絶体絶命! 多功ヶ原の戦い⑤
◇◇
多功ヶ原から撤退した長尾軍は、続々と壬生城へと入っていった。
その中には当然のように長尾景虎、千坂景親、甘粕景持の姿があり、次いで黒川清実、長尾時宗も帰還してきた。
そして最後に宇佐美定満が入城したところで、長尾軍の主だった将はみな無事に撤退を完了させたのだった。
あとは佐野軍の到着を待つだけ……
しかしその佐野軍は待てども待てども現れないことに諸将は徐々に不安に顔を曇らせていく。
そこで景虎は状況を確かめるべく、諸将を評定の間に集めたのだった。
「はて……? 奇妙なことですな。いかに殿と言えども、もう到着してもおかしくないのに……
それに例の新参の使番……確か辰丸とかいう名でしたかな?
かの者も見当たらないようですが……」
口火を切ったのは黒川清実であった。
すると示し合わせたように長尾時宗が続けた。
「そう言われれば、かの使番はわれの元へ伝令に来た後、清実の元へと向かっていったようだが、その後はどこぞに消えてしまったのだろうな。
まさか今頃は宇都宮の陣にいる……なんてことはあるまいな? 」
一気に場の空気が凍り付く。
景虎は口を真一文字に結んだまま微動だにしない。
しかし胸の内はきっと穏やかならざる何かが渦巻いていることだろう。
宇佐美定満は景虎の気を少しでも紛らせようと言葉をかけようとした。
その時だった……
「申し上げます!! 」
突如部屋の外から大きな声が鳴り響いてきたのである。
「許す、申してみよ」
景虎は淡々とした口調で答えると、直後に焦燥感を前面に押し出した早口が響いてきたのであった。
「佐野昌綱殿の軍勢、多功軍と戦闘開始!! 多功軍に前後を囲まれて苦戦中とのこと!! 」
景虎はカッと目を見開くと、その場を立ち上がった。
表情はまさに鬼。
顔を真っ赤にさせて、目は血走っている。
「お屋形様!! いかがなさるおつもりで!? 」
顔を青ざめさせた定満は、慌てて景虎に声をかけると、景虎は憤りを内に秘めたままに、静かに答えた。
「佐野豊綱を救いに行く」
「なりませぬ!! これも敵の罠やもしれません! むやみに動くべきではございませぬ! 」
「ええい! 止めるな! 駿河!! 」
定満の制止を振り切ろうとする景虎。
そんな彼に対して、座ったままで不敵な笑みを浮かべている長尾時宗が小さな声でつぶやいた。
「……罠ねえ…… これもあの辰丸とかいう下賤の者の罠ではないのか? 」
景虎はその言葉を耳にした瞬間に、時宗をギロリと睨みつける。
「なんだと? 」
しかし時宗は景虎の迫力に屈することもなく続けた。
「撤退すべきところを撤退させず、佐野軍を孤立させる。そうなれば佐野軍の壊滅は火を見るより明らかというもの。
もし佐野豊綱殿の身に何かあったなら、下野は完全に当家の手から離れていくことになりましょうな」
「何が言いたい? 」
「いえ、単なる事実を申し上げただけにございます。
しかし、万が一当家が下野における威光を失ったなら、これは一大事にございますな」
「つまりこう言いたいのか……
辰丸が宇都宮と手を組んで、我らを貶めようとしている……と」
時宗は景虎の言葉に小さくうなずくと、言葉を続けた。
「もしその通りであるなら、裏切り者を使番として招き入れた景虎殿の責任は計り知れないものでございましょう」
「時宗殿……これ以上はやめておけ……」
千坂景親が怒りをこらえながら、震える声で時宗をたしなめる。
しかし時宗は悪びれる様子など微塵も見せずに景親を一瞥すると、「ふっ」と口元に嘲笑を浮かべて立ち上がった。
「これ以上ここに居ても時間の無駄。
われは宇都宮の軍勢が万が一ここまで攻め込んできた時のことを考えて支度を進めるとする。
行くぞ! 清実! 」
「御意にございます。では方々、お先に失礼させていただきます」
黒川清実は口元の笑いを抑えきれずに、顔を真っ赤にしながら時宗とともに部屋を出ていったのだった。
部屋に残った面々は一様に言葉を失ってしまった。
彼らは普段の辰丸のことを良く知っている。
秋から冬にかけて、お役目をしっかり果たすために馬や槍の稽古に懸命に取り組んでいたこと。
書物庫に通っては越後や長尾家のことを知ろうと、夜遅くまで書物を読み漁っていたこと。
そして、領内を巡っては農民たちと少しでも距離を縮めようと、農作物の世話の手伝いをしていたこと。
決して自分から何かを主張することはなかったが、慣れぬ土地、慣れぬ生活に愚痴一つ言わずに、一生懸命馴染もうと努力に努力を重ねていた辰丸の姿を、全員が目の当たりにしているのだ。
そんな彼がお家を貶めるような真似をするだなんて……
ありえぬ。絶対にありえぬ話だ。
それでも確かな証はない。
あくまで「間違いであって欲しい」という願望でしかないのだ。
よって誰も何も口にすることができなかったのである。
自然と重い空気が場を支配した。
その時…
宇佐美定満にとある考えが閃いたのである……
それはここに来る前に感じた違和感についてのこと……
「そうか……あの時の違和感はそういうことだったのか……」
思わず口に出したことで全員の目が定満に集まった。
定満は慌てて自分の感じた違和感について話した。
すなわち、景虎から全軍撤退の号令がかけられた後に「狼煙が上がったこと」と「黒川清実、長尾時宗の順で退却してきたこと」だ。
そして彼はその違和感の正体について明かしたのであった。
それは……
辰丸の伝令の順は「佐野豊綱」「長尾時宗」「黒川清実」の順だった。
その内、佐野豊綱に関しては殿を務めていることもあり、退却が遅れるのは想定の内だ。
しかし、残りの二人についてはどうか……
伝令の順について、長尾時宗を先にしたのは、言うまでもなく「少しでも退却を早める為」のこと。
しかし実際に先に退却してきたのは……
「黒川清実」の方――
宇佐美定満が待機していた場所は決して黒川清実の陣から近い場所ではない。
むしろ丁度、両軍の中間に位置していたといってもよい。
にも関わらず、先に退却の命を受けた時宗の軍勢の方が、後になってやって来たのは一体なぜなのだろうか……
「これはあくまで推測じゃが、あの二人は事前から示し合わせていたのではないか……? 」
「つまりこたびの戦は機を見て戦わずに退却することと、退却の命が先に来ると知っていた時宗殿は『狼煙』を上げたことを合図に退却せよと、黒川殿と示し合わせていた……
しかし何の為に……? 」
するとここまで黙って聞いていた景虎が重い口を開いた。
「多功勢を引き込み、佐野軍の背後を突く為……」
全員が一斉に顔を上げて景虎を見る。
すると景虎の表情はますます険しいものへと変わっていった。
何か言葉を発せば爆発してしまいそうな景虎の言葉を継ぐように定満が続けた。
「清実と時宗の二人は予め多功軍に通じていた。
そして『狼煙』を時宗が上げた瞬間に、清実は退却を開始。
同時に清実の陣に向けて多功軍が進軍をする。
さすれば殿の佐野軍への包囲は完了。
もしかしたらカッとなりやすい佐野昌綱殿には『退却と見せかけて突撃をするように』と偽の伝令を流しておるかもしれぬ……
さすればより確実に多功軍は佐野軍を包囲出来るからのう」
さらに千坂景親が唇を噛みながら定満に続いた。
「そして清実の陣へと向かった辰丸は、敵中に単身で突っ込む形となる……
もちろんそれは辰丸を亡き者とする為……」
「全ての『辰丸の裏切りによること』とし、その責をお屋形様になすりつけるという訳じゃな……」
そして締めくくるように甘粕景持が拳を固めて言った。
「お屋形様を長尾家当主の座から引き下ろす為にか……! あの下衆野郎共!! 」
「ダンッ」と大きな足音を立てて立ち上がった甘粕景持は、大股で部屋を出ていこうとした。
もちろん黒川清実と長尾時宗を問いただしに行く為だ。
しかし、景虎は彼を引き止めた。
「近江!! ならぬ!! 」
「しかし、お屋形様!! 」
「今は確たる証がない」
「しかし……! 」
悔しそうに唇を噛みしめながら甘粕景持は足を止めた。
そして景虎は全員に向けて、感情を押し殺しながら告げたのだった。
「今は佐野豊綱と昌綱の兄弟と、辰丸の帰還を信じるより他あるまい。
信じるのだ……あやつらのことを……」
景虎は目を細めて城の外へと視線を移した。
そして、その横顔はたった一つの願いだけを映していたのだった。
――死ぬなよ……!
と――




