竜攘虎搏⑪ 目に見えない化け物
◇◇
幼い頃、冬の森を一人でさまよったことがある。
張り詰めた空気に、踏みつけた枝が折れる高い音が響く。
山から吹き下ろす冷たい風が、木々を揺らし、枯れ葉が宙を舞う。
動物たちはなりをひそめ、生きているのは自分一人だけなのではないかと、錯覚に陥る。
孤独が支配する空間で、目に見えない化け物に飲みこまれるのではないか、と不安にかられる――。
小仏峠はとうに越えたはず。
しかしどこまでも続く山道を進みながら、宇佐美定龍は、遠い記憶と今を重ねていた。
周囲には多くの兵がいる。
友もいる。家臣もいる。
だから孤独ではない。
だが、目に見えない化け物がすぐそこまで迫っているような、理屈とはかけ離れた不安に、胸が押しつぶされそうになっていた。
「定龍様。津久井衆より内藤左近と申す者が殿にお会いしたいとのことでございます」
ふいに声をかけられ、ようやく我に返った定龍は声の主に目をやった。
中条景資だ。
ともに戦に出るのは初めてで、彼の甲冑姿を見るのも初めてだ。
普段は見た目からして温厚な彼だが、こうして戦場に立つと、ひと際凛々しく映る。
定龍は一つ息を吐いてから、努めてゆったりとした口調で答えた。
「ではここらでひと休みいたしましょう。兵たちにも楽にするように伝えてください。それから内藤殿をこちらへ」
「はっ」
津久井衆とは、小仏峠を越えたあたり……すなわち相模湖周辺を根城に持つ土豪たちの集まりだ。
ここら一帯は、南へ行けば小田原で、西に行けば甲斐という交通の要衝。つまり古くから北条と武田の争いが絶えない地域だったという。武田、北条、今川の三国同盟がなされた後も、津久井衆をまとめていた内藤氏は北条家から優遇されていた。このことから、定龍はこの辺りの情勢は、同盟とは関係なしに、常に不安定であったと推測し、前もって内藤左近と連絡を取り合っていたのである。
すなわち甲斐侵攻にあたり味方をしてくれれば、この先の上野原を津久井衆へ分け与えると約束していたのだった。
「よくこられましたな」
いかにもひと癖ありそうな、嫌らしい笑みを浮かべる内藤左近に対し、定龍は人形のような透き通った見栄で返した。
「先の勝利を思えば、たいしたことはございません」
熊のような面構えの内藤左近がぎろりと目を光らす。だが定龍はすまし顔を崩さない。
枯れ葉が茶色の絨毯のように地面に敷き詰められた場所で、左近と定龍の静かな腹の探り合いが、しばらく続いた。
「北条氏康殿からは『上杉がきたら、騙して武田に売れ』と言われておる」
「では私たちを売りますかな?」
「ふっ……。売るつもりなら正直に話すわけがなかろう」
「そう言って安心させる策かもしれません」
「そこまで頭が回る顔に見えるか?」
ニヤリと口角を上げた左近に合わせるように、定龍は目を細めて微笑んだ。
「はははっ。気に入ったぜ。よかろう。では津久井衆はお主に味方をする」
「ありがたい。では早速うかがいますが、いかにして上野原を叩きましょうか」
定龍は近習から地図を取り寄せ、地面に広げる。
それを指さしながら左近が作戦を説明した。
「このまま西へ道なりに進めば、上野原城の真正面に出る。北と西を鶴川に囲まれた堅城だ。
もし真正面に出れば、待ち構えていた兵たちから奇襲を受けるに違いねえ。
俺たちも何度も痛い目にあってるからな」
「なるほど。ではいかがするのです?」
「相模湖を通り過ぎたら、進路を南へ変え、桂川を渡る。そうして川沿いに進んでいき、上野原城の南側に出て一気に叩く」
「わかりました」
「すでにあんたのところの先発隊がその道順で進んでいるはずだ」
大井田景能のことだ。
定龍はここにいない彼の顔を胸に浮かべながら、小さくうなずいた。
「よし、じゃあ、暗くなる前に先を行くぞ。桂川沿いに『名倉の権現さま』という神社がある。その近くに陣を張って今宵の宿とするといい」
再び無言の進軍がはじまった。
ここまではすべて予定通り。
上野原での抵抗も計算のうちだ。
だがなぜだろうか……。
目に見えない化け物はますます大きく、強くなっている気がしてならない。
小雪がちらりちらりと舞い落ちてきたのも、何かの前兆なのか。
そんな風に思いながら、定龍は灰色の空を見上げた。
「お勝……」
妻の名が口をついて出てきた。
冷たくなった頬にかすかな赤みが帯びてくるのを感じた。
初めての家族、初めての温もり。今までの人生になかったものを与えてくれた妻という存在。
一抹の不安さえも、春のひだまりに変えてしまう彼女の笑顔に、定龍は心から感謝した。
「進むしかない」
そう自分に言い聞かせて前を向く。
景能がつけていった赤い布が前方に見える。
彼もまた定龍を励ましてくれる存在であった。
しかしそれは『名倉の権現さま』……すなわち石楯尾神社の近くで陣を張った直後のことだった――。
「さ、定龍殿!」
幕の内に中条景資が転がり込んできた。
「どうしました?」
「こ、これを!」
景資が差し出してきた白い包み。一抱えほどの大きさの桶が透けて見える。
さっと嫌な予感に目の前がぐらりと歪んだ。
「これは誰から?」
「神社の境内に置かれていたようです。この紙きれとともに」
景資が無造作に折られた紙を定龍に手渡した。
「宇佐美定龍殿へ。山本勘助より……」
ドクンと胸が高鳴り、慌てて包みを開く。
薄茶色の桶には蓋がしてある。
その蓋を恐る恐る開けたとたん……。
「ぐっ……!」
「ひぃぃ!!」
定龍は思わず顔をそむけ、景資は三歩も後ずさった。
それも無理はない。
なぜならその桶の中にあったのは……。
大井田景能の生首だったのだから……。
だがそれだけではない。
首が腐らぬように周囲に敷き詰められていたのは……。
「塩……。馬鹿な……」
そう。
武田軍に絶対的に不足している『塩』だったのだ。
わざわざ敵の首を塩漬けにするほど、余裕があるはずもない。
となれば、これは『伝言』だ。
「われらに塩はじゅうぶんある――」
定龍の顔がみるみるうちに険しくなっていった。
「定龍殿……?」
不思議そうに目を丸くした景資に対し、定龍は雷のような大声を張り上げた。
「今すぐ撤退!! 兵たちに支度をさせよ!!」
その次の瞬間。
「敵襲ぅぅぅぅぅ!!!」
「武田だぁぁぁぁあ!!!」
兵たちの叫び声とともに、「わあああっ!!」という喚声が周囲から一斉にあがったのだった。