燃える長沼城 尽きぬ願いの詩
弘治3年(1557年)6月26日 塩田城――
城の中は川中島での乱戦を命からがら切り抜けた兵たちで溢れ返っていた。
みなどこかしらに傷を負い、全身に泥を浴びている。
そして城内に残っていた女中やら小姓たちは、彼らの傷の血を拭い、体を洗うことに追われていた。
そんな中にあって一人甲冑姿のまま城を飛び出そうとしている若武者の姿があった。
武田義信であった。
「爺は長沼城にて大軍を相手に戦っているのだ!! ここでのうのうと休んでいる訳にはいかぬ!! 」
顔を真っ赤にしながら城を抜け出そうと試みるが、彼の側近たちが必死になだめる。
無論、今ここで動ける兵たちをかき集めて戦場に戻ったところで、犬死するだけだ。
武田家の大事な嫡子をむざむざと死地に送りこむ訳にはいかない。
城内の誰もが強い使命感を持って、必死に義信のことを引き止めていたのだ。
「くっ……爺……」
がくりと膝をつき、唇を噛み締める義信。
溢れる涙は床に黒いしみをつけていったのだった。
そしてもはや側近たちに抵抗する気力すら削ぎ落とされた後、彼の心に『阿修羅』が巣食ったのである……。
「おのれ……長尾景虎……いつか必ずこの手で……」
それは復讐の戦に燃え上がる鬼であった――
………
……
さながら一遍の詩のような景色を目の前にして、誰かが風のようにうたった。
――城を囲むは、正義に燃える長尾景虎。城にこもるは、希望に燃える飯富虎昌。両雄の猛る炎は、長沼の城を焦がす。
――燃えよ、燃えよと煽る越後の兵。消せよ、消せよと叫ぶ甲斐の兵。両軍の譲れぬ想いは、川中島の天を震わす。
――城は燃える。青い空を、紅く染め。
――城は燃える。静かなる大地に、轟音を響かせ。
長尾軍は、既に攻撃の手を緩めている。
そして炎上する長沼城と中にこもる飯富虎昌と赤備えの兵たちの最期を見届けていたのだった。
一方の飯富虎昌は長沼城の最上階の部屋に入り、そこから眼下に広がる景色を見つめていた。
もう逃げるつもりはない。
既に彼に連れ添った兵たちのほとんどは自ら命を絶ち、残るはたった一人の側近のみだ。
無論、彼の介錯を行うお役目の為だけに、ほんの少しだけ命の灯火を長くした者のことだ。
虎昌は目を細めて遠くを見つめる。
その先にあるのは塩田城――
彼は願った。
――ああ……願わくば、我が弟に大いなる武運があらんことを。願わくば、若殿に明るい未来が輝かんことを。
そして……
――願わくば、我が主君と、我が愛する甲斐に平穏の日々が訪れんことを……。
そう祈って、静かに目を閉じた。
城を燃やす音が近づいてくる。
足の裏は焼けるように熱い。
「そろそろか……」
彼はゆっくりと目を開けた。
自らの命を絶つ為に……。
しかし人は一つの光景だけで、諦めることを辞めてしまうものだ。
彼の目に飛び込んできたのである。
傷を隠す為に、全身を白い布で覆った、弟、飯富源四郎の姿が――
「あにうぇぇぇぇぇぇぇ!! 」
どんなに大声で叫んだとしても、川を挟んだ向こう岸からの声が聞こえるはずもない。
しかしその声は、確かに届いていたのである。
兄の耳に、胸に!
「源四郎ぉぉぉぉぉぉ!! 」
枯れた声は天にかき消される。
それでもよい。それでよいのだ。
なぜならどんなに離れていようとも、兄弟の声は届くのだから――
しかし、次の瞬間に彼は大きく目を見開いたのである。
絶対にあり得ぬ光景に!
生きる欲望をかき立てる光景に!
それは……。
「南無諏訪南宮法性上下大明神」の文字が書かれた旗。
すなわち『諏訪法性の御旗』。
主君、武田晴信だけが掲げる軍旗だ。
「とのぉぉぉぉぉぉぉぉ!! 」
泣き叫ぶ飯富虎昌。
犀川に広がる無数の兵たち。
その中央には、武田晴信が甲州の山のようにどっしりと構えていた。
虎昌が心待ちにした晴信の姿がすぐそこにあるのだ。
「申し訳ございませぬ…… まことに申し訳ございませぬ……」
理由は全く分からないが、虎昌は晴信の御旗を拝みながら、必死に謝っていた。
しかし、彼にはもう時間が残されていなかった。
いよいよ部屋に火の手があがる。
最期に何か伝えるべきことはないかと、彼は必死に頭を巡らせた。
その時、彼が最期の最期に伝えるべきことが、一つだけ頭をよぎったのである。
ーーバッ!!
彼は窓から大きく身を乗り出すと、一点を指差した。
ーー見ろ! 見ろ! 見ろ! この方角を!
その指先をたどった先は旭山城ーー
――あそこにいるぞ……化け物が……!
次の瞬間だった……
ーードンッ……
鈍い音とともに、飯富虎昌は膝から崩れ落ちた。
彼の背後から側近が短刀を深々と突き刺したのである。
そして轟音とともに、長沼城もまた崩れていったのだったーー
『甲山の猛虎』飯富虎昌。
ここに死す。
享年五十三。
戦に生き、戦に散った、修羅のような人生であった。
………
……
飯富虎昌が壮絶な死を遂げた後――
城は焼け落ちてもまだくすぶり続けている。
長尾軍の兵たちは周囲の畑に飛び火せぬように注意を払いながらも、犀川の対岸に現れた武田晴信の軍勢に相対した。
そして長尾軍の総大将である長尾景虎はゆっくりと馬を川岸まで進めてきた。
「宿敵か……」
景虎は一点を睨みつけた。
すると対岸にのそりのそりと武田晴信が姿を現したのである。
「よう、長尾景虎。派手にやってくれたのう」
晴信は口元に不敵な笑みを浮かべながら、景虎を見つめた。
そしてしばらくの間、両者の睨み合いが続く。
馬のいななく音さえも許されぬ静寂が川中島の空気を重くする。
そんな静寂を破ったのは晴信であった。
「長尾景虎、一つ頼みを聞いてもらえんかね? 」
馬上から睨みつけたまま、景虎は低い声で答えた。
「なんだ? 」
まるで相手を一飲みしてしまいそうなくらいの圧力をかける景虎。
しかし晴信はまるで意に介することもなく、飄々と続けた。
「俺の忠臣の骨を拾ってやりたいんだが、長沼の城をちょいと貸してはくれんかね? 」
晴信がそう言い終えると、再び両者の沈黙の睨み合いが続いた。
そして景虎はくるりと背を向けた。
「好きにしろ、どうせ今は使い物にならん城だ」
と言い残しその場を後にした。
そして、すぐに兵をまとめて、飯山城へと戻っていったのだった。
こうして激戦となった上野原の戦いは、長尾軍の完勝に終わった。
彼らは、中野城、日向城、旭山城、長沼城、善光寺を手中に収めた。
すなわち川中島北部を完全に掌握したのだったーー
………
……
長沼城が焼け落ちてからしばらくした後ーー
「やっぱり行っちまうのか? 」
旭山城の麓で、寂しそうな宇佐美定勝の声が響いた。
辰丸は静かに微笑むと、小さくうなずいた。
「こたびの戦の策は全てお主より授けられたもの。お主ならきっとお屋形様にも高禄で取り立てていただけると思うんだがな……」
「私の夢はもう叶いましたゆえ。これ以上を望むのは贅沢というものです」
「そうか……意志は固いんだな? 」
辰丸は定勝の問いには答えずに彼に背を向けると静かに立ち去っていった。
元の生活に戻る為にーー
しかし……
去りゆく辰丸の姿をじっと見つめる三人の男の姿があったのを、辰丸も定勝も全く気づかなかった。
「まさか……あの年端もいかぬ少年だと言うのか……? 」
「しかしそうとしか考えられぬ……もう一人は宇佐美定勝。うだつの上がらぬ凡将と聞くからのう」
「あやつが……あやつがぁぁ! 」
「ややっ! 待て! 源四郎! 今はならぬ! 」
端正な顔立ちの青年が必死に止める。
すると一人老けた男が言った。
「しかしまだこれだけでは分からぬ。それにあの少年は景虎の元へは行かぬようではないか。
まずは素性を調べ上げた後、殿にご意見を仰ごう」
彼の言葉にコクリとうなずく青年。
なおも納得のいかぬ様子の男を引きずるようにして、三人で去っていったのだった。
無論、この三人とは、飯富源四郎、武田信繁そして山本勘助。
三人は武田晴信が入った塩田城へと足を進めていった。
……と、その時だった。
山本勘助は、ふと背中に刺すような視線を感じた。
一体誰が……と不審に思い、足を止めてくるりと振り返る。
すると辰丸が静かに見つめていたのである……。
勘助は目を丸くしたが、声を出さずに視線を返す。
若き天才と老練なる鬼才――
後に壮絶な智謀戦を繰り広げる二人。
視線を交わすのはこれが最初で最後となることなど、二人は知るはずもない。
互いに口元を少し緩めた後、二人の距離は寂然と離れていったのだった――
これで第三次川中島の戦いは終了となります。
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