竜攘虎搏⑥ 塩止めの真意
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【永禄六年(一五六三年)十一月 時点 川中島勢力図】
※赤丸:武田方 青丸:上杉方
飯富虎昌が憤死した、長沼城の戦い以降、川中島では小競り合いこそあったものの、大きな戦はなかった。
その理由は明白で、犀川以北を上杉領、以南を武田領とする暗黙の取り決めがなされ、肥沃な大地からもたらされる恵みは両家で分け合う形となっていたからだ。
だからと言って、完全に両者が和解した訳ではない。むしろ日を追うごとに、彼らの間の溝は深いものになっていったと言っても過言ではない。
先の上杉と北条の間で勃発した大戦においても、北条氏康の裏で糸を引いていたのは武田信玄であるという噂はどこからともなく伝わって、上杉方の耳にも届いていた。血の気の多い上杉のつわものどものことだ。顔を真っ赤にして憤怒したのは想像に難くない。
一触即発という危うい状況下にあっても、川中島で決戦がなされなかったのは、両者とも急速に力をつけてきたからだ。
上杉方の勢力拡大については、ここで言及するまでもないだろう。
一方の武田方は、甲斐と信濃を掌握した後、飛騨、東美濃まで触手を伸ばし、今や100万石に届くほどまで領地を広げていた。
つまり双方ともに相手が強大すぎるのをよく知っており、決戦ともなれば、兵の1000や2000の被害ではすまされぬことを正しくわきまえていたのである。
さらに言えば、両者の守りが鉄壁で一寸の隙もなかったことも、大きな戦が起らぬ要因であったのだろう。上杉方は川中島の抑えとして飯山城に、忠義にあつく、知勇兼備の名将、安田顕元を城主にすえた。武田方は海津城を築城し、信玄の懐刀であり、後世に『武田四天王』の一人にも数えらえる、春日虎綱を城主に抜擢していた。
ところが永禄六年十一月。
本格的な冬の到来を前にして、海津城に武田兵が集まりだしたという。
理由は明確――。
むしろこうなるように仕掛けたのは自分だ。
そう強い確信をもって、定龍は謙信の前に姿をあらわした。
いつ初霜が降りてもおかしくない朝に、火鉢の一つも置かず、薄い袴と素足で冷たい床に腰をかけている謙信。ちらりと彼の横に目をやると、徳利と椀がある。
酒か……。寒さを感じない理由はこれだったのか。
定龍は心の内でため息をついた。
謙信が無類の酒好きなのは出会った頃から変わらぬが、近頃は朝晩問わずに飲んでいる。
医者でなくても、酒の飲みすぎは身を滅ぼす、というのは自明の理だ。
ただ、今はそれをただしにきた訳ではない。
定龍は海津城に武田兵が集まり、不穏な動きを見せていることを謙信に告げた。
「うむ。して、いかがする?」
このところ、軍事、政務ともに定龍を頼りにしている謙信は、この時もまた彼に意見を求めた。
「何もせず、放っておくがよろしいと心得ます」
謙信の切れ長の目がわずかに見開かれた。
「ほう。その心を申せ」
「はっ。1か月もすれば、おのずと兵を引くから、でございます」
「なぜそう言い切れる?」
「彼らには『塩』がないからでございます。無駄に兵を動かす余裕はございませぬ」
「なに?」
そこで定龍は今川から武田に送られるはずの塩を買い占めていることを打ち明けた。
「なるほど。しかしなぜ、かようなことをした?」
「信玄に駿河を攻めさせるためでございます」
「つまり武田と今川の縁を切るため、か」
「おっしゃる通りでございます。今川氏真は当家から持ち掛けられた取引を拒むことはできたはずですが、金に目がくらみ、そうしなかった。そのことで、図らずも今川が武田に対し、『塩止め』をする格好になりました。
そして甲斐は人を大事にする、という風潮があるとか」
「ふん。敵の世辞など聞きたくない」
謙信がぐいっと酒をあおる。定龍は彼が椀を置くのを確認してから言葉を並べた。
「塩が切れ、飢えた民を前にして、武田家の重臣たちが今川を許すはずもございませぬ。
春を待たずして駿河侵攻を決めるのは必定かと」
「ではなぜ海津に兵を集めておるのか?」
「上杉の兵をおびき寄せるためでございます。もし越後に兵が集まった状態で冬を迎えれば、駿河を攻められた時、援兵を送ることはかないませぬゆえ」
「北条はいかがする? 北条の後ろ盾があれば、さしもの信玄とてそう易々と手が出せまい」
「北条に他国の助太刀をする余裕がないのは、御屋形様が一番よくご存じのはず」
定龍が口元をわずかに緩めると、謙信もまた上機嫌に微笑を浮かべた。
「もし我らが川中島へ兵を出さぬと分かれば、信玄はいかがすると思うか?」
「ふふ。当家が兵を送らずとも、はじめから武田には二つの道しかございませぬ。
民を見殺しにして、弱き国に成り果てるか。
民を生かす為、駿河を攻め、海を求めるか」
「考えるまでもないな」
「相手の出方が分かっていれば、戦に負けることはございませぬ」
謙信が勢いよく立ち上がる。そして、深々と頭を下げた定龍、景資、弥太郎の3人に対し、張りのある声で命じたのだった。
「お主らに命じる。江戸に兵を集めよ。信玄動けば、即座にその横を突け」
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永禄六年十二月。
三国峠がすっかり雪化粧となった頃。
甲斐の躑躅ヶ崎館に、武田家の重臣たちが一同にかいしていた。
彼らは一様に武装し、野獣のように鋭い目つきで信玄を見つめている。
口を一文字に結んだ信玄は山のようであったが、全員がそろったと見るや、かっと目を見開き、雷鳴のごとき声をあげた。
「御旗楯無も御照覧あれ! いざ、攻めよ!!」
「おおおおおおっ!!」
武田家の重臣たちが、一斉に雄たけびをあげて席をたつ。
真っ先に部屋を飛び出していったのは、信玄の嫡男、武田義信であった。
「いよいよこの時がきた!!」
彼は目をぎらぎらと輝かせながら、馬上の人となると、誰よりも先に戦場へと向かっていったのだった。