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黒姫と龍 ~出会い~③

◇◇

 全員が席に着くと、後は当主の長尾景虎の登場を待つばかりとなった。


 そして彼は高梨政頼を伴って部屋に入ってきた。



 場をジロリと一瞥する景虎。



 ぴくりと眉が動いたような気がしたが、席次のことには一切触れずに、どかりと自分の席に座った。


 辰丸はその様子を一番離れたところから、じっくりと観察していた。

 そしてこう思ったのである。



ーーお屋形様は何か思うところを隠してらっしゃる……



 と。


 しかし景虎は何も言わないのだ。

 いや、言えないのだ。



 父の代から苦労して繋いできた府中長尾家と家臣たち、そして上田長尾家との関係を壊したくないのだから……



 景虎は全員がいることを確認すると、大きな声で号令をかけた。



「皆の者、大儀である! では、はじめよ! 」



 こうして宴は盛大に幕を上げたのだったーー



………

……

 宴が始まってしまえば、それまでの不穏な空気は一変し、勇猛な男たちに相応しい豪快な酒宴が続いた。


 しかしそれでも、『上田派揚北衆』と『景虎派揚北衆』は会話どころか視線を合わそうともしないし、『新参衆』と『譜代衆』はどこかぎこちない。


 何よりも景虎の周囲に集まる人と、時宗の周囲に集まる人とで、真っ二つに割れているのだから、やはり自然な光景とは言い難い。



 辰丸は誰に話しかけることも、誰から話しかけられることもなく、人々の様子を見ながら、出てくる料理に舌鼓をうっていったのだった。



 ……と、そんな時だった。



 人々の間からちらりと見えた景虎と目が合うと、彼は辰丸を手招きしているではないか。


 辰丸は戸惑いを覚えたが、無碍にするわけにもいかない。

 彼は恐る恐る景虎の方へ向かっていった。



 すると人々の好奇の目が辰丸に集まる。



 辰丸はそれだけで胸を痛め、早くどこかへ行ってしまいたい気持ちでいっぱいだった。



 そして景虎の側までやってきたその時……



ーーガシッ!



 なんと酒に酔った景虎が彼の肩に腕をかけてきたのである。



「皆の者! ここにいるのが辰丸である! こたびの戦の策は全てこやつから授かったもの! つまり今こうして美味い酒が飲めているのは、こやつのおかげなのだ! みな辰丸に感謝いたせ! あははっ! 」



 景虎は豪快に笑いながら大声をあげる。


 すると長尾時宗や彼の周囲にいる者たちまで、辰丸の方へと視線を向けた。


 しかしその視線は決して好意的と言えるものではなかったのである。



ーーまたお屋形様の依怙贔屓えこひいきが始まったぞ。


ーーおなごみたいな野郎にそんな大それたこと出来るわけなかろう。



 そんな陰口があえて辰丸の耳に届くように囁かれている。



 辰丸はますます小さくなってしまった。



 しかし景虎は辰丸の心情に気づくこともなく、隣に座っている高梨政頼に声をかけた。



「叔父上からも礼をおっしゃってくだされ! 今叔父上がここにおられるのも、こやつのおかげなのですから」



 この時、辰丸は覚悟した。


 

ーーきっと嫌々礼を言ってくるに違いない……



 そんな事をされても、自分も嫌な思いをするだけだ。



 辰丸はそんな風に考えながら、心の中で震えていたのである。



 しかし、辰丸の考えは見事に外れた……



ーーガッ!



 うつむく辰丸の手が突然、力強く握られたかと思うと、彼の耳元で熱を帯びた声が聞こえてきたのである。



「辰丸殿! こたびの件、本当にありがとう! 感謝してもしきれん! 

しかしせめて一言礼が言いたく、景虎殿に無理を言って、辰丸殿をこの場に呼んでもらったのだ! 

居心地が悪かったであろうが、どうか許しておくれ! 」



 辰丸はサッと顔を上げた。


 すると真剣な表情で礼を言う高梨政頼の顔が飛び込んできたのである。

 政頼は続けた。



「実は戦が始まる前から宇佐美駿河守殿から全てを聞いておってな!

まさに駿河守殿の言った通りに進んだのだから、たいしたものだ!

お主こそ張良、諸葛孔明の再来に違いあるまい! 」



 辰丸は政頼の瞳をじっと見つめる。



 そこからは嘘偽りは感じられなかった。



 真実の感謝……



 辰丸は思わず口を開いた。



「こちらこそ、ありがとうございます! 」



 と……



 思いがけない辰丸の大きな声に政頼は目を丸くしたが、それもつかの間、すぐに嬉しそう目を細めて、辰丸に笑いかけた。



 辰丸もつられて笑顔になる。



 たったこれだけのことで、辰丸はここに来てよかったと思えたのが、自分でも不思議でならなかった。



 しばらく経つと、政頼が何か思い出したように背後の襖の方へと振り返ると、大きな声をかけたのである。



「おいっ! お黒や! こっちへ来なさい! 」



 辰丸は「お黒」という名前を聞いただけで、どきりと胸がうずいた。



 なぜなら一人の人を思い浮かべたからだ。



 すると本当に現れたのである。



 可憐な姫君……



 黒姫が。



「お黒や、お家の恩人に酒を一献つぎなさい」



「はい、お父上」



 黒姫は小さくうなずくと、辰丸のすぐ側までやってきた。



 高鳴る鼓動はまるで祭りの太鼓のように激しい音を立てている。


 ふわりと彼女の全身から漂う香りだけで、辰丸は夢の中にいるような感じがした。


 隣にいる未来の黒姫の夫、長尾時宗から刺すような視線も感じてはいたが、それよりも今は彼女のことだけに神経を集めていたかった。



「盃をお取りくだされ」



 ふと可愛らしい声が辰丸にかけられる。

 辰丸はその声にハッとした。

 

 

「も、申し訳ございません」



 あまりの緊張にしどろもどろになっていると、黒姫はクスリと思わず笑みを漏らした。

 口元を抑えながら見せる笑顔に、辰丸の顔はますます熱を帯びた。

 

 そして震える手で盃を取ると、そっと彼女の前に差しだしたのである。

 

 

 トクトクとゆっくりと注がれる酒。

 

 

 その間、辰丸は黒姫と心が一つになったような不思議な幸福感に包まれていた。

 

 

 それはほんの一瞬のうちであることなど分かっている。

 

 自分とは身分がかけ離れた別世界の姫なのも分かっている。


 

 それでもこの時が永遠に続いてはくれないものか。

 

 

 そんな透き通った欲望は、彼の胸を苦しめていた。

 

 

 

「どうぞ、お召し上がりくださいませ」




 それは夢の世界から現実へと引き戻される無情な合図。

 

 

 辰丸はある種の虚無感すら感じながら、なみなみと酒が注がれた小さな盃を口元へと運んだのだった。

 

 

――ゴクッ……



 酒を一気に飲み干す辰丸。

 

 しかし……

 

 彼はこの時が初めてだったのである。

 

 

 

 酒を飲むことが――

 

 

 

――バタリッ!!




 次の瞬間には辰丸は意識を失ってい、大の字になって床に倒れてしまったのだった……

 

 



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