引縄批根! 消えた使番②
永禄元年(1558年)6月21日 夕刻――
「では、本当に城には戻らないんだな? 」
宇佐美定勝は、辰丸にもう一度確認をした。
もう同じ質問はこれで三回目だ。
それでも辰丸は、柔らかな微笑みを携えたまま、黙ってうなずいた。
定勝は「ふぅ……」と大きくため息をつくと、弥太郎をちらりを見る。
すると弥太郎は「こう見えて強情な男だ。諦めよ」と言わんばかりに、眉をしかめた。
このように彼らが困惑するのも無理はない。
なんと辰丸は、壬生城には戻らないというのだ。
「それではますます時宗殿と清実殿に、思い上がらせてしまうのではないか? 」
定勝は困ったように首をかしげながら、辰丸にたずねた。
すると辰丸は、口元をかすかに緩めて答えたのだった。
「むしろそれで良いのです。
このまま私が城に戻らねば、必ずやかの者たちは、私の事は既に亡き者として油断するに違いありません」
「つまりその油断を突くと……」
辰丸はコクリと一つ頷くと、穏やかな口調で続けたのだった。
「因果応報…… 己の犯した非道な行いは、必ずや己の身に返ってくるということを、その身を持って味わっていただきましょう」
………
……
辰丸は懐に常に持ちあるいている紙と筆を取り出すと、一通の書状を仕上げて、定勝に託した。
宛先は長尾景虎……
彼は「書状の内容を、景虎様以外に漏らしてはなりません」と、定勝に念を押すと、定勝は口をぎゅっと結んで大きく頷いたのだった。
こうして全ての準備が整うと、いよいよ佐野軍と定勝らの出立の時を迎えた。
佐野昌綱は、辰丸の前までやってくると、どこか気まずそうにたずねた。
「そう言えば、お主の名をしっかりと聞いておらなかった……」
辰丸は静かに微笑むと、しっかりとした口調で答えた。
「辰丸にございます。以後、お見知りおきを」
「辰丸……その名前、確かにわが胸に刻んだ。
もはや佐野家代々においても、そなたの名を忘れる者が出ないようにするとしよう。
それほどに、お主には感謝してもしきれん」
「いえ、私は何もしておりません。
昌綱殿を生かしたのは、死んでいった無数の佐野家の忠臣たちであり……」
「兄上であった……と……」
辰丸は小さくうなずく。
そして、表情を固いものに変えて続けた。
「臥薪嘗胆の思いをさせてしまいますが、三日です。三日間だけ、どうかお待ちください」
「ああ…… 分かっておる。その三日の内に唐沢山より援けを求めることにしよう」
これは辰丸が昌綱に授けた指示のことで、
――三日間は壬生城にて静かにお過ごしください。三日の後、豊綱殿の仇を討つべく、ご出陣を。
ということであった。
「では、また三日後にお会いしましょう」
「ああ。辰丸……」
昌綱は強い瞳で辰丸を見つめる。
そこに映し出されているのは、強い信頼と友情。
生死を共にした二人の間には、いつの間にか切っても切れないような強い絆が生まれていたのだ。
昌綱は腹の底から、力を込めて辰丸に言った。
「絶対に死ぬなよ」
と……
辰丸は口元を小さく緩めて一礼する。
そして、壬生城とは逆の方向……すなわち北の方へと駆けていった。
その背中が小さくなるまで、昌綱、定勝そして弥太郎の三人は見つめていたのだった。
………
……
永禄元年(1558年)6月21日 夜――
「佐野昌綱殿! 城にご到着されましたぁぁ!! 」
夜更け過ぎにも関わらず、城内に大きな声が響き渡ると、それを待ちわびていた人々が、一斉に城の外へと出て、彼らを出迎えた。
しかし、帰還した彼らを見て、人々は一様に目を丸くしてしまったのである。
それもそのはずだ。
帰還した人数はなんと百人にも満たない上に、みなそれぞれに傷を負い、甲冑を泥と血で汚している。
見るも無残な姿に、思わず顔をそらす人も少なくなかった。
そんな中、
笑顔で彼らを迎えた者たちがいた……
それは、長尾時宗と黒川清実であった。
「おお! よく戻られた!! 豊綱殿の件は既に聞いておる! しかし、昌綱殿だけでもこうして戻られたことを良しとしようではないか!
ささ、旨い酒を用意させてある! どうぞこちらへ! 」
清実は流れるような口調で、昌綱に言葉をかけた。
それは「後々の事を考えて仲良くしよう」という下心がありありと表れているもので、聞いた者を不快にさせるような、粘り気を伴っていた。
昌綱はギロリと二人を睨みつける。
しかし次の瞬間には、視線を穏やかなものに変えて答えた。
ーーこの三日間は決して短気を起こしてはなりませぬ。恐らく時宗殿と清実殿の二人は、昌綱殿に近づこうと媚を売ってくるに違いありませんが、決して邪険にはなさらぬよう、お願い申し上げます。
という、辰丸の言葉を忠実に守ろうと、彼は必死に堪えたのだった。
「折角のお誘いなれど、今は体が言うことを聞きませぬ。
今宵はしっかりと休んで、全てが片付いた後、お誘いをお受けするといたそう」
「ややっ! これは、申し訳ござらぬ!
それがしとした事が、昌綱殿のお身体のことも考えずに、軽はずみなお誘いをしてしまい……」
「いや、そう頭を下げられると、お誘いを断ったのはこちらだと言うのに、かえって恐縮してしまうというものだ」
昌綱は早くこの場から姿を消したく、足を早めながら二人の横を通り過ぎた。
…と、その時だった。
「お待ち下され、昌綱殿」
と、甲高い声が昌綱の背中にかけられた。
昌綱は背を向けたまま、視線だけを背後にちらりと移す。
するとニヤニヤと笑みを浮かべた時宗が背後まで近付いてきて、昌綱の耳元でささやいたのだった。
「こたびの件は、うちの使番が卑劣にも敵と内通しており、大変申し訳なかったのう。
しかし奴は既に死んだと聞いておる。
仇が死んだというのが、せめてもの慰みというものだ。
声を大にして言えぬのだが、この事は全て景虎殿の責。
ついては近々、景虎殿には長尾家当主の座を降りていただこうと思っておる。
そうなれば、次の当主はわれ……
今後は当主同士、仲良くやりましょうぞ」
人には何でも『器』というものがある。
それは感情を納める『器』もしかりだ。
昌綱はこの時、『器』の中に、燃え盛る怒りの感情を納めていたのだが、時宗の言葉は、『器』の中に、まるで樽ごと水を注いだようなものであった。
それは当然、彼の『器』から溢れさせ、さらには『器』そのものを粉砕したのである。
みるみるうちに昌綱の全身が燃えていく。
息づかいは荒くなり、目の前は霞む。
めりめりと音を立てて拳は鉄のように固められていった。
そしていよいよその拳が時宗のにやけた顔へ飛ばされようとしたその時だった。
ーーポンッ!
と、彼の肩に優しく手が置かれたと思うと、
「昌綱殿。お疲れのところ申し訳ないのだが、お屋形様がお待ちでな。
一緒に来ていただこうか」
と、包み込むような柔らかな声がかけられたのだ。
昌綱はハッと我に返ると、目を大きくして肩に置かれた手の持ち主に視線を移した。
そこには宇佐美定勝の丸々とした顔。
眠そうな目で昌綱をじっと見つめている。
そんな彼の視線からは、
ーー堪えよ!
という強い戒めが感じられた。
すんでのところで感情の爆発を止めた昌綱は、言葉もなく頷くと、定勝と肩を並べるようにして、その場を後にしたのだった。
背中にねっとりとした二つの視線を感じながらーー