絶体絶命! 多功ヶ原の戦い②
永禄元年(1558年)6月10日ーー
越後を出た長尾軍は南下すると、自国領である上野国厩橋城(現在の群馬県前橋市)を通過、そこからは東へと進路を変えると、上野国と下野国の国境に程近い場所にある唐沢山城(現在の栃木県佐野市)へと入ったのだった。
「ようこそいらっしゃいました」
遠征してきた長尾軍を丁寧に迎えたのは、唐沢山城城主で佐野家当主の佐野豊綱。
いかにも人が良さそうな笑顔が特徴的な将だ。
しかし……
「ほう……川中島には一万以上の大軍と綺羅星のごとき諸将をもって遠征をされたと聞いておりますが、この下野へは随分と身軽にこられたのですな」
と、長尾軍の全容を見て皮肉交じりに言った青年がいた。
「こら、昌綱。関東管領の上杉様の名代としてこられた長尾景虎様になんという無礼な物言いを! 」
「ふん! かような寡兵では下野国平定どころか、多功城を抜くこともかないますまい! 」
昌綱と呼ばれた青年は、そう言い捨てるとどこぞへと消えていってしまったのだった。
彼の名は佐野昌綱。
当主、豊綱の弟だ。
歳は三十を超えたばかりというが、下野ではその名を轟かせる勇将で、佐野氏がどうにか唐沢山城を堅守出来ているのも、彼の武勇によるところが大きかった。
そして彼の指摘の通り、今回の遠征軍は川中島の時と比べると、遥かに規模が小さかった。
長尾景虎の本隊が一千。
副大将には長尾時宗、五百。
軍監に宇佐美定満、五百。
侍大将に黒川清実、五百。
総勢二千五百。
景虎の本隊には千坂景親と甘粕景持の二人の重臣はいるが、柿崎景家らの歴戦の猛将たちは不参加だったのである。
これは戦い続きで兵たちが疲弊していることもあるが、越中国での一向衆の不穏な動きと、川中島を虎視眈々と狙う武田家の動きの二つに警戒を怠らない為でもあった。
そしてこの陣容では昌綱の言葉の通り、下野国の雄、宇都宮家が守る多功城を陥落させるには、あまりに乏しいと言わざると得ない。
それほどに多功城は堅固な名城であり、その先にある宇都宮家の本城、宇都宮城を守る『壁』となって外敵に立ちはだかっているのだった。
下野でも数々の激戦を繰り返してきた長尾景虎が、このことを知らないわけがない。
しかし彼はそれでもよいと踏んでいた。
なぜならこの戦は二つの目的のみ達成出来れば良しとしていたからだ。
一つは、下野国の群雄たちに、長尾景虎の威光を見せつけること。
つまり長尾軍の強さを見せつけて、「何かあれば本気で潰すぞ」と脅しをかけておく。
そうすることで、佐野家の領土への侵攻を鈍らせることが叶う。
そしてもう一つは、来年に迫った上洛に向けて、関東の安定に一役買っているという事実を作っておくことだ。
こうすれば足利将軍家が長尾景虎に重きを置くに違いない。
上手くいけば関東における強い権限を与えてくれるかもしれない。
そうなれば上洛後に本格的に関東進出に乗り出せるのだ。
つまり景虎は今回の遠征では多功城と宇都宮城を落とすつもりはなく、間近にまで迫った後に、引き上げるつもりでいたのだった。
慧眼の昌綱は、鋭く景虎の考えを見破っていたのだろう。
しかし佐野家にしてみれば、景虎が軍を率いて進軍してくると知ったその時から、彼とともに下野国を平定し、この先のお家の繁栄と地域の安定を期待していたはずだ。
その出鼻を挫かれてしまった格好となったのだ。
彼が臍を曲げてしまったのも無理はないと言えよう。
景虎は彼の気持ちが分からないでもない。
しかし今回の戦はあくまで『今後につながる戦』と心に決めた以上は、昌綱には申し訳ないとは思いつつも、「仕方のないこと」と、自分を必死に説得させていたのだった。
苦笑いを浮かべて頭を下げ続ける豊綱の案内により、城内の客間へと通された景虎。
彼は一息つく間もなく辰丸を呼び寄せると、一つ指示を出した。
「一刻(約二時間)の後にここを発つ。
それまでは各自自由と、諸将に伝えよ」
「御意にございます」
それは辰丸にとって初めての仕事だった。
辰丸の心は踊り、軽い足取りで広い城内を駆け巡っていく。
千坂景親、甘粕景持そして宇佐美定満と重臣たちに景虎からの指示を伝えると、彼らは一様に「ありがとう、辰丸」と笑顔を向けてくれた。
彼はどこか自分の仕事を認めてくれたような気がして、嬉しくて仕方なかった。
しかし、長尾時宗と黒川清実の元へと足を運んだ彼を待っていたのは、思いもかけない冷たい仕打ちであったのだった。
彼らは同じ部屋で何やらこそこそと話し合いをしていたようだ。
そして辰丸が部屋の外までやってきて「お屋形様からの言伝を申し上げます! 」と大きな声で言うと、ギョッとした顔で彼の顔を睨みつけてきた。
なんとも言えぬ嫌な感じが辰丸の心を曇らせたが、彼は気持ちを強く持って、景虎の指示を伝えた。
「では、失礼いたします」
あまりここに長居をしていてはならない思いに駆られた辰丸は、そそくさとその場を去ろうとした。
しかしそんな彼を時宗は鋭い口調で呼び止めた。
「おい、そこの小僧」
辰丸と彼は同い年だ。
しかし彼は辰丸のことを「小僧」と見下して呼んだのだ。
辰丸は心穏やかではなかったが、相手は長尾家の一門衆であり、言わば雲の上の人なのだ。
その呼び止めに応じて足を止めると、その場で頭を下げた。
ズカズカと辰丸に近づいてきた時宗。
そして……
ーーガッ!
と、乱暴に辰丸の胸ぐらを掴んだ。
一方的に敵意をむき出しの冷たい視線を向ける時宗に対して、辰丸は彼にされるがままに、静かな視線を向けていた。
その態度が時宗の怒りに油を注いだのだろうか。
彼は辰丸の首を絞め上げるように掴んだ胸ぐらをグイッと上に上げた。
辰丸は呼吸が止まった顔を苦悶に歪めた。
そんな彼に時宗は冷たく言い放ったのだった。
「俺の妻と随分仲良くしてくれているようではないか」
彼の言う「妻」とは、許嫁である黒姫のことであることは明白であった。
辰丸はあの晩のことを彼に見られていたことを、この時初めて悟った。
しかし何かを口にしようにも、きつく首を絞め上げられて声どころか息すら口から出すことができない。
徐々に顔が赤から土気色に変わっていく様子が、自分でも分かった。
遠のく意識……
このままでは気を失ってしまう……
いや、もしかしたら息の根が止まってしまうのではないか……
そう思ったその時だった。
「そこで何をしておる! 」
と、鋭い声が廊下中に響いてきた。
とたんに掴まれていた胸ぐらが離されると、辰丸は床にうずくまって、大きく咳き込んだ。
どうやら声をかけてくれたのは、千坂景親のようだ。
なおもうずくまる辰丸の頭上から時宗の悔しそうな声が聞こえてきた。
「ちっ……『新参』ごときが邪魔しおって」
「時宗様。この折檻はお屋形様の許しがあってのことでございますか? 」
千坂景親の低い声。
有無を言わせぬ怒気がこもっている。
時宗は景親の凄まじい圧力に屈したのだろう。
黒川清実とともに部屋を出ると、辰丸と景親から離れたところから捨て台詞を吐いた。
「ふんっ! 覚えておけ! いつか新参たちはみな、われが越後から追い出してくれよう!
それまではせいぜい景虎殿の威を借りて、でかい顔をしておるんだな! 」
そう言い放った後、時宗は清実とともに廊下の奥へと消えていったのだった。
「大丈夫か? 」
景親がなおも咳き込む辰丸の背中を優しくさすると、辰丸は片手を上げて「ありがとうございます」と、絶え絶えに答えた。
「お主も厄介なお方に目をつけられたものだ」
「や、厄介なお方……でございますか? 」
「ああ……あのお方に目をつけられた者たちは不可思議な失踪や死を遂げていると聞いておる。
お主も気をつけよ」
ぞくりと辰丸の背筋に冷たいものが走る。
何か嫌な予感がしてならない……
しかし今の彼にはどうすることも出来ないのは百も承知のことだ。
辰丸はようやく咳がおさまり、顔を上げると、突然空を覆った黒い雨雲を見つめながら、
「何も起きなければ良いのですが……」
と、呟くより他なかった。