竜攘虎搏⑧ 正直者の証
◇◇
永禄六年十二月十五日。
信玄が挙兵したとの急報より五日たったが、未だ彼が居城を出て駿河に向かったという報せは定龍の耳には届いていない。その間に上杉の三軍と主だった将は江戸城に入り、着々と戦支度を進めている。
定龍は本丸の一室で指揮にあたっていた。
「定龍殿! 軍馬100の調達を無事に終えましたぞ!」
突き抜けるような覇気ある声をあげたのは、新たに与力に加わった大井田景能だ。
「うむ。ご苦労様です」
ニコリと定龍が微笑むと、景能は頬をわずかに赤くして胸を叩いた。
「いやいや、何のこれしき! ささ、次の仕事を与えてくだされ!」
聞けば景能はまだ二十三だという。快活でよく働く青年だ。
「やいっ。その100の馬の中にじゃじゃ馬を紛れ込ませたんじゃねえだろうなぁ!? 戦の最中に言うことを聞かなくして、敵に隙を作ろうって魂胆と見受けられる! 俺はだまされねえぞ!」
弥太郎がぐいっと顔を突き出して景能に詰め寄った。
憎まれ口の原因は、嫉妬であることは分かっている。
ここ数日、弥太郎に振れるような仕事がなく、彼は暇を持て余していたのだ。
「これ、弥太郎殿。おやめなされ」
定龍が穏やかな口調でなだめると、弥太郎はますます顔を赤くした。
「こいつは憎き長尾政景の弟の子分なんだぞ! そう易々と信用しちゃなんねぇ!」
景能の顔がぴくりと引きつる。
定龍はそれを見逃さなかった。だがあえて見なかったふりをして弥太郎をたしなめた。
「今は仲間同士でいがみ合ったり、疑ったりしている場合ではないでしょう。いつ戦が起こってもおかしくないのですから」
「それはそうだけどよぉ……」
納得がいかないのか、弥太郎はぷいっと顔をそらす。そんな彼に対して、定龍は独り言のように言った。
「そう言えば仙吉が嘆いていたな。弥太郎殿のような力持ちがいないと、兵糧を荷駄隊まで運ぶのがなかなかはかどらぬ、と」
弥太郎の口元がプルプルと震えながら緩みだす。
「し、し、仕方ねえなぁ。仙吉は俺がいないとどうしようもねぇんだからよぉ」
そう言うなり弾むような足取りで部屋を後にしていった。
彼の背中を見送った定龍はそばで待機していた景能に向き合った。
「景国殿と何かあったのでしょうか?」
「えっ?」
景能が目を丸くする。定龍は穏やかな表情のまま、それでもじっと景能を見つめる視線は鋭い。
景能はゴクリと唾を飲みこんだ後、はぁとため息をついた。
「あまりお話ししたくないのですが……」
「なら話さなくて結構です」
「え?」
あっさりと定龍が引いたのが意外だったのか、再び景能は目を丸くする。
定龍はさらりと彼が疑問に思ったことの答えを告げた。
「嘘やごまかしを口にするつもりなら、『話したくない』とは言わないでしょう。ゆえに景能殿は正直者とお見受けいたしました。
政景様のこともありましたから、景国殿とそのご家老である景能殿を恐れていたのです。
しかし今、少なくとも景能殿には他意がないことが分かりました。
あらためて、疑いをかけてしまったことを、謝罪いたします」
定龍が小さく頭を下げると、景能は慌てて手を振った。
「い、いえ、そんな……。おやめください!」
「では、許してくれますかな?」
「許すも何も……。私は憧れの軍師殿とこうしてご一緒できるだけで光栄なのですから!」
「そうでしたか。では私ももっと頑張らねばなりませんね」
頭をあげた定龍は景能に微笑みかける。景能もまた透き通った笑みを浮かべていた。
だが同時に定龍の脳裏をよぎったのは景国のことだ。
――景国殿はなぜ景能殿を私の近くに置いたのか……。解せぬ。
しかしそのことに頭を巡らせる前に、忍び装束に身を包んだ雪音が音もなく部屋にやってきたのだった。
「信玄が動きました。南へ軍を進めております」
つい先ほどまで緩んでいた定龍の表情が、一気に引き締まった。
「よし。ついにきましたか」
そして彼は景能の肩にポンと手を置いて告げた。
「信玄の息の根を止めます。そのためには景能殿にも大いに働いてもらわねばなりませぬ」
景能は口を真一文字に結んで大きくうなずいた。
定龍は目を細めて小さく首を縦に振ると、襖の外に向かって大声で命じた。
「全軍、出陣します!!」
ついに武田軍との一大決戦の幕が切って落とされる。山本勘助に正義の鉄槌をくだす時がきた――。
定龍は震えるような興奮に包まれながら、大股で部屋を出ていったのだった。