絶体絶命! 多功ヶ原の戦い①
弘治3年(1557年)7月12日 中野城ーー
戦勝の宴が催された翌日のこと。
中野城では長尾軍が越後へと帰国する前の最後の評定が行われた。
もちろんその場には辰丸の姿はない。
しかし彼には、景虎がそこで命じることが分かっていた。
なぜならその命令こそが辰丸が長尾家に仕官することの条件であったからだ。
その条件とは……
飯山城と旭山城を長尾家に割譲すること。
つまり北信濃の一部を長尾家の直轄地とすることであった。
そうすることで長尾軍の足軽の一部を北信濃に残す大義名分が出来るからだ。
そして、あまり大きな軍事力の持たない高梨政頼にとって、多少領土が小さくなってしまうものの、好都合以外なにものでもない。
彼は二つ返事で引き受けた。
さらに旭山城の城主には景虎の猶子である山浦国清を置き、まだ若い彼の後見として実父である村上義清を配したのだ。
これにより実質的には猛将、村上義清が北信濃に戻ったことを意味した。
かつて武田晴信を二度も大敗に導いた彼の北信濃帰還は、武田陣営だけではなく、周辺の民たちの心情にも少なからず影響を与えるに違いない。
すなわちそれは「村上様が守ってくれるなら安心だ」という民たちへの好影響に他ならなかった。
そして飯山城へは『譜代衆』の一人である安田顕元を城主にすえたのだった。
こうして一定の防備を固めたことで、辰丸は後ろ髪引かれることなく、川中島を発つことが出来るはずであった。
しかし今は違う……
黒姫……
昨晩目にした彼女の切ない涙が辰丸の胸を押しとどめていたのである。
しかし辰丸の複雑な気持ちなど推し量ることもなく、無情にも長尾軍が中野城を出立する時刻を迎えた。
城を出て全員で見送りをする高梨家の面々。
もちろんそこには黒姫の姿もあった。
身分の低い辰丸が城を出るのは一番最後の方だ。
彼は、長尾軍に小さく手を振りながら微笑みを向ける黒姫のことをずっと見つめていた。
きっと今見せている微笑みは作られたものに違いない。
彼女の故郷と家族との別離の時は刻一刻と足音を立てて近づいてきているのだ。
こうしている今だって心の中では震えていることだろう。
そして彼女はきっとこれからも不安で眠れぬ夜を抱え続けていくのだろうと思うと、辰丸は胸が押しつぶされそうだった。
そうしていよいよ辰丸が城を出る番になった。
皆に倣って高梨家の人々に向けて一礼をする。
そして顔を上げた瞬間……
辰丸の時は止まったーー
黒姫の寂しげな瞳。
人々の中にあって浮き上がったかのように鮮やかな彼女の姿。
辰丸は吸い込まれるように、その場に立ち尽くしてしまったのだ。
ーー辰丸様を信じております……
声にならない祈りが辰丸の心に響いてくる。
ああ……
今すぐここから抜け出し、彼女の元へ駆けて行けたらなら……
彼女と二人で川中島でいつまでも静かに暮らすことが出来たら……
辰丸もまた祈るような気持ちで彼女を見つめ続けていたのだった。
しかし……
ーードンッ……
「おいっ! 何をボサッとしておるのだ! 早く歩け! 」
背後から進んできた足軽に肩がぶつかると、辰丸はハッと我に返った。
「も、申し訳ございません」
彼は足軽に謝ると、黒姫らに背を向けて歩き始めた。
そしてあらためて心に誓ったのである。
必ずや、彼女の憂いを取り除くとーー
………
……
川中島を出て越後へと戻ってきた長尾軍。
多くの兵たちは田を耕す農民であり、兵たちは休む間もなく今度は稲や青芋と呼ばれる衣服の原料となる草の世話に忙しくしていた。
一方の辰丸は、春日山城からほど近い長屋にて暮らすこととなった。
長屋とは下級武士たちが、数人で住居を共にする屋敷のことだ。
当然辰丸が住む屋敷も数人の足軽たちが暮らしているのだが、幸いなことにそのうちの一人が小島弥太郎であった。
その為辰丸は気後れすることなく越後で生活をすることが出来たのである。
そして武家となった彼の生活は川中島にいた頃とは一変した。
幸か不幸か辰丸はまだ使番衆に配属されたばかりの為に職務は与えられていない。
その為、自己研鑽や情報収集に時間をあてることが出来たのである。
特に時間を費やしたのは馬と武具の稽古だ。
使番というお役目である以上は、馬を上手に乗りこなせなければならない。
そこで彼は厩に通っては、馬の世話を手伝いながら、馬への接し方を学んでいったのである。
さらに槍、刀、弓そして鉄砲と一通りの武具の扱いを弥太郎から教わっていった。
もちろん自分で自分のことを守れるくらいに、最低限の腕前を持たねばならない。
しかし辰丸の目的はそれだけではなかった。
彼はそれぞれの武具の特徴を掴むことで、戦における用兵術に活かせないかと探っていたのである。
特に鉄砲という武器には大いに興味が湧いていた。
具体的にどのように活かせるのかはまだ分からない。
しかしこの武器は近い将来、合戦のあり方そのものを大きく変えてしまいそうであることは、この頃から予見していたのだった。
さらに辰丸は城の書物が集められている蔵にも通いつめた。
そこには今までの長尾家が行った政策、さらに周辺国の様子などが克明に記録されていた。
そして彼は二つの事が引っかかったのだ。
それは……
越後という国は、米の収穫量があまりにも少ないこと。
そして冬になると軍事行動を行なえなくなるほどの大雪に国全体が埋もれてしまうこと。
当然、作物など採れるはずもない。
つまり兵たちも国衆たちも、毎年冬を超えることは身も心も厳しいことなのだ。
そして春になれば再び戦に明け暮れる日々が待っている。
身も心も全く余裕がない状況……
これが人々がいがみ合う遠因にもなっているのではないか……
辰丸にはそう思えてならなかった。
さて、学ぶことで溢れていた辰丸の日々は、あっという間に過ぎ去っていった。
そうしていつの間にか年が明けたのだった。
………
……
弘治4年(1558年)1月10日 春日山城ーー
三が日も終わると、ようやく落ち着きを取り戻してきた春日山城。
そして年が明けてから十日が経過したこの日、ようやく辰丸たち下級武士にも、当主長尾景虎への年賀の挨拶が許される日となった。
ちなみに川中島から帰って以降、辰丸は一度も景虎の姿を見ていない。
およそ半年ぶりの景虎との対面に、辰丸は胸を高鳴らせながら順番を待っていたのだった。
そしていよいよ彼の番が回ってきた。
謁見の間に入った辰丸。
一段高い所に鎮座している景虎の姿がすぐに目に入ってきた。
戦場で見る時よりも、少し老けて見えるのは、彼の顔に疲れが見えるからだろうか。
辰丸は深く頭を下げると、新年の挨拶をした。
「あけましておめでとうございます、お屋形様」
「うむ、頭を上げよ。辰丸」
「はい」
ゆっくりと顔を上げて景虎を見つめる辰丸。
一方の景虎も目を細めながら辰丸のことを見つめていた。
しばらくの間、優しい沈黙が続いた。
そして景虎の方から柔らかな調子で問いかけたのだった。
「生活には慣れたか? 」
「はい、おかげさまで。皆良くしていただいております」
「そうか、ならよい」
再びしばらく沈黙が流れる。
辰丸は不思議だった。
なぜなら、もう挨拶も終えたことなのだから、退出を命じられてもおかしくないからだ。
しかし景虎はそうしなかったのである。
そして彼は再び口を開いたのだった。
「来年、われは京に上る。無論、上様に謁見するためだ」
「御意にございます」
三度言葉を切る景虎。
そして……
彼はぐっと言葉に力を込めて続けたのだった。
「それについて来い、辰丸」
「しかし……私は……」
「分かっておる。今のお主の身分では叶わぬことだ」
「はい……」
どこか沈んだような口調の辰丸に対して、景虎は鞭を打つように続けた。
「それまでに這い上がってこい」
「這い上がる……でございますか……」
「そうだ。それまでに武功を挙げて上がってこい」
辰丸は返事に迷ってしまった。
まだ武家の世界に入って間もない自分に、そこまでの武功を挙げることが出来るものなのか……?
しかし景虎は何でもないように言ったのだった。
「辰丸には出来る。われはそう見込んでここへ連れてきたのだ。
われを失望させるでないぞ」
「御意にございます」
辰丸はそう答えざるを得なかった。
しかしこの景虎からの命令にも近い激励は、彼の前に進む原動力となったことには間違いない。
今年中に這い上がってみせる……
そして長尾家に蔓延り続ける悪鬼を一掃してみせるのだ。
彼はそう心に誓って城を退出したのであった。
………
……
時は流れ、ようやく長い冬も終わりを告げた。
雪解け水で泥の沼と化した田畑を、城の全員が総出で耕す。
さらに春になれば稲の苗を植える。
こうして畑仕事がいち段落する初夏。
いよいよとある時期の訪れを意味していたのである。
戦の時期の訪れをーー
「全軍! 目指すは下野の宇都宮城! いざ、進めぇぇぇ! 」
ーーオオオオッ!!
長尾景虎の大号令によって兵たちは雄叫びを上げると、春日山城を出立し、北関東は下野国への遠征へと向かった。
もちろんその中には辰丸の姿も含まれている。
昨年、北信濃の安定に一定の成果を挙げた長尾軍が次に目指したのは、北関東の安定であった。
特にこの地域は、宇都宮氏を始めとして、壬生氏、小山氏、そして佐野氏と群雄割拠の様相を呈していた。
このうち佐野氏は景虎の前の代からの盟友であり、彼らの領地の周辺の安定を確保することが、今回の遠征の大きな目的なのである。
辰丸は長尾軍の使番の証である『群青色の母衣』を身につけて、景虎の本隊と行動を共にすることになった。
さあ、出陣の時ーー
しかしこのわずか数日後、彼は絶体絶命の危機に陥ることになる。
よりによって味方の陥穽にはまってーー




