! 」
それは物見の叫び声であった。
「なんだと!? 」
高定は、さっと顔を強張らせると、部屋の外へと出ていった。
無論、幼い当主よりも前に、状況を確認する為だ。
彼は急いで本丸の最上階へと駆け上がっていく。
ーーまさか…… 難攻不落の多功城がこんなにも早く破られたというのか!?
そして南側の外が一望出来る高欄まで、息を切らせながら駆け込んだ。
しかし、そこには何もなかった……
「なんだ……見間違いであったか……」
高定は、ほっと胸を撫で下ろした。
不安で高鳴っていた胸が元に戻ると、失っていた五感もまた戻ってくる。
いつも通りの『景色』『音』や『におい』……
ーー全てはいつも通りではないか……
そう思い、未だに乱れている呼吸を落ち着けようと、静かに目を閉じた。
その時であった……
ーーザン…… ザン……
それは、足音……
彼はもう一度目を開き、前を見つめる。
しかし、誰もいない……
ところが規則正しい足音は徐々に大きくなってくる。
「この足音は一体何なのだ……」
錯覚なのか……
自分の恐れが音を生み出しているのか……
彼は心を落ち着けるために、もう一度目をつむった。
ーーザン…… ザン……
近づいてくる。
それは確実に近づいてくる……
背中から……!!
ーーバッ!!
彼は急いで振り返った!
「まさか! そんなこと……!! 」
転がるように北側……すなわち日光の山々がそびえ立つ方角の見える場所へと足を急がせる。
そして……
目に飛び込んできた景色に……
言葉を失ったーー
なんと……
宇都宮城の西と北から……
押し寄せる大軍があるではないか!!
一体どこの家の軍勢か……!?
彼はよく目をこらして、迫り来る軍勢の兵の事を見た。
すると彼らは一様に、裹頭(頭を包む白い布)をかぶり、高下駄を履いて、薙刀を手にしている。
「日光山輪王寺の悪僧か!! 」
悪僧……
この時の『悪』とは、『強い』を意味する。
すなわち『悪僧』とは、『強い僧』のこと。
簡単に言えば、僧兵であった。
この頃の日光山輪王寺は、多くの悪僧を抱えていた。
彼らは自分たちの領土と信仰を守る為に、武器を持ち、外敵と戦ったという。
「なぜだ!? なぜ日光山が攻めてくるのだ!! 」
しかしその疑問はすぐに解消された。
日光山の別当は代々、壬生氏が担ってきた。
その壬生氏は……
長尾氏に降った。
つまり……
日光山における権力は移ったのだ。
「長尾かぁぁぁぁぁ!! 」
その事を示すように、一本の旗がなびいていた。
巴九曜紋の旗ーー
それは間違いなく長尾氏の軍を示すもの……
するとその旗を背負った若武者が、天まで届くほどに大声疾呼して呼びかけてきたのだった。
「我は長尾家使番、辰丸!!
宇都宮家当主、宇都宮広綱殿と話がいたしたく候!! 」
◇◇
何事も勝負事というのは、わずか一手だけで、形成が逆転することがあるものだ。
難攻不落の多功城。
攻めあぐねる長尾、佐野の連合軍。
百人が見れば百人とも、今回の戦は多功軍の勝利を疑わないだろう。
事実、城内の将も兵たちも、離れたところに布陣する敵を見て、嘲笑を浮かべていたのだ。
しかし……
辰丸の用いた『借刀殺人』の計により、その嘲笑は大驚失色へと変わった。
『借刀殺人』の計……
それは、当事者ではない第三者に攻撃させるように仕向けて、自軍の手を汚すことなく敵を挫く計。
辰丸は、『壬生氏を降した長尾氏』という立場を利用し、日光山輪王寺にて、『第三者』である僧兵たちを巧みに動かした。
こうして長尾軍が宇都宮城の北と西を完全に掌握したことで、南における戦況は、完全に無意味と化したのだ。
すなわち城を包囲されることを恐れた宇都宮家当主、宇都宮広綱は長尾家との和睦の道を探る方へと舵を切ったのであった。
「くっ……無念じゃ……」
多功城の大手門が大きく開かれると、城主の多功長朝は、悔し涙を流しながら唇を噛んだ。それは彼だけではなく、城兵たち全員が同じ気持ちであったことだろう。
なぜなら彼らは「負けていない」のだから……
そんな異様な雰囲気の中を、悠然と馬で闊歩していく長尾景虎と佐野昌綱。
……と、そこに『群青色の母衣』を羽織った若武者が、跪きながら彼らを迎えたのだった。
「辰丸!! 」
最初に声をかけたのは昌綱であった。
彼は馬を降りると、喜色満面で辰丸に抱きついた。
「あははっ! やっぱりこやつがやってくれおった!! 」
興奮冷めやらぬ昌綱に対して、辰丸は困ったような表情を浮かべる。
なぜ辰丸が先に城内にいるのか、と問われれば、それは宇都宮家当主、宇都宮広綱とともに先に城内に入っていたからだ。そして、多功長朝に対して降伏するように説得し、城門を開かせたのであった。
昌綱が喜びを爆発させて、辰丸を力の限り強く抱きしめている中、景虎が馬に乗ったまま、ゆっくりと近づいてきた。
辰丸は「昌綱殿、お離しくだされ! お屋形様の御前にござますゆえ」と、昌綱のことをなんとか引き離すと、急いで再び跪いた。
景虎は目を細めて辰丸をじっと見つめる。
そして低い声で言った。
「顔を上げよ、辰丸」
「御意にございます」
二人の目と目が合う。
そこには口に出す以上に、様々な言葉のやり取りが交わされる。
二人だけの時間が、静かに流れた……
そして、景虎は短く言った。
「これより宇都宮家との交渉を始める。
ついて来い、辰丸」
辰丸は小さく首を横に振って答える。
「私は一介の使番に過ぎません」
しかし景虎は辰丸の言葉など意に介することもなく、馬を進めながら彼に背中を向けたのだった。
「昨日までの話をするでない」
辰丸は驚きに目を見開く。
すると馬をゆっくりと進めたまま、景虎は言ったのだった。
「今日から家老に取り立てる。以上だ」
とーー