勇往邁進! 上野原の戦い⑨
「爺ぃぃぃぃ!! 死ぬなぁぁぁぁ!! 」
絶望の淵に立たされていた虎昌の耳の奥に響く奇跡の声。
それは若き英雄、武田義信の呼びかける声だった。
「うおおおおおっ!! 」
その声とともに虎昌の全身に力が蘇る。
「突破をするぞ! 全軍、若殿の元へ進めぇぇ! 」
虎昌はわずかに残された赤備えの精鋭たちをまとめ上げると、声が聞こえてきた方へと一点突破を試みた。
するとそこには弟、飯富源四郎を伴った武田義信の姿が見えてきたのである。
「若殿ぉぉぉぉ!! 」
思わず歓喜の叫び声を響かせる虎昌。
「爺! 無事か!? 」
なんと義信は虎昌のことを心配して声をかけてきたではないか。
虎昌にとってはそれだけで十分に勇気を得た。
「若殿! 爺は大丈夫ですぞ! よくぞご無事で! 」
「源四郎が救ってくれたのだ! 爺からもよく褒めてやってくれ! 」
「おお! 源四郎! よくぞ! よくぞやってくれた!! お主は飯富家の誇りじゃ! 」
久しぶりに自分へと向けられる兄の笑顔。
源四郎は胸のうちにくすぐったいものを覚えたが、のんびりとそれに浸っている場合ではなかった。
「とにかく今は引きましょう! 西、北、南の退路は塞がれております! かくなる上は東よりありませぬ! 」
「長沼城か!? 」
「いえ、あの城は守るに悪い城。東から機を見て犀川を渡り、塩田城の方へと抜けるより他ありませぬ!! 」
「よしっ! そうと決まればとにかく突破じゃ!! 」
「残された者たちで陣形を組み直します! 若殿と兄上は先に行きなされ!! 」
「馬鹿者!! 弟を置いていけるか!! 」
兄弟の早口な会話は、足を進めながら続く。
そして弟の源四郎は、兄虎昌の肩に手を当てて言った。
「たまにはそれがしの事を信じてくだされ」
と……
兄は弟の目を見つめる。
「虎兄さま!」と慕ってくれていた幼き弟の姿が今でも瞼の裏に焼き付いている。
そんな弟が今、殿を務めて、兄である自分を守るというのだ。
しかも相手は『軍神』長尾景虎だ。
思わず目頭が熱くなる。
しかし虎昌はぐっと涙をこらえると、弟に対して大きくうなずいた。
そして源四郎に背を向けると大きな声で号令をかけたのである。
「よおし!! 全軍、東へ進めぇぇ!! 若殿をお守りするのだ!! 」
――オオッ!!
残されたわずかな兵たちが短く返事をする。
そして赤備えの精鋭たちは、武田義信と飯富虎昌を守るようにして前進を始めたのだった。
虎昌も一歩、二歩と足を踏み出す。
そして背中の弟に向けて言ったのだった……。
「ありがとう……死ぬなよ、わが弟よ」
と――
源四郎はこんな状況でもこれまでにない喜びを覚えていた。
誰かに頼られる事が、こんなにも嬉しくて、なおかつ力に変えられることだなんて思いもよらなかったのだ。
「われこそは…『甲山の猛虎』が弟!! 飯富源四郎なり!! 命の惜しくない奴からかかってこい!! 」
この時、『甲山の鬼神』飯富源四郎昌景が誕生した――
まさに鬼の形相の彼は仁王立ちして長尾景虎と柿崎景家の大軍を迎え討った。
………
……
上野原で激戦が繰り広げられている中、すぐ西の山の山頂……すなわち旭山城はひっそりと静まり返っていた。
そして川中島の様子が眼下に一望出来る場所に、男が二人立っていた。
それは辰丸と宇佐美定勝である。
ふと周囲を見渡せば彼らの他にも数十人の兵たちが各々好きな場所で繰り広げられている戦を見物していた。
彼らはみな足軽大将、宇佐美定勝の率いる兵たちであった。
定勝は「ふぅ」と一息大きくため息をつくと、辰丸に向かって言った。
「どうやら上手くいったみたいだな」
辰丸はそれには答えることなく静かに微笑んでいる。
定勝は彼の横顔を見つめながら、
――つくづく恐ろしい男よ……
と、心底感嘆していた。
辰丸の用いた策は『混水摸魚』の計。
すなわち偽兵と景虎の軍勢の突撃により敵を混乱に陥らせて、敵の総大将を直接叩きのめすというもの。
その為に前日の闇夜にまぎれて、長尾景虎の手勢と宇佐美定勝の小隊は、川中島南西に位置する茶臼山に入った。
景虎の軍はそこで待機。
定勝隊と辰丸はそのまま夜を徹して犀川対岸を尾根に沿うように進み、武田軍に気付かれることなく旭山城へと入った。
懸かり乱れの龍旗を持って……。
あとは朝になって霧が晴れると同時に、足を踏み鳴らしながら龍旗を高々と掲げて、さも長尾景虎が山頂から突撃してくるように見せかけたのだ。
ーー猛虎の正面に兵を置かず、両脇腹を突けばよい……
その言葉の通りに辰丸は見事に仕立てあげたというのだ。
自らの手は一切汚さずに――
散り散りになって東へと潰走していく武田軍。
その様子を見ながら定勝は静かに漏らした。
「これで終わったな……いかに飯富源四郎と言えども、お屋形様と和泉守殿の猛攻にはそう長くは耐えられまい」
見れば飯富源四郎と思われる軍勢も徐々に東へ東へと押し出されていく。
そして武田軍の先頭を切って東へと逃げていく武田義信と飯富虎昌と思われる軍は、千曲川と犀川が交差する手前までたどり着こうとしていた。
恐らくこのまま犀川を渡り、南下した先にある塩田城へと逃げ伸びていくつもりなのだろう。
全ては終わった。
完璧な勝利。
定勝はあらためて辰丸の鬼謀に驚嘆するとともに、どこかほっと一安心していた。
……が、しかし……
なんと辰丸は定勝の言葉を否定するように小さく首を横に振ったのである。
そして微笑みを絶やさずに言ったのだ。
「まだ終わりではありません。川中島の平和を保つには……」
定勝は思わず戦場から目を離して、辰丸の横顔に視線を移した。
その瞬間、大きく目を見開いてしまったのである。
辰丸の瞳は、獲物を仕留める寸前の獅子のごとくますます鋭さを増していたのだ。
「二度と立ち上がれなくなるほどに叩きつぶす。それしかありませんゆえ……」
……と、その時だった。
――ワァァァッ!!
と、大喊声が川中島の空に響き渡ったのだ。
それは飯山城前に布陣しているはずの『長尾景虎の本隊』……
今は『宇佐美定満』が率いる軍勢。
千曲川沿い進軍してきた彼の軍勢が、瀕死の武田義信と飯富虎昌に襲いかかったのだった――