黒姫と龍 ~出会い~④
◇◇
どれほど時間が経っただろうか……
辰丸はゆっくりと意識が戻ってくるのが自分でも分かった。
蒸し暑い夏のさなかにあってどこか爽やかな風を感じる。
そして優しい何かに包まれているような心地よさに身も心も委ね続けていた。
意識の歩みが辰丸の頭の中に近づいてくるにつれ、思考出来る力もまた戻ってくる。
するとふと浮かんだ疑問……
――そう言えば私はなぜ意識を失ってしまったのだろう……
しかし次の瞬間にその答えはおのずと彼の頭の中で明確となった。
「こうしてはいられません! 」
辰丸は勢い良く目を覚ますと、寝ていた体を必死に起こそうとした。
しかし、頭がずきずきと痛み、まともに動けそうにない。
彼は起こしかけた体を再び横にすると、「困ったものです……」と天井を見上げながらつぶやくより他なかった。
……と、その時だった。
「ふふ、無茶はいけません。もう少しゆっくりなさってくださいませ」
と、彼の頭上から声をかけられたのである。
そして彼はその声に聞きおぼえがあった。
それは……
黒姫の声――
――ガバッ!!
どこからそんな力が湧いてきたのか自分でも分からなかったが、辰丸は頭の痛みなど忘れて急いで身を起こした。
すると目の前に微笑んでいる黒姫の姿が目に入ってきたのだ。
恐らく手にした団扇で辰丸のことを優しく扇いでくれていたのだろう。
彼は思わず姿勢を正して平伏した。
「とんだ御無礼を働き、申し訳ございませんでした」
「お顔を上げてくださいな。わらわの方こそ、何も考えずになみなみと注いでしまい、本当に申し訳ないことをしました。お許しくださいますか? 」
辰丸は急いで顔を上げて、「と、当然のことでございます! 」と答える。
その声が上ずってしまったことに、彼は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
「ふふ、神算鬼謀の傑物とおうかがいしておりましたので、どのように恐ろしいお方なのかと不安でございましたが、杞憂でございました」
「なんとも情けないことです……」
辰丸はばつが悪そうに頬を指先で掻く。
黒姫は緩やかに首を横に振ると、柔らかな笑みを浮かべながら辰丸に話した。
「聞けば歳は十三だとか。わらわは一つ下の十二でございます。同じ年頃で、しかも同郷のお方とお知り合いになれて、わらわは嬉しく思っております」
辰丸はその言葉に赤い顔をさらに赤くして固まってしまった。
幸いなことに既に夜は更け、黒姫に辰丸の頬の色まで悟られることはないだろう。
それでも彼の緊張の面持ちは彼女に伝わっていた。
「ふふ、かように固くならないでくださいませ。わらわの方が緊張しているのですよ。
だってそなたは高梨をお救いになられた英雄なのですから」
「私が……英雄……」
「ええ、お父上などは、先の戦の後、口を開けばそなたの事ばかりお話しになられるのですよ」
「私のことばかり? 」
「ええ、『諸葛孔明の再来だ』とか、『龍神様のようじゃ』とか……」
「そんな……私などは酒の一杯で目を回してしまう程の情けない男でございます。それに先の戦ではお屋形様を始め、長尾家と高梨家の大将殿たちが奮闘した結果、勝てたのでございます。
私は旭山城にてその様子をただ眺めていただけにございます」
謙遜する辰丸に対して、黒姫は笑みを絶やさずにじっと見つめている。
辰丸は彼女の瞳を見つめ返す訳にもいかず、目のやり場に困ってしまった。
しばらく二人の間に言葉がなくなる。
辰丸の心はもうはち切れる寸前であった。
このような気持ちは初めてのことで、彼自身どのように扱ったらよいものか、まるで見当がつかなかったのだ。
――これ以上、共に時を過ごしてはどうにかなってしまいそうだ……
そう考えた彼は「私はそろそろ……」と、その場を立ち去ろうと立ち上がった。
その瞬間だった……
「辰丸殿はもう川中島からいなくなってしまわれるのですか? 」
と、黒姫が問いかけてきたのである。
その声の調子は先ほどまでの優しさはなく、どこか寂しさを感じさせる、痛々しいものであった。
辰丸は思わず目を丸くして黒姫の顔を見つめた。
黒姫は座ったままに辰丸の瞳をじっと見つめている。
そして彼女の瞳には、光るものが浮かんでいた。
辰丸は思わず問いかけた。
「どういう意味でございましょうか? 」
そして黒姫は小さな口をきゅっと結ぶと、訴えかけるような声で心情を話し始めたのだった。
「わらわは……二年後の髪結いの儀が終われば、ここから発たねばならぬと聞かされております。
それが悲しくて仕方ないのです!
わらわは故郷を離れたくない! 」
もちろんそれは長尾時宗の元へと嫁いでいくことを意味している。
宇佐美定勝の話によれば長尾時宗は越後国坂戸城、すなわち川中島からは大きく離れたところを居城としているのだ。
武家の娘として、周囲が決めた相手と夫婦になれねばならぬことは運命であることは承知の上でも、彼女は自分の気持ちに嘘がつけなかった。
もちろんそれは身勝手であることも知っているし、誰に苦しい胸の内を吐露出来るはずもない。
しかし今目の前にいる同郷の少年であれば心を許して吐き出してしまっても構わないように思えたのだ。
そして辰丸もそんな彼女の苦しい気持ちをしっかりと受け止めていた。
言葉に出さず、ただ優しい瞳で彼女のことを包む。
すると……
黒姫はすくりと立ち上がり……
辰丸の胸の中に収まった――
ほろほろと涙を流し始める黒姫。
故郷と家族をこよなく愛する少女にとって、見知らぬ土地へ嫁いでいくことがどれほど不安なことだろうか。
きっと辰丸には想像も出来ないほどに、彼女にとっては怖くて仕方のないことなのだろう。
月の明かりが開けられた襖からさんさんと降り注いでいる。
仄かに白く輝いた床。
その上に伸びた辰丸と黒姫の影。
今一つになっていた。
しばらくした後、黒姫が震える声で辰丸に言った。
「わらわは行きとうない……故郷にて静かに暮らしたい。そしていつしか同郷のお方と……」
黒姫はそこで言葉を止めると、ふと顔を上げた。
辰丸の顔と黒姫の顔が急接近する。
それでも不思議と辰丸には、先ほどまでの緊張はなかった。
そして心の中にはただ一つの願い……
どうか黒姫に幸せな人生を――
「辰丸さま……」
ゆっくりと、優しく彼女を引き離す辰丸。
彼は一つの決意を口にしたのだった。
「黒姫様。私はお誓い申し上げます。
必ずや黒姫様がお幸せになるように、お守りいたしますことを」
「辰丸さま……」
「そもそも黒姫様が時宗様の元へ嫁がねばならぬのは、長尾家に悪鬼が巣食っているためにございます」
辰丸の口調が徐々に変わっていくと、黒姫は目を大きくして彼の顔を見つめていた。
口元に微笑みを浮かべながら目を細めて黒姫を見つめる辰丸。
その表情からは清流のような涼やかさしか感じることは出来ない。
しかし、彼の声にはそこからは考えられぬほどのほとばしる情熱が感じられたのだった。
「その悪鬼がなくなれば、黒姫様が嫁がれて他国へ行かねばならぬ道理はなくなるというものです。
それにこの事はお屋形様の、しいては長尾家の憂いを取り除くことにもなりましょう」
「かようなこと……」
出来るはずもない……
そう言いかけたところで、黒姫は言葉を飲み込んだ。
なぜなら……
辰丸の燃えるような瞳の輝きを見ているうちに、こう思えてならなかったのである。
彼なら成し遂げてくれるのではないか。
自分の幸せを守ってくれるのではないかと……
そして辰丸は最後に心がこもった声で宣言したのだった――
「抜本塞源…… この手で長尾家に巣食う悪鬼を叩きのめしてみせましょう」
と……
………
……
辰丸が部屋を去った後のこと――
隣の部屋の物影から二人の男が、音も立てずに姿を現した。
一人は細い目を鋭く吊り上げている黒川清実。
もう一人は、わなわなと震えながら顔に嚇怒を表している長尾時宗。
実はこの二人、辰丸が目を覚ました頃からずっと隣の部屋から辰丸と黒姫の様子をうかがっていたのである。
そして黒姫も自室へと戻っていったのを見計らって、長尾時宗がたまらずに吐きだした。
「おのれ……下賤の身の分際で、われの姫をたぶらかしおって……絶対に許さん! 」
すると清実は声を低くして言った。
「ええ……これは由々しきことですな。どうにかして、あの害虫を駆除せねば、きっと長尾家に災いをもたらしましょう」
「しかし、一体どうするというのだ……? あやつは景虎殿の寵児。下手に手を出せば、景虎殿の逆鱗に触れかねん」
「くくく……寵児であるからこそでございます」
「どういうことだ? 」
「仮に……あやつがお家を揺るがしかねないほどの大きな失態をおかしたなら……」
「……景虎殿にも責があると……」
「そのようなお方に由緒正しき長尾家の当主は務まりますまい……」
「清実……それは名案じゃ。きっと父上も喜んでいただけるに違いありませぬ」
時宗は先ほどまでの怒気をどこぞに飛ばし、口元を妖しく歪めている。
清実もまた、同じく口元に禍々しい邪気を浮かべていた。
「臥龍だかなんだか知らぬが、所詮は世も戦も知らぬ卑賤の若造よ。
身の程をわきまえずに世に出てきたことを後悔しながら、地獄へ行くがよい……くくく……」
そして二人もまたその場を去っていった。
こうして辰丸にとって、初めての試練が幕を上げた。
彼の近い未来を予感させるように、眩しい月が分厚い雲に覆われて光を失っていったのだった――