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竜攘虎搏④ 恨めしさと羨ましさは表裏一体

◇◇


 永禄六年(一五六三年)十一月――。

 燃えるような紅葉に山々が真っ赤に染まる甲斐国。躑躅ヶ崎館の一室で、武田信繁と山本勘助の二人が向かい合って座っていた。

 二人とも渋い顔。口をヘの字にすると、兄の信玄に瓜二つの信繁が、ため息混じりに言った。


「しかし本当に勘助殿の予言通りになるとは……。恐れ入りました」


 勘助はかぶりをふって答えた。


「半分は冗談のつもりだったんじゃがのう」


「ほう。どこまでが本気だったのか?」


「上杉が、ぼんくら氏真に手を出すところまでじゃ」


「となると駿府の塩を買い占めて、我が方に塩が送られてこなくなる、というのは冗談のおつもりだったと」


「当たり前じゃ! そんなことをしてみろ。我らは上杉とくみして、武田とは縁を切る、と宣言しているようなものではないか!」


「いかにぼんくらと言えども、そこまでの阿呆ではない。そうふんでおった、と」


 眉間にしわを寄せっぱなしの信繁が同意を求めたが、勘助は首を縦に振らなかった。


「いや、そうではない。ぼんくらでなくとも、3倍の高値で塩を買うと言われれば、後先考えず差し出してしまいたくなるのが本能というものじゃ」


「ふむ。しかし少し考えれば、当家に弓を引くことになってしまうのは分かりそうなものなのだがな。氏真殿の周りには人がいなかったのか……」


 勘助の目がぎろりと光る。


「それじゃよ。裏を返せば、誰も止めようとしなかった」


 信繁の目が見開かれる。


「まさか……。あえて止めなかった、ということか……」


 ようやく勘助は首を縦に振った。そしてすっかり冷めてしまった茶をぐいっと飲み干した。


「武田と縁を切りたがっているのは今川家の当主ではなく、家臣ども……。それが分かっただけでも良しとしようかのう」


 信繁もまた湯呑を口につけて喉を潤す。とたんに頭の中がすっきりしていくのを覚えた。

 もう起ってしまったことは仕方ない。次のことに頭を巡らせよう――。

 智勇兼備の勇将である彼は、そう冷静に思い直したのだった。


「考えるべきは二つ。一つ目は塩をいかに調達するか。冬が来る前にどうにかせねばなりませぬ。

それからもう一つは、今川をどうすべきか。

今回のことを『今川が荷止めをしてきた』と過剰にわめきたてておる者が出てくるのは火を見るよりも明らか。今川への処遇しだいでは、家中は二つに分かれてしまうかもしれぬ」


「心配無用じゃよ」


 勘助があまりにもさらりと言ったので、信繁は何度かまばたきをして言葉を失った。

 そんな彼をちらりと上目で見た勘助は、湯を尺ですくい、さっきまで茶の入っていたお椀に注いで、口を尖らせながらすすった。


「どういう料簡であろうか?」


「簡単なことじゃ。南がだめなら、北がある」


「越中……か」


「越中の一向宗どもを手なずけ、川中島を必死に守り抜いた甲斐があったというものじゃのう。そして塩の出どころが北にあると知った家中の者どもにはこう告げる。『塩の仕入れ先を今年は越中と能登に変えた』とな。理由なんて、とってつけたものでよかろう」


「なるほど……。そうすれば今川の処遇など考える必要はない、ということか」


 信繁はほっと息をつき、安どの色を顔に浮かべた。

 しかし勘助の表情は険しいままだ。

 彼は低い声で続けた。


「ただし今川の家臣どもをこのまま見過ごすわけにはいかぬ」


「勘助殿。わしらは当家の者たちのことだけを考えればよい。他家の者にいくら憎まれようとも関係ありますまい」


「いや、大いにあるぞ! 信繁殿」


 勘助の声が急に大きくなったものだから、信繁の目が再び丸くなった。


「どういうことだ?」


「駿河をいただく時の障害になるではないか」


「なにっ!? 駿河をいただくだと?」


 勘助はニヤリと口角を上げて、あぜんとする信繁を見つめる。


「御屋形様を支える者であれば、常に三歩先を見なくてはなりませぬぞ。わしには駿河はおろか、東海道のいたるところに武田の旗が立てられている未来すら、はっきりと見えておる」


「なんと……」


「よいか、信繁殿。今川の家臣どもが、なぜ当家に恨みを抱いていると思うか?」


「それは義元殿が討たれた先の戦に援軍を出さなかったからであろう」


「うむ。その通りじゃ。つまり武田には織田を討ち、義元殿を救うだけの『力』があるはずだと認めていることの裏返しではないか」


「彼らの恨めしさは、羨ましさと表裏一体……」


「表に見えているのが恨みつらみ、というだけのことじゃ」


「もしそれをひっくり返せば……」


「羨ましさ、憧れが自ずとあらわれよう」


「その時は氏真のもとから引きはがせばいい……。そういうことか。しかしいかにして恨みをひっくり返すのか?」


「人がてのひらを返すのは、決まって自分の立場が危うくなった時であろう」


「すなわち今川の立場が危うくなれば、彼らはてのひらを返してくる……」


 そこまで信繁が言ったところで、勘助は立ち上がった。


「そうと決まれば、すぐに手をうたねばならぬ。上杉は、わしらに塩がないと思い込んでいるはずじゃ。それを逆手に取らねばもったいないというものじゃ」


 彼は壁に立てかけてあった木の杖を取り、廊下に出る。足早に自室へ向かいながら、小姓に「先に行って紙と筆を用意しておけ」と命じた。

 たったと駆けていく小姓の背中を見つめていると、自然と独り言が口をついて出てくる。


「今度はこちらが仕掛ける番じゃ。悪いが駿府は譲らんぞ」


 そうつぶやいた勘助は、燃えたぎる闘志を目に映し、愉快そうに笑ったのだった。


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