誘い
「何者だ……? 」
一陣の風とともに長尾景虎の目の前に姿を現した辰丸。
双方とも予想だにしなかった事態に目を丸くした。
まるで時が止まったかのような二人だけの空間。
二人とも息もする間もなく互いの目を見ていた。
生まれた時も所も違えば、これまで歩んできた人生にわずかな交わりなどある訳もない。
しかしなぜか遠い昔から知っているような不思議な感覚。
懐かしい……
景虎の辰丸に対する第一印象はそれだった。
何か言葉をかけるべきなのは分かっている。
しかし景虎の言葉は喉より先には届かなかった。
…と、その時だった。
景虎の前に一人の少年が飛び出してきたのである。
そして彼は手にした槍を辰丸に突きつけた。
「おのれ! 武田の残党か!! この小島弥太郎が成敗してくれよう!! 」
さながら鬼のような形相で凄む弥太郎。
それは辰丸が一歩でも動けば、一突きのもと息の根を止めてくれんという気迫がこもっている。
しかし辰丸は慌てることもなく、その場で立ち上がった。
そして自分は丸腰であることを示すように両腕を上げたのであった。
景虎は弥太郎に対して静かに声をかけた。
「やめよ、弥太郎。この村の民だ。恐らく逃げ遅れてここに隠れていたに違いない」
「むむ…… お屋形様がそうおっしゃるなら仕方あるまい…… やいっ! 命拾いしたな! 早くここを立ち去るがよい! 」
弥太郎は槍を下ろしてもなお辰丸に突っかかった。
しかし辰丸はそんな弥太郎のことなど見向きもせずに、なおも景虎のことだけを見つめている。
そしてゆっくりと首を横に振ると、驚くべきことを口にしたのである。
「逃げ遅れたのではありません。ここで戦を見ていたのです」
景虎の目が驚きのあまりに大きくなる。
すると弥太郎は眉をしかめて辰丸に詰め寄った。
「ここで戦を見ていただとぉ!? ふざけたことを言うのも大概にしやがれ! 」
「ふざけたこと……? 」
辰丸は弥太郎の言葉に対して不思議そうに首をかしげる。
弥太郎は辰丸の態度が自分を馬鹿にしていると思い、顔を真っ赤にして彼の胸ぐらを掴んだ。
「てめえ! やっぱり俺の目に狂いはなかった!! こんな戦場のど真ん中で戦を見ていたなんて言い分が通ると思っているのか!? お屋形様! こやつは敵の残党に違いありませぬ!! 」
しかし景虎はこの時点で辰丸の醸し出す不思議な雰囲気に興味を持ち出していた。
もし彼の言うことが真実であるとしたら……
なんと言う大胆不敵な行動であろうか。
しかし同時にいくつかの疑問が浮かぶ。
彼は弥太郎に「やめよ、弥太郎。後ろへ下がれ」とたしなめると、辰丸に向けて問いかけた。
「なぜここで戦が起こると分かった? 」
辰丸はそれまでと変わらぬ穏やかな口調で答えた。
「川中島の中でもここら一帯が最も麦と米が取れる地。なればこの地を死守せんと長尾景虎様の軍勢が戦うはずと思っておりました」
それはまさに景虎の考えと寸分違うことのないもの。
確かに盟友の高梨氏の救援の為に飯山城へと急がねばならない。それでも危険をおかしてまでこの地で武田軍と戦ったのは、この地を是が非でも手にしておきたかったからだ。もちろんそれは辰丸の言う通りで、この地の麦の収穫を確保しておきたかったのである。
なお川中島を舞台に武田晴信と長尾景虎は幾多の激戦を繰り広げてきたのは、列記とした理由がある。
それは川中島一帯で収穫出来る米や麦の量が莫大であるからだ。
その収穫量は、なんと広大な越後国一国をも凌ぐ。
元より土地が痩せている武田家の甲斐国、長尾家の越後国の両国。隣国の北条や今川といった強敵たちと兵力の上で渡り歩くには、なんとしても川中島は手中に収めておきたい地であったのだ。
これまでにこの地を舞台にした激しい攻防は今回を含めてもう三回目になる。
辰丸は幼いながらもその三回の戦を目の当たりにしてきて、今いる場所が再び戦いの場所となることを導き出したのであった。
もちろんその事は世のことをよく知る者であれば、思いつかない訳ではない。しかし今景虎の目の前にいるのは、年端もいかない少年なのだ。そのことに景虎は驚きを禁じえなかった。
しかし驚くのはまだ早かった。
景虎は引き続き、疑問をぶつけた。
「しかしお主……なぜお主の座っていた麦畑のすぐ側で戦いが起こると知っていたのか? 」
この辺りの平原は広い。
しかし辰丸は自分の目の前で戦が起こることを予想して隠れるように座っていた。
それが景虎には不思議でならなかったのだ。
しかしその問いに対しても辰丸は迷うことなく答えた。
「長尾景虎様が勝つ為にはここしかありませんので」
「な……なんと……」
これには流石の景虎と言えども、言葉にならないほどに驚愕した。
「やいっ! さっきから大人しく聞いておれば、お屋形様が敵に勝てるとしたら、ここしかないだとぉ? 無礼にも程があるというものだ! やはりここで成敗…」
「控えよ!! 弥太郎!! 」
とうとう景虎は雷を弥太郎に落とした。
今は辰丸という摩訶不思議な少年の言葉だけに耳を傾けたい。
その一心だったのである。
そして辰丸は表情一つ変えずに、相変わらず穏やかな口調で答えたのだった。
「背後に犀川が流れ、左右に一面の麦畑。さながら細い道のように縦長の広場。ここなら大軍に囲まれることなく寡兵でも戦うことが可能でございます」
その答えに雷を落とされたばかりの弥太郎が突っかかってきた。
「やいっ! もし敵が麦畑に入ってきたらたちまち囲まれちまうじゃねえか! 戦のことも知らねえ農民が知った口聞くんじゃねえやい! 」
辰丸は弥太郎のことなど見向きもせず、じっと景虎を見つめている。
それはまるで景虎に勝負を挑んでいるかのような強い気迫が感じられた。
景虎もまるで睨みつけるように、辰丸の瞳から目を離さない。
緊迫した睨み合いが続く。
側にいた弥太郎は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。
――只者ではない……
弥太郎はこの時にようやく辰丸という少年の凄味に肝を冷やしていた。
なぜならこの頃から『越後の虎』とあだ名される程の傑物、長尾景虎に対して、真っ向勝負を挑むように静かに睨みつけているのだ。越後広しと言えども、そのような命知らずを彼は会ったことはなかったからである。
そうしてしばらく続いた睨み合いに終止符を打ったのは、なんと景虎の方だった。
彼は「はぁ……」と、大きくため息をつくと漏らすように問いかけたのである。
「麦はたわわに実っている。己の戦功欲しさに『金』とも言える麦を踏みにじったとあれば、例え敵将の首を持って帰ろうとも、その命は危ういであろう。すなわち麦畑は戦場と成りえない……と、いうことだな? 」
辰丸はその返事を声には出さなかった。
その代わりに口元を緩めて小さく首を縦に振った。
景虎は目を細める。
その表情はどこか晴れやかなものであった。
まるで河原に転がる無数の小石の中にあって、輝く宝石を見つけたかのような喜びが景虎の胸を熱くしていたのである。
彼はその表情を辰丸に気取られまいとして、くるりと振りかえった。
そして彼の号令を待って待機している兵たちに向けて声を張ったのだった。
「行けっ! 目標は飯山城!」
――オオッ!!
景虎の空気を震わせるような号令に、弾けるようにして一斉に兵たちが動き始める。
馬にまたがっている景虎は兵たちに視線を向けたまま、辰丸に話しかけた。
「知っての通り我が名は長尾弾正小弼景虎。お主の名は? 」
「辰丸……」
「そうか…… 辰丸よ、われと共に来い」
それは異例とも言える引き抜き。
その衝撃的な景虎の行動に、未だにその場に立っていた弥太郎は思わず口を共に大きく開いてしまった。
素性も分からぬ農民の少年を由緒正しき越後国の守護代が、自らの手で取り立てることなど、長尾家内では類を見ないほどの事だったのである。
もちろん引き抜かれた方はこれ以上ないほどの名誉なことと言えよう。
まさしく『大出世』と豪語しても過言ではないはずだ。
しかし……
辰丸は先ほどと全く変わらぬ口調でこう答えたのである。
「折角のお誘いなれど、お断りいたします」
と――