黒姫と龍 〜出会い〜①
弘治3年(1557年)7月11日――
この日、高梨政頼は、飯山城から中野城へ本拠地を戻す為の引越しが完了した。
また荒廃していた旭山城と善光寺の修繕も完了したのだった。
残すは焼け落ちた長沼城を建て直すだけなのだが、それにはさらに時間が必要なようで、引き続き辺りを治める高梨家より人足が出されて普請にあたることになっている。
これにて川中島北部の地盤固めはほぼ完了した。
ついては長尾軍は近日中にいよいよ川中島から越後に戻ることになったのだ。
今日は戦勝の祝いと、長尾軍の送別の宴が中野城で盛大に催されることになっているのだった。
そんな日の中野城の二の丸ーー
そこには特に政務を言いつけられていない長尾家家中の武将たちが詰めているところだ。
もっとも重臣たちはみな本丸にいるため、ここにはいわば中級と下級武士の待機場所だったのである。
そして辰丸と宇佐美定勝、そして小島弥太郎の三人もまたそのうちの一室に入ったのだった。
「よう、辰丸! お主は今宵の宴に呼ばれたらしいじゃねえか!
この野郎、もうそんなに出世しちまったのかよ!? 」
恨めしそうな口調で宇佐美定勝は辰丸に話しかけた。
辰丸は静かに首を横に振った。
「私はお屋形様の使番の一人にお取り立ていただきましたが、禄は五十貫。定勝殿の百貫に比べれば、まだまだ小身者にございます」
「ふんっ! 世辞はよい! いきなり使番なぞあり得ぬ大出世だ! どうせ俺の禄などすぐに追い抜いていくに違いあるまい! 」
そう愚痴愚痴と言った定勝は腕を組んで辰丸を横目に見た。
なお、『使番』とは戦場における伝令の役目のことだ。
その為、大将のの指示を正しく各将に伝えるだけの弁舌の鋭さが必要である。
また時には敵将へ大将からの書状を渡しにいく役割もこなす。
その為、高い交渉力も必要とされた。
才智に長けた辰丸にはぴたりとはまる役割とも言えるが、総大将の長尾景虎の使番の役目を与えられたというのは、異例中の異例、まさしく大抜擢と言えた。
さて、辰丸は拗ねる定勝に対してどうしていいか分からず、うつむき加減になりながら上目遣いで彼の顔を見ている。
その様子が可笑しくて、定勝は思わず「あははっ! 」と、大笑いした。
「冗談だよ! 冗談! いやあ、実のところ羨ましいことに違いないが、それ以上に嬉しいのだ!
俺の友がお家の出世頭になろうとしているのだから! あははっ! 」
辰丸は思わず目を丸くした。
もちろん揶揄われていたことに対する腹立たしさがない訳ではないが、それ以上に驚愕の方が大きかったのだ。
それは……
「友……でございますか……」
定勝が自分のことを『友』と表現したこと。
辰丸にとって『友』と呼べる存在は、今の今まで持ったことがなかった。
それを人懐っこい笑顔を浮かべる定勝は、さらりと言い放ったのである。
辰丸はどう反応していいものか
そして定勝は辰丸の表情で彼の心情を察したのだろう。
口元に笑み浮かべながら続けた。
「ああ、友だ。俺とお主はこれから切っても切れねえ絆で繋がった友なんだ。嫌か? 」
意地悪そうに定勝が問いかけると、辰丸は慌てて顔を横に振った。
定勝はみるみるうちに満面の笑みに表情を変えていく。
「あははっ! そうか! ならよい! これから俺たちは友だ!
どうだ!? 羨ましいか!? 弥太郎! 」
定勝と辰丸の様子をポカンとしながら見つめていた弥太郎に、定勝は急に話を振った。
すると弥太郎はキュッと顔を引き締めて首を横に振った。
「う、うるさいやいっ! ぜ、全然羨ましくなんかないやいっ! 」
「そうか! ならよかった! 俺ら友同士でこれから馬の様子でも見に行くから、友ではないお主はここで体を休めているがよい!
さっ! わが友、辰丸よ! 共に行こう! 」
そう言った定勝は、辰丸の背中に手を置きながらその場を後にし始める。
二人の背中をじっと睨みつけていた弥太郎。
彼らが曲がり角から姿を消そうとしたその時だった……
「待ってくれよう! おいらも連れていってくれよう!! 」
と、唾を飛ばしながら定勝と辰丸の背中を追いかけていったのである。
「おやおや? お主は『友』ではないからのう……いかがしたものか」
「ひ、一人になるくらいなら『友』でも何でもなってやらあ! これでいいんだろ!! 」
「あははっ! お主も素直じゃないのう! そんな事だからおなごが寄りつかんのだ」
「う、うるせいやい! お、おいらはおなごなんかいらないやいっ!! 」
「そうやって強がるからお主は……」
顔を真っ赤にして定勝に食ってかかる弥太郎。
そして、弥太郎の事を目を細めて見ながら優しい笑みを口元に浮かべる定勝。
辰丸はそんな二人を見ながら、未だ心ここにあらずといった風に茫然としていた。
何せ初めての体験だったのだ。
他人から見返りを求めぬ好意を向けられたこと。
その理由を『友』の一言で全て含んでしまうこと。
どこか新しい世界につながる扉を開いたような気がして、ここから一歩踏み出してしまっていいのか戸惑っていたのである。
そんな彼の肩に定勝の太い腕が巻かれる。
そして背中は弥太郎にグイッと強く推された。
「何をぼさっとしておるのだ!? 早く行くぞ! 」
「そうだよ! 辰丸がちんたら歩いてたらすぐに日が暮れちまうだろ! 」
辰丸は、一歩また一歩と踏み出した。
その顔は……
今まで見せたことのないような喜びが映し出されていたのであった――
………
……
二の丸の外へと出た三人は、馬が飼育されている厩の方へと足を進めていた。
その厩は本丸へと続く大手門を通り過ぎた先にある。
それは彼らが大手門の手前までやって来た時だった。
「辰丸、弥太郎、止まれ。伏せるんだ」
定勝は周囲を見渡すと、二人に向けて低い口調で言った。
その声に弾けるように辰丸と弥太郎は固い地面に伏せたのだった。
辰丸はそっと顔を上げて一体何事なのかと様子をうかがう。
するとその目に飛び込んできたのは……
一つの豪勢な駕籠だった。
ゆっくりと大手門で地面に置かれると、ふわりと垂れが上げられた。
そしてそこから下りてきた人に目を奪われてしまったのである。
美しい着物を着た少女であった。
黒を基調としてた着物には、色とりどりの花や川、そして雲などが桃色や金色の糸など色鮮やかに刺繍されている。
辰丸よりも少しだけ年下だろうか、それでも凛とした気品のある横顔は、彼女の育ちの良さと利発さを物語っていた。
「美しい……」
辰丸は一目見た瞬間に思わず小声で漏らしてしまった。
そもそも彼はこれほどに美しい着物を見たことがない。
村の女性が嫁入りにいく際に多少のおめかしはするものの、こんなにも色鮮やかで華麗な物がこの世にあるものとは……
それだけでも十分に彼の心を魅了するだけの輝きがある。
しかし、それ以上に彼の心を根こそぎ持っていったのは、少女そのものが放つ魅力であった。
透き通るような白い肌に、くりっとした大きな瞳。
わずかな笑みを携えた口は小さく、そして瑞々(みずみず)しい。
まるでこの世に降りてきた天女のようで、とても現実に存在する人とは思えなかったのである。
目を丸くして見つめる辰丸。
しかし少女は辰丸の視線に気づくことなく本丸の中へと姿を消していったのだった。
それでも辰丸はしばらく身動きが取れなかった。
まるで時が止まったかのように、辰丸の心も体も何もかもが活動を止めてしまったのだった。
「やいっ、辰丸。大丈夫か? 」
弥太郎が辰丸の肩をポンと叩いて声をかけた。
するとようやく辰丸は我に返った。
「え、ええ……大丈夫です」
その様子を見た定勝がにんまりとした厭らしい笑顔で辰丸の脇をつつく。
「まさか一目惚れか? 天才辰丸殿も美しいおなごにはかなわぬということか? 」
定勝は冗談混じりで言ったつもりだったが、辰丸は至って真面目な顔で返す。
「ええ……あのように美しい姫君はお見受けしたことがございませんでしたので、つい……」
定勝は辰丸が本気で少女に心を奪われてしまったと感じ、口元を引き締めて言った。
「辰丸。お主には悪いが、あの姫様は駄目だ」
辰丸は目を丸くして定勝の方へ視線を移す。
定勝は声の調子を落として続けた。
「あの姫様の名は黒姫。高梨政頼殿のご息女様さ。そして、黒姫様は……」
ぐっと言葉を溜める定勝。
辰丸はじっと彼のことを見つめながら次の言葉を待っていた。
そして定勝は周囲に聞かれては不味いとでも言わんばかりに、より一層低い声で言ったのだった。
「長尾家内の仲をまとめる為に嫁に出される事になっているのだからな……」
と――