竜攘虎搏⑩ 松嶽城にて
◇◇
評定を終えた後、定龍は予定通りに松嶽城へ手勢を率いて向かった。
その道中、やはり脳裏を離れなかったのは、長尾景国の振る舞いだ。
彼は『塩』の存在を知らない。となれば彼がおさえているのは、信玄が兵を集め、居館を発って南下した、という事実だけのはず。この状況だけで、彼は『信玄は駿河を攻めない』と断言した。
いったいなぜだ……?
それにもし彼の言ったことが現実になったならば……。
「いや、ありえません」
定龍はボソッとつぶやいて、自分を落ち着かせようとした。
既にすべて動き出しているのだ。今さら止めることはできない。
今にも小雪がちらつきそうな、灰色の空を見上げながら、定龍は作戦の成功を祈ることしかできぬ自分が、もどかしくて仕方なかったのだった。
江戸を出て2日後。
定龍率いる別動隊が松嶽城へ入った。
明日は兵の英気を養い、明後日の夜明け前には城を出ることになっている。
大手門をくぐると、真っ先に彼を迎え入れたのは、先発隊として先に到着していた大井田景能だった。
「お待ちしておりました! 定龍殿!」
「おお、景能殿。ご苦労様です」
景能の明るい表情が目に映ったとたんに、旅の疲れがふっと消え去っていく。
馬を降りた定龍は、景能と並んで歩きながら、本丸に向かった。
「案下峠の方へ忍びを走らせましたが、特に気になる点はなかったとのこと」
景能がはきはきした声で報告するのを、定龍は黙って耳を傾けていた。
「幸いなことに、まだ雪はなく、進軍を阻むものは何一つありませぬ」
「そうですか」
「では、それがしは明日の夜明け前に足軽300を連れて出立いたします。途中に赤い布で目印をつけていきますので、定龍殿はそれを目印に本隊を率いてくだされ」
「かたじけない」
景能は気持ちのいい笑顔を見せると、すぐに持ち場へと帰っていこうと踵を返した。
定龍は彼の背中に向かって声をかけた。
「今宵、少しだけ酒を酌み交わしませんか?」
振り返った景能は一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに嬉しそうな笑みを浮かべて
「はっ! かしこまりました!」
と爽やかな返事を残し、足早にその場を後にしたのだった。
◇◇
全ての戦支度を終えた景能は、定龍の宿所を訪れた。
「お待ちしておりましたよ」
月のよく見える軒下で定龍はにこりと微笑み、自分の横に景能を座らせた。
「伊豆の地酒が美味しいと聞きましてね」
徳利を持ち上げながら目を細めた定龍に対し、景能は盃を手にして彼の前に差し出す。
「江川酒ですね」
まだ若い景能がさらりと銘柄を当てたので、定龍は思わず声を高くした。
「よくご存じで」
「はは。実は父が大の酒好きでしてね」
「ほう。氏景殿が?」
大井田氏景は寡黙で真面目な将と、定龍は何度か耳にしたことがあった。
実際に会ったことはないが、酒におぼれるような質には思えなかったので、酒好きとは意外だ。
「ええ。旨い酒があると聞けば、酒屋の主人に無理を言ってでも取り寄せさせてましてね。
でも、そのくせ、酒にめっぽう弱いんですよ。だから毎晩、ほんの少しずつたしなむんです。
それがしが酒を飲めるようになってからは、毎晩のように付き合わされ、これはどこのどういう銘柄だ、とうんちくばかりでうるさくて」
言っていることは愚痴っぽいが、とても愛おしそうに話す。
父子が楽しそうに晩酌をしている様子が、頭に浮かび、定龍の頬も自然と緩んだ。
「ご存じかもしれませんが、私には妹がおりましてね。名を菫というんですが、彼女も父に負けず劣らず、酒が好きなのです。
だから徳利を父とそれがしへ運ぶ際に、盃を1枚、懐に隠して持ってきて、しれっと酒の席に加わるのです。
二十を少し超えたばかりなのですが、嫁の貰い手がないのは、そのせいだろう、と母は嘆いております。
ははは! しかし当の本人は『嫁になどいきとうない!』と強がってましてな。なんでも武家の嫁に出れば、好きな酒が一滴も飲めなくなるやも知れぬから、と申しておりました!」
「そうですか……」
定龍の言葉がほんの少しだけ濁ったのは、先日の評定で長尾景国が公言した内容が引っかかっていたからだ。
ちらりと定龍の顔を覗き込んだ景能は、視線を盃に落としながら続けた。
「……既に聞いております。景国様が菫を嫁にもらう、とおっしゃっていたようですね」
「ええ。その様子ですと、あまり面白くはなさそうですね」
「景国様は……。これまでも何度か『菫を嫁に』と迫ってきていたのです。しかし酒癖が悪く、おなごによく手をあげる、と聞いておりましてね」
「なんと……」
「そんな御方に大切な妹を嫁にいかせるわけには行きませぬ!」
景能は強い口調でそう言い放つと、ぐいっと酒をあおった。
そして難しい顔つきの定龍を見て、ばつが悪そうに苦笑いを浮かべたのだった。
「申し訳ございません。せっかくの酒が不味くなってしまいました」
「いえ……。しかし、安心してください。この戦で負けることはございません。すなわち景国殿の思惑通りに事が進むのはありえませんので」
「ええ。それがしもそう信じております。それに景国様と定龍殿の『賭け』のことを聞いて、益々負けられぬと気合いが入った次第でございます!」
景能の目が爛々と輝いている。
定龍はすっと心が軽くなると同時に、あらためて闘志がわいてくるのを感じていた。
◇◇
永禄六年十二月十九日、未明。まだ空が黒一色の中にあって、松嶽城の本丸にはおびただしい数の兵が集まった。その数、およそ5,000。彼らの前に立った定龍は、天を貫く声をあげた。
「いざ、出陣!!」
「おおおおおっ!!」
男たちの雄たけびとともに軍勢は西へと進み始めた。
宇佐美定龍による甲斐侵攻はこうして幕を上げたのだった――。