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絶体絶命! 多功ヶ原の戦い③

永禄元年(1558年)6月13日ーー



 降りしきる雨の中、疾風怒涛のごとき長尾軍は、唐沢山城で合流した佐野軍とともに進軍を開始した。



 まず最初の標的は唐沢山城から東に位置する小山氏が治める祇園城。

 しかし小山氏は『軍神』の姿を目の当たりにしただけで戦意を喪失し、本拠地である祇園城をあっさりと開城すると降伏の意向を明らかにした。



 長尾軍は祇園城にて一夜を過ごすと、翌朝早くには城を発った。そして次の標的である祇園城から北にそびえ立つ壬生城を目指すと、この城も無抵抗とはいかなかったが、赤子の手をひねるかのように陥落させたのだった。



 まさにここまでは長尾軍と佐野軍の思い通りに事が進んでいると言えよう。



 一方の辰丸は使番、つまり伝令役として各軍の間を右に左に忙しく動いていたのだが、どこまでも貪欲な彼は、自分の役目を果たしながら、各軍を率いる将たちの動きを冷静に見極めていた。


 すると分かってきたのは、長尾時宗も黒川清実も思いの外大将として優れているということだ。


 一方の佐野軍はどうか。


 こちらは当主の佐野豊綱の器量に多少難があると言わざるを得ない。

 というのも、彼は景虎の指示を忠実にこなすだけの実行力はあるが、それ以上の働きは一切みせなかったのである。

 忠実な家臣であればそれでよいが、彼はまがいなりにも当主であり、名目上は今回の戦の総大将なのだ。

 その事を考えれば、もっと積極的に動いて、時には景虎へ意見してもよいのではないか、と辰丸は考えていたのだった。


 このままであれば景虎が「死ね」と指示を出せば、本当に死にかねない。

 そんな危うさすら感じさせるものだった。

 しかしそんな中にあって、佐野豊綱の弟の昌綱は、佐野家の中でも格別の輝きを放っており、彼の豪胆さと武勇は目を見張るものがあったのだった。



 さて祇園城と壬生城の二つを抑えたことは、小山氏と壬生氏を降したことを意味しており、残るは下野国の守護、宇都宮氏だけとなった。


 

 当主、宇都宮広綱うつのみやひろつなはなんとこの時まだ十三の少年だ。

 重臣たちの涙ぐましい忠義によって、どうにか今の地位が保てていると言っても過言ではない。


 そんな彼が本拠地としているのは、関東平野の最北、宇都宮城。

 北と西は厳しい日光の山間、東は鬼怒川に囲まれたこの城は、守りにくい平城ではあるがその攻め口は、実質的に南からしかない。

 その南の位置にあるのが、北関東随一の堅城、多功城だ。


 その城は、勇将、多功長朝たこうながともが守っており、いかに長尾軍が天下無双であっても、そう簡単に落とせるものではないと考えられた。



 しかし長尾景虎はこの城を陥落させるつもりはない。



 城を攻めると見せかけて布陣し、しばらく睨み合いを続けたところで、宇都宮氏と佐野氏が互いの領土への侵攻をしない……すなわち不可侵条約を締結させて引き上げるつもりであった。


 その事は相手方も薄々気づいているのだろう。


 城の前に総勢を並べた長尾軍に対して、多功長朝は城門の前まで兵を進めてこれを迎え撃ったが、決して自分たちからは仕掛けようとはしなかったのであった。



 一方の長尾軍は、先陣に佐野豊綱、右翼に長尾時宗、左翼に黒川清実、彼らの後方に長尾景虎と宇佐美定満が並んで、関東平野の一端、多功ヶ原に布陣した。

 所々に藪は存在するが小高い場所はなく、ほぼ平坦な平原であり、ここで両軍がぶつかれば、何ら策を講じることも出来ず、壮絶な白兵戦が繰り広げられることは明らかだ。


 長尾軍は万が一ここで戦闘が開始されてもしっかりと戦えるだけの陣形を敷いたのだった。



………

……

永禄元年(1558年)6月18日 長尾軍本陣ーー



「お屋形様、ようやく雨が上がりましたな」



 宇佐美定満は長尾景虎に声をかけた。

 その口調は努めて明るくしようとする定満の気遣いが感じられるものだ。



「そうか」



 しかし景虎は不機嫌な心情が表に出たように、そっけなく答えた。


 

 この時、多功ヶ原に布陣してから既に三日以上経っている。


 形式上とは言え、天下無双の長尾軍が相対したのだ。

 目の前の多功軍に士気の低下や乱れが見えてもおかしくないはずにも関わらず、彼らはそれを見せないどころか、「臆病風に吹かれた長尾など恐れるに足りぬ」と罵詈雑言を浴びせてくる始末。


 さらに関東管領の名代としてやってきた長尾景虎に対して、講和の使者を立場が下となる宇都宮広綱から送ってくるだろうとばかり思っていたのだが、その使者が一向にやってこないのだ。


 さも「長尾景虎から使者をよこせ」と言わんばかりに……



 つまり景虎は完全に見くびられていたのだ。



 ただでさえ直情的な彼が、不機嫌になるなと言う方が間違っているというものだ。


 宇佐美定満は彼の性格をしっかりと読み取り、自軍は部下に任せて、こうして景虎の本陣にて過ごしていたのだ。


 景虎が暴走することがないように、と……



「お屋形様、かくなる上は一度壬生城までお引きになられてはいかがでしょう?

宇都宮もああして雑言を吐いている割には攻めかかってきませぬ。

つまり我が軍に恐れをなしている証でございましょう」



 定満は極力景虎の心情を逆なでしないように提案した。


 景虎はギロリと定満を見ると、低い声で言った。



「引いてなんとする? 」



 定満は景虎の威圧に負けずに、彼をなだめるように続けた。



「講和の使者を我が軍より差し向けましょう。

相手は未だ世のいろはも知らぬ年少の当主。

ここは一つ、お屋形様の関東管領の名代としての懐の大きさをお示しになられたなら、そのご威光は関東一円に轟くというものです」



 流れるような定満の言葉を、身じろぎ一つせずにじっと聞いていた景虎は、彼の言葉が終わると同時に口を開いた。



「相変わらずよく動く駿河の口よ」



 その一言だけで景虎は目を閉じて腕を組んだ。


 それは「梃子てこでも動かんぞ」という意思の表れ以外何ものでもなかったのだった。



ーーまったく……困ったものじゃ……



 定満は強情な景虎の横顔をじっと見つめながら、深いため息をついた。


 大軍ではないとはいえ、長期間に及ぶ滞陣は兵の士気と兵糧に関わる。


 定満はどうにかならないものか、と引き続き頭を悩ますのだった。



………

……

永禄元年(1558年)6月21日ーー



 長尾軍が多功ヶ原に着陣してから六日が経過したこの日。


 いよいよ事態は急変した。


 それは景虎の元にとある一報が告げられたからであった。


 その一報とは……



ーー武田晴信、川中島への侵攻の動きあり!



 という飯山城からのもの。



 さすがにこの状況では、悠長に滞陣を長引かせる訳にはいかなかった。



「駿河、しゃくではあるが、ここはお主の言葉に従おう。

壬生に引いた後はいかがする? 」


「宇都宮広綱殿に対しては、関東管領家の名をもって本領の安堵、それに北条らの敵が侵攻してきた暁には、長尾軍が救援にかけつけることを条件に、佐野、宇都宮の両家の講和を結びましょう」


「今後は宇都宮も助けよ、そう申すか」


「それも関東管領の名代としての務めでございます」



 景虎はふぅと大きくため息をつくと、次の瞬間、きりっと表情を一変して大きな声をあげた。



「辰丸!! われの指示を全軍に伝えよ!! 」


「はっ! 」



 本陣の幕の外に直立していた辰丸は、陣の外でひざまずくと大きな声で返事をした。

 


「一旦壬生城へ引く! 殿しんがりは佐野軍! 

準備が整い次第、速やかに陣を引き払え! 」


「御意にございます! 」



 辰丸は景虎の言葉に弾かれたように馬にまたがると、疾風のように多功ヶ原の中央へと馬を飛ばしていったのだった。



………

……

 辰丸が最初に向かったのは、最前線の佐野豊綱の陣だ。


 これは予め伝令の順が決められており、佐野軍の次に長尾時宗、最後に黒川清実の陣の順番で向かうことになっているからだ。


 景虎の陣を出てから馬を飛ばすとほどなくして、佐野豊綱の本陣に到着した。


 そこから感じられるのは明らかに不穏な苛立ち。



ーー兄上! もう堪忍なりませぬ! 『軍神』が聞いて呆れる体たらく! かくなる上は我が軍だけで宇都宮に一太刀浴びせてやろうぞ!


ーー待て! 昌綱! 景虎殿にも深いお考えがあってのことだろう。もう少し待つのだ!



 いきり立つ佐野昌綱に、それを必死になだめる佐野豊綱。

 連日の多功軍から浴びせられる罵詈雑言に、昌綱は爆発寸前といった様相なのだろう。


 そんな中、辰丸は陣の外から声を上げた。



「長尾軍使番より、景虎様からのご指示を申し上げます!! 」

 


 にわかに幕が上げられると、そこには冷たい視線を浴びせてくる昌綱の姿があった。


 辰丸は今にも襲いかかってきそうな昌綱のことを気に留めることもなく、一気に言い切った。



「全軍、壬生城へ撤退! 佐野豊綱様におかれましては、殿しんがりの大任を仰せ付けられております! 」



「な……なんだと……? ここまで長きに渡り滞陣させておきながら、戦わずして撤退だと……」



 わなわなと怒りに震えながら大きく目を見開く昌綱。


 そんな彼をたしなめるように、豊綱は落ち着いた声で言った。



「ありがたき幸せ。殿しんがりの大役、しっかり務め上げてみせましょう。

それ、昌綱。お主も早く兵を引く支度をいたせ」



 すると顔を真っ赤にした昌綱は、雷のような大声で怒りを爆発させたのだった。



「かようなこと言われなくとも分かっておる!!

いちいち口にするでない!! 」



 そう吐き捨てると昌綱は自分の率いる兵たちの方へと馬で駆けていったのだった。


 辰丸は背中に昌綱のピリピリとした空気を感じながら、豊綱の方へと視線を向けた。


 すると豊綱は肩をすくめながら、口元を緩めて言った。



「すまぬな……」


「いえ、昌綱様が真剣にこたびの戦に向き合われている証というものです」


「そう言ってもらえるといくらか救われるというものだ。

では我々も支度を始める。

長尾時宗殿と黒川清実殿の軍が動き次第、こちらも撤退を始めよう」


「かしこまりました。では、私はこれで」


「うむ、お役目ご苦労であった」


「ありがたきお言葉にございます」



 辰丸は小さく頭を下げると、次の瞬間には馬上の人になっていた。


 そして長尾時宗の軍の方へと馬の首を向けたのだった。



………

……

 景虎からの「撤退せよ」との命を受け、自分の兵の元へと戻ってきた佐野昌綱。


 不満を露わにしながら彼は荒々しく自分の陣へと入った。



「納得がいかぬ! おのれ! 長尾景虎め!

人のことをなんだと思っているのだ!! 」



 わざと周囲に聞こえるようにわめき散らしたが、兵たちは「触らぬ神に祟りなし」と言わんばかりに、彼に近づこうとはしなかったのだった。


 しかし陣の中でもたもたしている場合ではない。

 納得はいかない、しかし今は撤退の準備を進めなくてはならないことは、暗愚ではない彼も分かっていたからだ。


 彼は早速、陣を畳もうと重い腰を上げた。



 ……その時だった……



「長尾軍使番より、申し上げます!! 」



 と、陣の外から声が聞こえてきたのだ。



「使番だと……」



 しかし先ほどの者とは声が違う。

 不審に思った彼は幕をさっと上げて、やって来た者を確認した。


 ところがそこには確かに『群青色の母衣』をまとった若武者の姿……


 彼は長尾軍からの使番に間違いないと思い、低い声をかけた。



「用件はなんだ? 」


「はっ! 先ほどの使番からの『撤退』の命は欺きにございます! 」


「欺き? どういうことだ? 」


「はっ! かの使番が長尾、佐野両軍の間を巡っていること、及びその伝令が『撤退』であることは敵にも伝わっております!

ついては、これを『欺き』とし、今より景虎様からのまことの命を伝えます! 」


「まことの命……」



 昌綱は未だに半信半疑で眉をひそめる。


 しかし……


 次の使番の言葉によって、表情をみるみるうちに変えていったのだ。




 喜びと興奮に包まれたものにーー




「撤退と見せかけて、敵が油断したところを奇襲せよ、との仰せにございます!!

先鋒の大役は佐野豊綱様の軍!

後方より狼煙が上がったことを合図に突撃を開始せよ!

とのことにございます!! 」




ーーあははははっ!!



 

 多功ヶ原に昌綱の高笑いが響いた。


 

 どんよりとした曇り空にも関わらず、彼の気持ちは一瞬のうちに晴れ渡ったのだ。



ーーこれで思いっきり暴れることが出来る!



 その一心だったのだ。



 まさか今目の前にいる使番こそが『欺き』とも知らずにーー





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