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竜攘虎搏⑤ 心に刻まれた光景

◇◇


 宇佐美定龍は、この頃、幼い頃の夢をよく見るようになっていた。

 両親は知らない。育ての親は寺の住職であり、村の大人たち。友達もいた。

 金色に輝く麦畑で、泥んこになりながら駆けるのが好きだった。

 水色の空。白い雲。眩しい笑顔――。

 彼はそれら全てを愛していた。

 それなのに……。


 ――戦だぁ! みんなぁ! 逃げろぉぉ!!


 忌まわしきあの瞬間から、景色は一変した。

 慣れ親しんだ家や畑は焼かれ、優しかった人々は殺されるか、連れ去られるかした。

 しかし彼は動けなかった。足がすくんでしまい、どうしようもなかったのだ。

 目の前で繰り広げられる、殺戮、略奪、放火。この先、生涯を終える時まで、つきまとって離れない光景が、焼き印のように心に深く深く刻まれた。

 音を立てて無垢な心が崩れていくさなかにあって、彼の耳に飛び込んできたのは武田兵の会話だった。


 ――山本勘助殿のご命令だ! このあたりの物はすべて焼き尽くせ!!


 山本勘助……。

 この時、定龍の心に刻まれた名前。

 炎と血の赤で染まる村を見て、彼は心に固く誓ったのだ。


 ――山本勘助……。この恨み……。必ずや晴らしてみせる。


 と……。


◇◇


「定龍殿! 定龍殿はおられるか!?」


 強い焦りを映した高い声が、松山城下にある宇佐美屋敷の廊下に響いた。

 何事かと家中の人々が廊下に出てきて、声の主を確認する。

 水色の服を着た凛々しい青年で、腰に刀を差している。

 彼の名は中条景資なかじょうかげすけ。今年で三十になる上杉家の家臣だ。

 父は『越後の生き字引』と称された中条藤資である。

 北条征伐の後、宿老に抜擢された定龍に新たな与力として加えられたのが景資であり、定龍の片腕となって働いている。

 その姿を見た小島弥太郎が、眉間にしわを寄せて、声をかけた。


「やいっ、景資! そんなに慌ててどうした?」


「弥太郎殿か! 定龍殿に至急報せたいことがあるのだ」


「その様子だと、あまりめでてえことじゃなさそうだな」


 弥太郎が渋い顔をして腕組みをしたところで、廊下の奥から定龍が静かにあらわれた。


「景資殿。いかがなされた?」


「定龍殿! ひ、ひとまずどこか、空いている部屋に!」


 口を真一文字に結んでうなずいた定龍は、景資と弥太郎を引き連れて、自室へと入った。


「して、何があったのでしょう?」


「中野城の義父上から急報が届きましてな」


「高梨政頼殿から、ですか」


「ええ。なんでも飯山城のすぐ南に武田方が城を造ったそうで」


「海津城でしょう。そこまでは存じております」


 景資が目を見開いたのは、まだ世に出回っていないであろう情報を、定龍がさも当たり前のように抑えていたからだ。

 定龍に従っている忍衆の『影縫』は、優秀だと噂では聞いていたが、相当な腕前のようだと、あらためて感服した。だが、今はそのようなことにかまっている場合ではない。

 景資は口早に告げた。


「武田の兵がその海津城に続々と集まっているようです」


「ほう……」


 定龍の雰囲気ががらりと変わり、表情が冷たくなっていく。

 景資はゴクリと唾を飲んだ後、さらに話を進めた。


「飯山城城主、安田顕元は『武田に不穏な動きあり』として、こちらも兵を集め、善光寺をはじめ、川中島の各所に兵を配備した模様でございます」


 定龍は目を細くして、鼻で大きく息をした後、吐き出すように言った。


「なるほど……。そうきましたか」


「そうきた、だとぉ!? やい、辰丸! おめえ、何か仕掛けたのか?」


 噛みつかんばかりに詰め寄ってきた弥太郎のことを、ちらりと一瞥だけくれた定龍は、


「今はかような問答をしている場合ではございません。お勝!!」


 襖の向こう側に大きな声をかけた。


「はいっ!」


 ほぼ時を開けずに、襖が開き、膝をついた勝姫が定龍に頭を下げる。


「すでに出仕の支度はできております」


「うむ。では屋敷のことは任せたよ」


「はい、おまえさま」


 定龍は顔を上げた勝姫に対し、にこりと微笑むと、すぐに表情を引き締めた。


「では、行きましょうか」


 定龍は弥太郎と景資の二人に声をかけて部屋を出る。

 慌てて彼の背についてきた弥太郎は高い声をあげた。


「ちょっと待てよ! いったいどこへ行くってんだ!?」


 定龍は前を向いたまま、彼にしては早めの口調で答えた。


「御屋形様のところです」


「何をしに?」


 定龍はひと呼吸おいた後、はっきりとした断言した。


「戦を止めに、です」


 灰色の雲が空を覆っている。景資と弥太郎の胸の内もまた曇っていた。

 言うまでもなく、川中島での激戦が再び起こるのではないか、と不安に思ったからだ。

 しかし定龍の目には、雲の向こう側にある太陽のように炎が宿っていた。

 それはまるで復讐に燃える鬼のようであった――。

 

 


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