勇往邁進! 上野原の戦い⑩
「な、なんだと……!? 」
川中島を東へと進軍していく武田義信と飯富虎昌。
その行く手を阻むように長尾軍の軍勢が立ちはだかっているのだ。
『希望』へとたどり着くために全身全霊をかけてきただけに、目の前に現れた敵軍がもたらすものは『絶望』以外なにものでもない。
虎昌はちらりと背後に視線を向ける。
そこには必死に景虎軍を食い止める弟の勇姿が目に飛び込んできた。
早くも前線の兵たちは名将、宇佐美定満の猛攻によって儚い命を落としていっている。
――玉砕か、撤退の強行か……
もう迷っている暇などなかった。
……と、その時だった。
――飯富源四郎様、負傷!!
という残された唯一の光とも言える、弟の危機が伝えられたのだ。
虎昌は思わず叫んでいた。
「源四郎をここへ連れて参れ! 」
「はっ! 」
するとすぐに兵たちに抱えられて源四郎の姿が目に入ってきた。
全身が血にまみれ、顔には無数の傷を負っている。
兜の前立ては大きく歪み、兜も歪んでいる。
恐らく長槍の一撃が脳を激しく揺らしたのだろう。
源四郎は完全に気を失っていた。
虎昌は急いで彼の口元に耳を当てる。
「息はしているな……」
ほっとした胸をなでおろすと、彼は再び戦場へと目を向けた。
南と東は川。
北と西からは敵の大軍。
窮地に追いやられた味方の軍勢は、その数を次から次へと減らしていっている。
傷ついた弟。
そして、我が子のように愛情を注いだ若殿。
彼は視線を動かしていった。
時間がゆっくりと進む――
ふと旭山城に目がいった。
相変わらず風にたなびく『懸かり乱れの龍旗』。
すると彼の目は大きく見開かれた。
そこでようやく一つの疑問が浮かんできたのである……
あそこにいるのは、誰だ……!?
その瞬間だった。
「もう、もう抑えきれません!! 虎昌殿!! ご指示を!! 」
と、兵からの切羽詰まった声に、虎昌は我に返ったのである。
そして虎昌は決断した。
「犀川を渡り、南下を強行する!! 」
「爺!! しかし敵の追撃は避けられんぞ!! 」
武田義信が必死に叫ぶ。
すると虎昌は大声で次の指示をした。
「殿は、このわし、飯富虎昌が務める!! 若殿と源四郎を先に逃がせ!! 」
「馬鹿な!! 総大将である虎昌が殿などありえん! ここは俺が……」
「ええい! お黙りあれ!! 戦場では総大将の命が絶対!! 口答えは許さん!! さあ、早く行くのだ!」
しかし武田義信は引かない。
彼の前に背中を向けて仁王立ちしている虎昌に対して、なおも食い下がろうとした。
しかしそんな彼の両脇を武田兵たちが、がっちりと掴むとそのまま引きずるようにして、犀川の渡しへと進軍を開始したのである。
「待て! 離せ!! 爺!! 駄目だ!! お主だけを残す訳にはいかん!! 爺ぃぃぃ!! 」
流れる涙で頬を濡らしながら、懸命に叫ぶ義信。
しかし虎昌の大岩の如き意志は揺るがない。
それでも流れる涙だけは、止められなかった。
目の前がかすむ。
激戦が進む中にあって彼の脳裏に浮かんでいたのは、甲斐で過ごした在りし日の光景。
小さな手をいっぱいに伸ばして抱きついてくる若殿の愛くるしい笑顔。
そして、目の前で一生懸命、剣の稽古に励む弟の横顔。
ああ……
なんと幸せだったのだろう。
『甲山の猛虎』と恐れられ、戦場の中こそ自分の生きる場であると信じ込んできた。
しかし死の間際になって初めて気付かされたのだ。
自分が本当に望んでいたものは何か……
という原点を――
――生きたい……!!
ほとばしる欲望は、みるみるうちに胸の中を支配していくと、それは両手足を動かす活力となった。
自然と腹にも力がこもる。
彼は天を切り裂くような咆哮を上げた。
「天下に名を轟かせし、赤備えの勇者どもよ!! これより戦を始める!! 」
空気がびりびりと震える。
さしもの長尾軍もこの激烈な声には攻める手が緩んだ。
そして虎昌は天に向かって祈るような気持ちで雄たけびを上げたのだった――
「生きる為の戦を!! 」
――オオオオオオッ!!
みな体のどこかしらに傷を負い、立っているのもやっとなはずだ。
しかし彼らの気力は……
生き抜く希望の炎は……
決して消えてなどいなかった――
「目標は長沼城!! 全軍!! 進めぇぇぇぇ!! 」
既に背中の武田義信と飯富源四郎は半分以上渡河を終えている。
こうなれば運悪く流れ矢でも当たらない限りは、手を出すことは出来ないだろう。
ならば進め!!
前進あるのみ!!
命の炎を燃やし尽くせ!!
虎昌と赤備えの勇士たちは絶対防御の陣である『方陣』を組みながら突撃を開始した。
『方陣』の最大の弱点は機動力だ。
しかし数多の戦場で生死を共にしてきた虎昌隊は『方陣』であるにも関わらず、突破の速度は落ちなかった。
むしろ燃え盛る炎のごとく、勢いは増していく一方であった。
群がる宇佐美定満隊の中に、一本の線を描いていく虎昌隊。
長沼城へ!
長沼城にたどりつけば、城が生き伸びる術を与えてくれるに違いない!
虎昌は、その一心であった。
あまりの彼らの勢いのためだろうか……
宇佐美定満隊は思わず道を開けていった。
「よおおおし!! もうすぐだ!! 気を抜くなぁぁ!! 」
虎昌は気迫を前面に押し出して兵たちを鼓舞する。
そしてついに彼らは長沼城へとたどり着いたのだった――
しかし川中島の西の果て……
旭山城で戦場の様子をじっと見ていた辰丸はにんまりと笑った――
「全てうまくいきました。これで長沼城を攻め落とす大義名分が出来たというものです」
そう……
これも全て彼の手の内のこと。
すなわち飯富虎昌が長沼城に向かって決死の強行軍を行うことすらも、彼の思惑通りだったのだ。
「これで……王手です」
辰丸は小さな声で宣言すると、目を細めながら戦場を見つめていたのだった――