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竜攘虎搏② 近衛前久、松山城にて

◇◇


 永禄六年(一五六三年)六月――。

 近衛前久が京から松山へやってきた。

 来訪の名目は「越後布」の仕入れなどの商売に関することだ。

 しかし実態は京の情勢をつぶさに伝えるためであったのは言うまでもない。

 この日、松山城の城主の間に集まったのは、宿老の四人、宇佐美定龍、直江景綱、甘粕景持、柿崎景家と、重臣から二人、河田長親、千坂景親、そして一門衆から上杉景信の七人。それに当主の上杉謙信が加わり、合計八名で前久を迎えた。

 相変わらずの仏頂面を貫く謙信。彼にならって、全員が黙ったままだ。

 重い空気が流れるところに前久が大股でやってきた。

 

「ほほう。これは、これは。関東将軍殿とその重鎮たちが一同に迎え入れとは畏れ多いことですな」


 前久がニヤリと笑いながら席につく。しかし場の空気は張り詰めたまま変わらない。


「なんだ? 固くなりおって。地蔵じゃあるまいし、誰か冗談の一つでも言って、旅の疲れを癒してやろうとは思わんのかね?」


 前久があきれた声をあげるも、誰もうんともすんとも言わなかった。

 その様子に前久はあきらめたように、大きなため息をついた。


「まったく……。相変わらず、くそ真面目なところは変わらんのう……。まあ、そんなところが上様のご信任を得ているところなのだろうが……。では、聞かせてしんぜよう! 京の様子を!」


 前久の言葉に謙信の目がかすかに開く。

 同時に家臣たちの身もわずかに前のめりになった。

 突き刺すような視線の中心にいる前久であったが、まったく臆することなく言い放ったのだった。

 

「三好長慶の力が弱まっておる!」


 謙信の目が大きく見開かれた。

 それも無理はない。

 わずか数年前。謙信が上洛した頃は、三好長慶は権勢を欲しいままにし、この世の春を謳歌していた。

 その長慶にかげりが見られるというのだから……。

 前久はニヤリと口角を上げると、今度は流れるような口調で言った。

 

「弟の十河一存(そごうかずまさ)が不審な死を遂げた後、明らかに長慶の勢いは衰えておる」


 十河一存とは『鬼十河(おにそごう)』と呼ばれたほどの猛将で、長慶の弟だ。

 三好軍の進撃は彼が支えていたと言っても過言ではない。

 その一存がこの世を去ったことで、もはや長慶は翼をもがれた鷹のようなものだと前久は言う。

 そこで宇佐美定龍が口を挟んだ。

 

「つまり三好の旗を京から駆逐するのは今が好機……。ということでしょうか?」


 前久はその問いには答えることなく、笑みを浮かべたまま続けた。

 

「なお上様は三好を完全に滅ぼすために次なる手を打っておる」


「次なる手……」


「さよう。今までは六角、畠山、細川とかつての有力者たちの兵をたのみにしておった。しかしそれでは京の町が戦禍に巻き込まれるだけと知った。そこで三好を内側から壊すことにした、というわけだ」


 定龍の細い眉がぴくりと動いた。

 前久は視線を謙信から彼に移す。

 定龍がまるで独り言のように小さな声で問いかけた。

 

「すなわち離間(りかん)の計、ですか?」


 今度は前久が大きくうなずいた。

 

「ご名答! 三好長慶の側近にして、大和国の信貴山城(しんぎざんじょう)の城主。松永久秀(まつながひさひで)殿を引き込もうとされておるのだ!」


 興奮気味に話す前久の一方で、定龍は無表情のまま。

 前久は様子がおかしいと知りながらも、話を前に進めた。

 

「今ここで上杉殿が兵を率いて京に上れば、松永殿は必ずや長慶に反旗を翻すだろう! そうなれば晴れて京から三好の旗が駆逐され、上様のご威光は完全に元の輝きを取り戻すことになる!」


 最後まで言い切った前久の顔に満足の色が浮かんだ。

 謙信がちらりと定龍の顔に視線をやる。

 それを受け取った定龍は、小さくうなずいた。

 

「近衛様。まことに興味深いお話をたまわり、ありがたく存じます」


 他人行儀な物言いに、前久の胸の中がざわつく。

 それは通り雨前に吹く冷たい風と同じような感覚だ。

 そして予感どおりに言葉が定龍の口から発せられた。

 

「しかし見ての通り、城下の整備もまだ半ば。兵の傷も完全には癒えておりません」


「つまり今は見送る、と……。これほどの好機はもうないぞ」


 そこまでで前久と謙信の会談は終わった。

 次は彼を歓待するための饗応の準備だ。

 饗応役は河田長親。彼に任せておけば、つつがなく終わるだろう。

 重臣たちは気にかけることなく各々の持ち場へと散っていった。

 いかんせん越後春日山から武蔵松山へ越してきたばかりなのだ。

 自分たちの屋敷の片づけすらままならないのだから、彼らが京からの賓客を放って忙しくするのも無理はない。

 一人残された前久は通された本丸御殿の客間から出た。

 標高三十二間(約52メートル)ほどの小高い丘に建てられた松山城。

 標高一〇〇間(約182メートル)の山頂に建てられた春日山城に比べれば、高さだけで言えば物足りないと言えなくもない。

 しかし前久は思った。

 城が建てられた山の標高は、城の権威を測る物差しではない。

 むしろ城下に広がる町へ目を配るためには、標高の低い方が優れていると考えられなくもなかろう。

 ただしそれも城の防御が確保されていれば、という前提のもと成り立つ理屈である。

 そういった意味において松山城は稀有の堅城と言ってもよい。

 西と南は市野川に囲まれ、東と北は幾重の空堀が敵の侵入を防ぐ。

 現に前久が城に入ったのは西にある門からであった。

 その小さな門をくぐれば高い山肌に囲まれた細い道。言わずもがな左右から弓矢や鉄砲玉を浴びせられれば、ひとたまりもない。その後も自然が作り出した芸術ともいえる細道が本丸のある山頂へ伸びている。

 無論、この道だけが城と外をつないでいるわけではないが、どの道もひどく険しいことには変わりない。

 すなわち松山城とは人と自然による至高の傑作と言えなくもないのだ。

 そんなことを考えながら、前久は武家屋敷が連なる平場を北へ抜けていった。

 

「お、ここか」


 蝉の鳴く頃にはまだ早いが、それでも梅雨が明けたばかりの松山は不快をもたらすにはじゅうぶんに熱い。

 空に鎮座する白い太陽と地面からわく熱気が、汗をじわりと浮かせる。喉が渇く。

 こんな思いをしてまで、部屋で過ごす退屈から逃れようとするほど前久は落ち着きがないわけではない。

 すなわち彼にはれっきとした目的があったのだ。

 

――観音堂の奥にてお待ちしております。


 しごく簡素な手紙。一見すれば流行りの恋文にも思えなくもない。

 現に前久の心はその一文で浮かれていた。

 ただし浮つく心は卑猥な下心によるものではない。

 否。考えようによっては卑猥な下心と言えなくもないか、と前久は思った。

 手紙の送り主は上杉家の絶対的な軍師、宇佐美定龍。

 同時に越後布の売り買いにおける前久の相棒である。

 さらなる儲け話がもたらされるかもしれない。

 噴き出す汗が心地よく、ひとりでに笑みが漏れる。

 かつて弘法大師が観音像を納めたとされる神聖なる岩窟を前にして、前久は人の世の面白さによる興奮で包まれていたのだった。

 

 



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