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【幕間】憂鬱な英雄

少し気分を害されたら申し訳ございません。


◇◇

弘治3年(1557年)6月22日 夕刻ーー



 甲斐国の守護、武田晴信はとある大きな部屋で難しい顔をして腕を組んでいた。


 がっしりとした体格で、血色の良い精悍な顔立ち。

 ギロリと光る瞳は見る者を圧倒するほどだ。

 それは彼が後世に英雄の一人と称えられるに十分な雰囲気をまとっていた。

 

 この時、三十七歳。

 気力も体力も、人生の中で最も充実しているはずだ。



 しかし、今の彼の顔はまるで病床に伏せているかのように真っ青であった。



「うーむ……」



 短く唸り声を上げると、眉間に皺を寄せる。


 どうやら何か頭を悩ませているものがあるようだ。


 彼は目を瞑り、両足を強く踏ん張っていたのだった。



………

……

「兄上……太郎殿はどこにおられるのだ? 」



 甲斐国、躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)の城主の間の前。


 そこに現れたのは眉目秀麗な男。

 しかし彼はその端正な顔に困惑の色を浮かべて、太郎なる人を探していたのだった。



 ……と、そこに片足を引きずった老人が目を丸くして近づいてきた。



「おや、典厩殿も殿をお探しですかな? 」


「うむ、そうなのだ。では、勘助も? 」



 勘助と呼ばれた老臣もまた困り顔で大きくうなずく。



「困ったのう……」



 そうして二人とも腕を組んで考え込んでしまったのだった。



 この二人が探しているのは、無論この城の当主、武田晴信だ。


 そして晴信の事を「兄上」と呼んだ容姿端麗な男は、武田信繁。

 歴とした武田晴信の二歳下の弟だ。

 官位が「左馬助」であり、唐名が「典厩」のため、人々からはそう呼ばれている。

 容姿に負けぬ武勇と知略を兼ねそろえた名将。

 彼のことを英雄視する将たちも多く、後の天下の智将真田昌幸もその内の一人だ。

 彼などは息子に彼と同じ「信繁」と名付けたほどだ。


 もう一人の老臣は、山本勘助。

 この時六十七歳。

 武田の五名臣にも数えられる人物だ。

 彼の功績は多岐に渡るが、特に彼の優れた築城技術と神算鬼謀のごとき戦術には右に出る者などいなかった。


 いわば武田家の屋台骨を支える二人にも関わらず、二人して当主の行方が分からないという。




 しばらく顔を見合わせていた二人であったが、信繁の方がボソリとつぶやくように問いかけた。


 

「もしや……『山』に籠られておられるのでは……? 」



「うむ……しかしもう半刻(およそ一時間)は姿を現しておられないのですぞ。『山』におられているにしては、ちと長すぎるような……」



「いや、太郎殿ならあり得ぬ話ではない」



「では、うかがってみるとしますか」



「まったく……太郎殿にも困ったものだ」



 信繁はそうつぶやくと、勘助とともに館の中庭の方へと急いだのだった。



………

……

 しばらく広い中庭を進んでいく信繁と勘助の二人。


 すると、ぷーんと香の匂いが漂ってきた。



「やはり……『山』であったか……」


「どうやらそのようですな」



 二人は香りの出どころまで急ぐ。


 そしてとある建物の前までやってくると、扉の前に立つ武士に勘助が問いかけたのだった。



「殿はおられるか? 」


「はっ! 中におられます! 」


「そうか、ではここはよい。しばらく下がっておれ」


「はっ! かしこまりました! 」



 若い武士は勘助に命じられるがままに、館の方へと駆け足で向かっていく。

 心なしかその足取りが軽かったように見受けられるのは、ここの警備の役目をあまり好まぬ証だろう。


 もっとも仮に自分がそれを命じられたなら……


 そう考えただけで勘助はゾッとした。



 こうして建物の前には勘助と信繁の二人だけになったのだが、彼らは中には入ろうとはせず、外から大きな声で中にいる晴信へと声をかけたのだった。



「兄上! 『山』にばかりこもられていないで、御自分の部屋に戻られよ! みなが心配しておる! 」



 すると中から低い声が聞こえてきた。



「その声は次郎か。人が『山』にいる時くらい、静かにしてもらえんかね? 」



 しかし晴信の問いに答えることもなく、今度は勘助が話し始めた。



「殿! かような場所に長居している場合ではありませんぞ! とうとう長尾景虎が動いたと、透波すっぱより報せが入りましたゆえ! 」



ーーガタリッ!!



 建物の中から何やら大きな音がした。



ーーいよいよ『山』から出てくるか……



 信繁は音がしたことで、胸を撫で下ろした。



 しかし晴信は出てこなかった……

 

 そして先ほどと変わらぬ低い声で問いかけたのだった。


 だがそれは明らかに冷静を必死に装ったものであることは、声が少しだけ震えていることからも明らかであった。



「そ、それはまことか……? な、何人の透波からの報せだ」


「三人でございます」


「さ、さ、三人……! であるか。なるほど……」



 思わず声の調子が変わったが、それも束の間すぐに元の低い声に戻る。


 顔は建物の中と外のために確認出来ないが、恐らく真っ青に違いない。


 しかし武田晴信という男は、極度な心配性にも関わらず例え家族であっても他人に弱い所を見せぬ人なのだ。


 今こうして『山』にこもって出てこないのも、他人に動揺しているところを見せたくないからであろうことは、容易に想像がついた。


 

ーーまったく……ここまで強情が過ぎると困りものだ……



 信繁は深いため息をついた。


 しかし信繁の頭を悩ませる晴信の性分は、これだけではなかったのである。


 それはこの後の勘助とのやり取りで見てとれるものだった。


「景虎の軍勢の総勢は? 」


「およそ一万にございます」


「景虎の動きはつかめておるのか? 」


「いえ、しかしその布陣からして中野城の奪還であることは明白かと」


「中野城の守りは? 」


「残念ながら脆弱。あそこは元より守るには厳しい城なれば……」


「ならば中野城を破られた後の抑えは? 」


「兵部殿が一万の軍勢をもってあたります」


「それでは足りん! 景虎の軍は恐ろしき軍よ!

義信(晴信の嫡子)の千を急行させよ! さらに後詰めに源五郎にお主を加えて三千で向かえ! 」


「御意にございます」


「北条と今川への配慮は怠っていないであろうな? 」


「はい、いつも通りに贈り物をもって……」


「それでは足りん! 景虎との一戦は全力を注がねば勝てぬ!

いつもの倍の贈り物をせよ! 万が一、奴らに背中を衝かれたらどうするのだ!?

上様への働きかけはどうなっておる? 」


「はっ! 信濃の守護への任命を条件に、長尾景虎との休戦の令状を取り付けるよう、交渉しております」


「遅い! 早く景虎を信濃から追い出すのだ!

かくなる上は『守護補佐』でよい! 早くまとめるのだ! 

越中は? 一向衆への働きかけはどうなっておる? 」


「はっ! 現在、一揆を起こして長尾景虎の注意を引くように……」

「遅い! 遅い! 遅い! とにかく今すぐに一揆を起こせるように、足りぬものがあればすぐに揃えよ!

景虎の軍を越中に一日でも早く向かわせるのだ! 」


「殿……少し落ち着かれて……」


「お、お、落ち着いているに決まっておろう!

しかし、相手はかの景虎なのだぞ! 景虎なのだぞ! 」



 かなり動揺していることは、勘助の言葉を遮り、同じ事を二回繰り返していることからも明らかだ。



 そう……


 見ての通り、武田晴信の困った性分というのは……



 相手を過大評価し、石橋をガツンと叩き割る程に叩きながら渡る程に、慎重になり過ぎるするきらいがあるのだった。



 しかしこの性分は、生まれつきからではない。



 これも信濃侵攻にあたり、「上田原の戦い」と「砥石城の戦い」の二度の大敗が強く影響していた。


 特に「砥石崩れ」と評される大敗北、すなわち北信濃の国衆の一人、村上義清との戦いに敗れた「砥石城の戦い」は、死傷者一千以上、晴信自身も大きな傷を負う、惨憺たる敗北であった。


 これ以降、晴信の性格は大きく変わった。


 今までは甲斐、信濃の平定については、大事に培ってきた圧倒的な軍事力、彼自身の智勇、なにより若さに任せた勢いによって、なりふり構わず力攻めをしてきたが、今では何事にも慎重に事を運ぶようになったのである。


 現在の北信濃における侵攻も、その大半は調略によるもので、実際に武田軍が城を攻め落したものは多くはない。



 なるべく戦わない。


 なぜなら戦わなければ負けることはないから。


 戦わずして勝つことが最善の策だ。


 だから軽々しく大将が動くものではない。



 動かざること山の如しーー



 などと格好をつけて若い家臣たちに豪語しているが、何のことはない。



 単に怖いのだ。



 しかしその怖さこそが、今の武田家の地位を築いてきたと言っても過言ではないだろう。


 そう信繁は感じていた。


 いつの間にか話は兵糧のことやら、兵たちの武器のことやらと細かい事に移っており、その全てに晴信は勘助に何やら指示を出している。


 一通り命じられた勘助は「では、それがしは先に行っております」と、足早に去って行った。



 その場に残された信繁。


 しかし晴信はまだ『山』から出てこない。


 信繁はそろそろ頃合いと見て言った。



「太郎殿。そろそろ我らも動くぞ。万が一、景虎が川中島を抜けてきた時の事を考えて、信濃で迎え撃つ。

共に信濃深志城に移ろう」


「うーむ……次郎がそう言うなら仕方あるまいのう……しかしまだ成すべきことが残っておるのじゃ……」



 どこか沈んだ声が響いてくる。

 普段は温厚な信繁であっても、この晴信の態度には苛つきを覚えた。


「ここまで細部に渡って指示をしておきながら、まだ何か足りないというのか!?

敵は長尾景虎! 神速の越後の虎なのだぞ! 

もたもたしている場合ではなかろう! 」


「次郎! 俺も分かっておるのだ! 分かっているのだが、こればかりはどうにも……ちょっと待て! 来た! 来たぞ!! 」


「なんだ!? 何が来たのだ!? 太郎!?」



 何やら晴信の様子がおかしい。


 信繁は顔を青くして扉の側まで駆け寄った。



 ……と、その時だった。



「ふんっ!! 」



 と、晴信の大きな掛け声が響いたかと思うと、



ーーチリリン!



 中から涼やかな鈴の音が聞こえてきたのだ。



 すると信繁は、一気に顔を紫に変えた。


 

「しまった!! 『今』であったか!! 」



 信繁はそう叫ぶと同時に鼻をつまんだ。



 しかし……



 彼は直後に頭をくらませる程の『臭い』の衝撃に、目を回したのであった。


 

 どこか晴れやかな顔で『山』と彼が名付けた『かわや』から出てきた晴信。


 なおも顔を真っ赤にしながら臭いに耐える信繁の背中をバシッと叩いて、大きな声で笑ったのだった。



「わははっ! 次郎は大げさな男じゃ!

出すもの出しておかんと、戦の最中に漏らしたら、それこそお笑い者ではないか!

もっともそんな将がいるならこの目で見てみたいものだがのう! わははっ!

さあ、もたもたしている場合ではないぞ!

打つべき手は全て打った!

出すべきものも出した!

あとは動くだけよ!! 」




 こうして長尾景虎の宿敵、武田晴信もまた信濃に向かって動き出したのだった。



 何事も天性の直感とあくなき情熱で動く長尾景虎。


 そして、熟慮に熟慮を重ねて動き、恐れを知る強さを持つ武田晴信。


 

 正反対の好敵手同士の運命もまた、歴史の表舞台に立つはずもなかった一人の少年の登場によって、大きく変化していくのだが……



 それはまだ先の話ーー







山本勘助については、市河家文書にのっとり、実在したものとして描いております。



また『山』ですが、『甲州山』と信玄公は呼んでいたそうです。


その広さは京畳6畳分あったとか。

この『山』の中で政務を行なっていたこともあるそうです。


家臣たちが水を流すための合図が、鈴の音だったとか……



さて、次回は川中島合戦へと話を戻します。

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