竜攘虎搏③ 崖に咲く一輪の花のごとく
お待たせしました。再開します。
◇◇
弘法大師こと空海が、修行のために四国を巡礼したのが四国遍路のはじまりだとされている。
その後、修行僧だけでなく、庶民たちにも広がったが、近頃の戦乱で辺りが物騒となり、めっきりその数は減ったという。
だがいかに世が暗くなろうとも、人々の信仰心は曇らない。
否、世の闇が深まるほど、人々が神仏にすがる想いは強くなるものなのかもしれない。
「ここはお得な場所だのう」
岩窟の暗がりの中、ずらりと並ぶ八十八体の地蔵を前に、前久は汗をふきながら、しみじみと言った。隣に並んだ定龍が小首を傾げる。
「お得というのは?」
「ははは! ここに並ぶ地蔵様は四国八十八ヶ所の御本尊というではないか。わざわざ苦労せずともここにくれば遍路のご利益が得られると聞けば、お得と言わずして何というか」
大きな口を開けて笑う前久に目を細めた定龍は、小さな苦笑いを浮かべる。
「そう簡単にご利益が得られては、ありがたみが減るものです。何事も苦労して手に入れるからこそ、価値があると思うのです」
「そうか!? 俺は何でも楽して手に入れたいがのう! 楽が一番じゃ! ははは!」
「そうですか……。では今から申し上げることは前久様には不向きかもしれません」
「なにぃ?」
遺憾だと言わんばかりの口調だが、口元には欲深い性格をあらわすかのように醜い笑みを浮かべる前久。
一方の定龍は何事もないかのような無表情。
対照的な二人の間に、わずかばかりの沈黙が流れる。
せわしない蝉の声が遠くに聞こえているが、前久の耳は定龍の声だけに向けられていた。
楽が一番と口では言ったが、この男、苦労に苦労を重ねて何かを得るのをこの上ない喜びとする、奇特な性格の持ち主だ。たとえるなら、崖の上に咲く一輪の花を見れば、危険を冒してでも摘みにいきたくて、体がうずいてしまうといったところか。
言うまでもなく、定龍は彼の一風変わった気質を知っていた。
もっと言えば、焦らせば焦らすほど、喉から手が出るほど欲することも分かっていたのである。
だから彼は、すぐに用件を口にしなかった。じゅうぶんな溜めを作ったところで、清流のように言葉を並べた。
「急に領地が広がると必要になるものとは何かご存知でしょうか?」
「人であろう。領地を守るものがおらねば、敵に奪い返されてしまうからのう」
「では人が増えれば必要になるものは?」
「米……か?」
定龍が微笑む。前久の唇がもどかしそうに上下する。
「ええい! もったいつけるでない!! 俺は関白ぞ!!」
ついに伝家の宝刀を抜いた前久に対し、定龍の目は爛々と輝いた。そして彼はわずかに興奮が乗り移った声色で告げた。
「関白殿。先におっしゃっていたこと、決して軽んじているわけではございませぬ」
「先に言ったこと? なんだ?」
「ふふ。まさかお忘れとは言わせませぬぞ。御屋形様にご上洛いただきたいと――」
前久の目がにわかに大きくなる。
彼が口を開く前に、定龍は低く芯の通った声をあげた。
「京の都に将軍家の御旗と、上杉の旗を立てる……。御屋形様の悲願に変わりはございませぬ」
「ならばっ……!」
「しかし今はその時ではございませぬ。それは関白殿も見てお分かりになったでしょう。新しい領地、新しい人、新しい城――あらゆる準備が整っておりません。あと3年……いや5年は必要でしょう」
「5年も……」
前久の顔に明らかな落胆の色が混じる。
しかし定龍はにこやかな表情を崩さなかった。
「ただしその間、冬を越す獣のようにじっと固まっている訳ではございませぬ」
「どういうことだ?」
「道を整え、味方を増やし、邪魔を排する――。後顧の憂いなく、御屋形様には無傷のまま京に兵を入れていただきたく、尽力する次第。関白殿、お手伝いいただけるかな?」
前久の顔に血色が戻る。彼はニタリと口角を上げた。
「俺に得はあるんだろうな?」
「はて……? 天にお仕えする関白の身なれば、天下泰平こそ貴殿が望む得ではなかろうか」
「言うようになったじゃねえか。まあ、いい。俺はとうの昔からお主の主人に己の命運を賭けてるんだ。上杉が成り上がれば、おのずと我が身も際立つであろう。よし、どうするつもりか、聞かせてみろ」
定龍は小さくうなずくと、ひとつ呼吸を整えた。
それからまるで羽が生えたかのように軽やかに舌を回し始めたのだった。
「京へ続く道は3つ。北陸道、東山道(中山道のこと)、東海道。しかしいずれも素通りというわけにはいきますまい。北陸道には武田の息がかかった一向宗徒。東山道には武田。東海道には北条、今川、徳川。さらに道が交わるところには斎藤、織田。
果たして5年のうちに彼らの領地を兵馬が素通りできるほどの名声や名分を得られましょうか。
答えは明白。否、でございます。
ならばいかようにするか。
こちらも明白。
陸を通らねばよい」
「な……なにっ!?」
「つまり上杉は海路をもって上洛する。そのためには港がいる。数万の兵が一斉に船を乗り降りする港が」
「清水……か」
定龍が「ご名答」とばかりに目を細めた。
「やまとの国の救将 廬原臣 健児万余を率いて 海を越えて百済に至らむ――。清水の港にまつわる日本書紀の一節でございます。この故事にならい、我らは清水より救国の軍勢を率いて京を目指したく存じます」
なんと壮大な企みであろうか。
まさか故事にならって英雄を生むことを考えていただなんて。
あらためて宇佐美定龍という男の底知れぬ巨大さを感じた前久は、ゴクリと唾を飲みこむも、飲みこまれてたまるか、という負けん気を発揮して、不敵な笑みで返した。
「へへっ。なら聞かせてくれ。いかにして清水を手に入れるか」
「味方を増やすのです」
「今川か……」
定龍の欲する清水の港は駿府にある。つまり今川氏真の領土だ。
桶狭間で今川義元が斃れたとはいえ、腐っても名家であるには変わりない。
果たしてそう易々と港を明け渡すだろうか。
にわかには信じられない。
……が、宇佐美定龍であればやってくれるのではないか――そんな期待すら感じさせる。
「さらに、邪魔を排する」
「武田、それに北条か」
定龍は意味ありげに口角を上げる。
いったい何を考えているのか。
てんで見当もつかないが、前久はそれ以上の追及をするつもりはなかった。
いや、本音を言えば、すべてを知ってしまいたい。
だが彼も混迷の世を己の身一つで渡り歩いてきた自負がある。
ここから先は自分で答えを暴いてみよう。
そう思いなおしたのだった。
「まあ、いい。んで、俺に何をして欲しい?」
「腹が減っては戦はできませぬ」
「米か?」
「畑が増えたおかげで米の心配はしておりません。ただ……味気が足りませぬ」
その瞬間、前久は雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。
「まさか……。『塩』か!!」
定龍は、我が意を得たり、とばかりに、ぐいっと身を乗り出した。
「治部殿(今川氏真のこと)は、領地を失ってもなお、贅沢な暮らしを変えていないとか。それも名家の誇りと称えましょうか。しかし先立つものがなくては、生活はおろか、人心もままなりませぬ」
「どうするつもりだ?」
前久の問いに、定龍は3本の指を立てた。
「3倍」
「は? どういうことだ?」
「3倍の値を出しましょう、と申しておるのです。ただし……」
前久は首を小刻みに横に振る。
「ただし?」
そう問うたその瞬間。
定龍の顔がみるみるうちに冷たくなっていった。
「全て買い取っていただきたい。一粒残らず。すべて」
「ま、待て! そんなことしたら甲斐へ回るはずのものがなくなって……まさか……お主……」
定龍の口元にこごえるような笑みが浮かんだ。
「邪魔を排する――そう申したでしょう」
「塩止め……。武田に回るはずの塩をすべて止めるつもりなんだな? 甲斐には海がない。今川から塩が止まればどうなるか……」
武田は死ぬ――。
そう言いかけて、前久は言葉をつぐんだ。
死ぬ、というのは言い過ぎかもしれない。
いや、そうではない。
もし塩がなくなれば、果たして厳しい冬を民が乗り越えられるだろうか。
餓死者があふれ、民の不満が当主である信玄に向けられれば、離反する国衆も出てくるかもしれぬ。
真田などは特に怪しい。
もし国衆が一斉に反旗をひるがえしたとしたら……。
やはり『死ぬ』という表現は言い過ぎではなさそうだ。
「ではお願いいたしましたよ。治部殿と商人たちを説き伏せ、交易の道を作ることができるのは、関白様ような高貴なご身分の方でないとできませぬゆえ……」
そう言い残して、定龍は先に去っていった。
その背中を見ながら、前久は心底恐ろしいと感じていた。
だが同時に心が沸き立っているのも分かっていたのである。
「相変わらず面白い男だ」
岩窟を出ると再び灼熱の太陽が照りつける。
だが彼は不快など感じなかった。
むしろ燃え出した火に油を注いでいるように思えてならない。
「やってやるよ。どうなっても知らねえからな」
そう笑いながら、彼は弾むような足取りで饗応の場へ向かっていったのである。
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