表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

37/126

引縄批根! 消えた使番①

◇◇

永禄元年(1558年)6月21日 申刻(約午後四時)――



 危機を脱した佐野昌綱と辰丸らは、多功ヶ原を抜けてところで、しばらく体と心を休めていた。

 

 特に昌綱をはじめとする佐野家家中の者たちにとっては、今回の戦で当主を失ったのだ……

 その心の傷は、疲労困憊の体のことよりも深刻であることは明白であった。

 

 昌綱を中心として、神妙な面持ちで、ぐったりと座りこんでいる佐野軍の兵たち。

 

 そんな彼らにかける言葉も見当たらず、宇佐美定勝は、同じく地面に座り込んでいた辰丸の方へと近づいていった。

 

 

「よう、辰丸。みんな心配しているぞ。そろそろ戻らねばなるまい」



 定勝はそれとなく「佐野軍の兵たちにも、そうお主の口から促してくれ」と辰丸に含ませる。

 

 すると辰丸は、定勝に微笑みかけて、立ち上がると、穏やかな口調で答えた。

 

 

「ええ、そうしましょう」



 辰丸はそう言うと、ゆっくりと昌綱の方へと歩いていったのだった。

 

 どこか茫然とした表情で、泥だらけの顔を拭うこともなく、うつむいたままの昌綱。

 辰丸は彼の肩にそっと手をおいた。

 

 ふっと昌綱が顔を上げると、辰丸と目が合う。

 

 

 その瞬間のことだった……

 

 

――バッ!!



 突然立ち上がった昌綱は、なんと辰丸を強く抱擁したのだ。

 

 

 辰丸は突然のことに目を丸くしたが、それも束の間、すぐに目を細めて昌綱の背中をそっとなでる。

 するとそれを合図に昌綱が大きな声で泣き始めた。

 

 

――ウワァァァァア!!



 これまで抑えつけていたありったけの感情が噴火したかのように、涙と声となって吐き出されていく。

 

 

 たった一刻の間に、佐野家は、ほぼ全てを失った。

 

 兵を失い、

 

 そして当主をも失った。

 

 それでも彼らは歩み続けねばならない。

 お家の存続と、城に残された家族の為に、歩みを止める訳にはいかないのだ。

 

 そのことが昌綱や生き残った兵たちにしてみれば、恐怖でしかなかった。

 生き残ってしまったことに、強い後悔の念を抱かざるを得なかったのだ。

 

 

 しかし……

 

 辰丸の小さな手は、昌綱にこう語りかけていた。

 

 

――胸を張って生きてください。



 と。

 

 

 それが昌綱にとっては、たまらず怖く、そして嬉しかった。

 

 

 涙が止まらない。

 

 それは昌綱だけではなく、佐野軍の兵たちも同じであった。

 

 

 遥か彼方まで続く関東平野の地平線。

 

 

 佐野軍の悲涙と嗚咽は、地平線を越えて、遠い空まで届くかのようであった――

 

 

………

……

 哀しみにくれる佐野昌綱がようやく落ち着いたのは、既に陽が大きく傾いた頃であった。

 

 

 辺りの空気に冷たいものが混じると、不思議と心と頭が落ち着いてくる。

 泣きやんだ昌綱は、ゆっくりと辰丸から離れると、深く頭を下げた。

 

 

「みっともない所をお見せして、かたじけない」



「いえ、よいのです。それよりもそろそろ壬生城へ」



「ああ……こたびの事の礼は必ずや返す」



 きゅっと唇を結び、真剣なまなざしで見つめてくる昌綱に対して、辰丸は穏やかな表情で首を横に振った。

 

 

「いえ、豊綱様をお助けすることが出来なかったこと……なんとお詫びを申し上げたらよいか……」



 辰丸の言葉に昌綱は目を丸くした。

 

 

「しかしこたびの事は、お主に何ら責はないのであろう。

なぜ、お主が我らに詫びねばならぬのだ? 」



 昌綱の問いかけに辰丸は口元をきつく結ぶと、目に力を込めて告げたのだった。

 

 事の真相を……

 

 

「こたびの事……当家の者が佐野家を陥れようと企んだのでございます」



「な……なんだと……!? 」



 そして辰丸は、宇佐美定勝、小島弥太郎、そして佐野昌綱に対して、彼が耳にしたことを全て話したのであった。

 

 すなわち、長尾家の誰かが多功軍と内通していたことを……

 

 

「ば……馬鹿な…… 一体何の為に……? 」



 開いた口が塞がらぬ定勝に対して、辰丸はぐっと低い声で答えた。

 

 

「恐らく、私に罪を全てなすりつける為でしょう」



「どういう事だ? 」



「私は百姓の身から景虎様の一存で取り立てられた身。

もしその私が敵と内通して、佐野家に甚大なる被害を与えたとするならば、その責を負うのは……」



「景虎様……ということか」



 そう呟いた瞬間、定勝は大きく目を見開いて「まさか……! 」と、大きな声を上げる。

 

 すると辰丸は小さくうなずいて続けた。

 

 

「景虎様を当主から引きずり落とす為の卑劣な策……」



「長尾時宗様…… もしや、黒川清実も一枚かんでいやがるのか!? 」



「ええ、確実に…… 恐らく彼らはお家騒動を引き起こして、自らの地位を固めようと……」



「その為に、俺の仲間や兄上は……」



 みるみるうちに佐野昌綱の顔も真っ赤に染まっていく。

 辰丸は彼の言葉を継ぐように続けた。

 

 

「殺されたのです。悪逆が弄した策によって」



――ドゴォォォォン!!



 昌綱は、思わず手にした槍で地面を激しく突いた。

 怒りのあまりに肩は小刻みに震え、鼻息が荒い。

 


 一方の辰丸は、怒りを内に秘めたまま、淡々と冷たい口調で続けたのだった。

 

 

 

「己の利益の為だけに、他人を陥れ、多くの罪なき者の命を奪った、その大罪。

決して許されるものではございませぬ。

それに、この世にはびこる悪鬼は、後に民を不幸へと導くというものです。

ならば……」



 定勝は、辰丸の顔を見て背中に冷たいものを覚えた。

 


 この背筋を凍らせる感覚……

 

 

 初めて彼が辰丸と出会った時に感じたものと同じ……

 

 

 そして定勝は、辰丸が抱く奈落の如き深い怒りがもたらした結果も、同時に思い起こしていた。

 

 

 武田軍の兵たちを恐怖のどん底へと突き落とし、同士討ちによって地獄へといざなったあの結果を……

 

 

 

「完膚無きまで叩きのめす。二度と立ち上がれなくなるまで」




 凛とした声が辺りにこだますと、全員が唾を飲んで辰丸の顔を見つめた。

 そして彼らに視線は、既に畏怖へと変わり、辰丸の次の言葉を待っていた。

 

 

 辰丸は全員を見回すと、静かに告げたのだった。

 

 これから彼が起こそうとしている策を……

 

 

引縄批根いんじょうへいこんの策……すなわち、皆で縄を悪にかけるのです」



「皆で縄をかけた後は……」



 定勝が先を促すように、口元に笑みを浮かべながら言うと、辰丸はますます冷たいものを瞳に浮かべた。

 

 そして、さながら突き飛ばすように、冷酷な口調で言ったのだった。

 

 

 

「悪を根から引き抜き、燃やしてしまいましょう」



 

 と――

 

 


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ