竜攘虎搏⑦ 獅子身中の虫
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上杉家の副将軍、本庄実乃が非業の死を遂げた後、その地位を与えられたのは、宇佐美定龍であった。
しかし知っての通り、彼は新参の中の新参であり、齢も30を超えていない。いかに宇佐美家の当主とは言え、副将軍の地位を与えられるには実績も年齢も足りぬと考えるのが妥当であろう。
しかも上杉家では、つい数年前までお家騒動を起こしていたくらいなのだ。謙信が関東将軍に任ぜられ、越後一国のみならず、上野、武蔵から相模の一部まで至る広大な領地を得ようとも、すぐさま一枚岩になったと考える方が甘い。
当然、表向きは皆、謙信の裁定に従順であったし、定龍の副将軍就任を祝った。
だが腹の奥ではむかむかとやり切れない思いを抱く者が、少なからず存在していたことは否めない。
心眼を有する定龍は、そのことを正しく理解していた。
だからこそ、近衛前久が松山城へやってきて、謙信に上洛を促した際に、声高に賛成の意を唱えなかった。
お家の不和を生むことは、避けるべきである――。
彼の敏感な危機回避能力がそう察知し、影から謙信上洛の手はずを整えていくことを選択したわけだ。
それでも上杉家中において、いずれの者にも共通していたのは「信玄、憎し」であったのは疑いようがない。
定龍はその沸き立つ感情に乗じようと、考えていた。
すなわち共通の宿敵である武田を討つことで、家中を一つにまとめ、自分の地位を確固たるものにしようと画策していたのである。
「武田討伐については、定龍に全て任せることにした」
永禄六年十二月十日。信玄が戦支度をはじめたとの急報を機に、臨時で開かれた評定の場で、謙信はそう宣言した。
「はっ! ありがたき幸せにございます!」
定龍は謙信から見てすぐ左前の席で頭を下げた。
ゆっくりと顔をあげ、一同を見回す。
真っ先に目があったのは、定龍が重臣に抜擢した、河田長親と中条景資。二人とも顔をわずかに紅潮させて、大きくうなずいている。定龍のことを全面的に支持しているのは言うまでもない。
実に頼もしい味方だ。
定龍は微笑をもって返事とした。
続いて新参衆、甘粕景持と千坂景親。二人は凛々しい顔つきで顎をひいた。彼らはいかなる状況であっても、課せられた職務を忠実にまっとうしてきたことで、今の地位を得られた口だ。定龍の苦しい胸のうちもよくわかっている。彼らも長親らと同じく、余計ないざこざを起こすとは考えにくい。
定龍は口をきゅっと結んで、小さく頭を下げた。
次に揚北衆。本庄繁長が大きく鼻を膨らませて、首を縦に振った。彼は彼がこの場に列せられるようになってからの親友だ。さらに揚北衆のまとめ役でもある。彼の横に並ぶ揚北衆の人々は一様に無表情で諾とも否とも読めない。
定龍は唇をわずかに噛み、眉間に皺を寄せながら、一礼した。
柿崎景家ら古参衆に対しても、祈るような気持ちで頭を下げる。景家たちは礼こそしなかったが、特段文句を言うわけでもなく、定龍から目を離している。
今は大人しく従ってやるが、少しでもへまをすれば、その時は容赦なく蹴落とすぞ、といったところか……。
ひとりでに顔が曇ったところで、真正面から高い笑い声が聞こえてきた。
「ははは! 定龍殿。かように気負うな。お屋形様直々のご指名なのだ。お主ならやれる! わしらも全面的に助けようぞ」
はっとなって声の主に目を移す。
名を長尾景国という。かつて絶大な権勢を誇った長尾政景の弟で、細い目と尖ったあごなどは兄とよく似ている。歳はようやく三十を超えたばかりだが、幼い兄の子を育てているためか、中年を思わせる落ち着いた雰囲気がある。
「ありがたきお言葉でございます」
定龍はそう答えたが、決して安心しなかった。むしろ不安の雲がますます心の奥に広がっていくのを感じていた。
景国の隣には彼の側近である樋口兼豊、大井田景能が続いている。
二人とも今回の評定から上杉家の重臣として席を与えられた者たち。そして景国自身もまた、この日より宿老に格上げされたばかりであった。
彼らの昇進については、政景の妻で、謙信の姉にあたる仙桃院の推薦があったから、とされているが、真偽のほどは定かではない。
だが政景の死によって、実質的に解体された『上田派』を蘇らせようとしている、何らかの働きかけがあるのは、目の前の3人を見れば明らかだ。
もっと言えば、『上田派』は定龍によって失脚させられ、上杉家での居場所を失った経緯がある。つまり定龍の失敗を心の底から渇望していても、何らおかしくはない。
「敵は強大。しかし定龍殿の与力は……」
そこで言葉を切った景国は、中条景資と小島弥太郎に視線を配り、深いため息とともに首を横に振った。
「実に心もとないですな」
「なんだとぉ!?」
顔を真っ赤にした弥太郎が歯をむき出しにして身を乗り出す。
景資が必死に弥太郎の体を抑えたところで、定龍は口元に笑みを浮かべながら言った。
「ご心配いただき、感謝申し上げます。しかし船頭多くして船山に上るとも言いますゆえ。少し寂しいくらいがちょうどよいと考えております。それに、いざ戦ともなれば、皆さまのお力をお借りすることになりますから」
「ははは。あまり一人で抱え込むと、過ちをおかしかねないぞ」
「どういうことでしょう?」
定龍の目が鋭く光る。
景国は何でもないように淡々と答えた。
「いや、他意はない。あえて言えば、武田信玄を甘く見過ぎると痛い目にあいますぞ、ということじゃ」
「ご忠告ありがとうございます。しかし――」
そう言いかけたところで、景国は謙信の方を向いて、高らかに声をあげた。
「今回の戦の間だけ、ここにいる平左衛門(大井田景能のこと)を定龍殿の与力としてはいかがでしょう。智勇兼備の将なれば、大いに役立つこと間違いございませぬ」
定龍の目が自然と見開かれていく。
大井田家と上田長尾家は古くから昵懇の仲であり、同族も同然であったことは、新参の定龍であってもよく知っている。つまり大井田家の次期当主である景能が、定龍を大いに恨んでいることは間違いない。そのような者が側にいれば、いったい何をされるか……。
白い顔を一層白くして首を小刻みに横に振る定龍をよそに、謙信は満足そうに大きくうなずいた。謙信にしてみれば、過去の恨みを忘れて両者が歩み寄ろうとしている、と映ったのだろう。
「景国。よう申した。そなたの言う通りにしよう」
「お、お待ち……」
定龍は慌てて膝を前に進めようとしたが、謙信は息もつかずに立ち上がると、
「では、皆の者。大いに働け!」
それだけ告げて、大股で部屋を後にしていったのだった。