坂東決戦……血洗島の戦い⑦
◇◇
北条氏康らが夜襲に動き出した頃。
雄大な利根川に浮かんでいた何艘もの舟がゆっくりと動き始めていた。
川の流れに任せ、ゆらりゆらりと東へ進んでいる。
そのうちの一艘に宇佐美定龍の姿があった。
見れば彼の横には小島弥太郎と、上杉憲政もいる。
「どうやら上手くいったようだな」
弥太郎が声をかけると、定龍は小さく微笑んだ。
そう……。
夜襲を察知していた彼らは敵に気づかれぬように、あらかじめ用意させておいた舟で軍勢を動かしたのである。
このまま下流へと進み、小山川との合流する手前で下りた後、謙信のいる上杉軍の方へと陸路で進むことにしたのだった。
定龍は空を見上げた。
遮るものは何もない。
満天の星空だ。
その一つ一つに、彼はこの戦で死んでいった者たちの顔を重ねていた。
その中でもひときわ強い輝きを放つ星に、本庄実乃を重ねると、彼の大きなだみ声が脳裏をよぎった。
――ではこの戦が終わった後、その新たな命をこの腕で有り難く抱くとしようかのう! そして死んでいった者たちの目にも入るように、高々と掲げてやるのだ! お主らが作った命であるぞ、と! がははっ!!
定龍の心にぽっと火がともる。
「実乃殿……。そのお役目。不肖ながら、この宇佐美定龍めにお任せくだされ」
今、彼がここにあるのは、決して彼の力だけのものではない。
彼を生かそうと、そして上杉を助けようと、戦場に散っていった多くの人々の命によるものなのだ。
そうして越後で生まれた新たな命を、今度は残された者たちで命を懸けて守っていこう。
定龍の中で芽生えた使命感は、勝利への渇望へと変わっていった。
「絶対に負けませぬ。天から見ててくだされ」
定龍の瞳が今宵の星のように輝きを宿した。
そうして舟を下りた彼は、二千の兵と上杉憲政を残し、弥太郎とともに謙信のいる最前線へと急いだのだった。
………
……
北条軍の先鋒隊が利根川の河原にたどりついた後、まず目に飛び込んできたのは、脱ぎ捨てられた甲冑だった。
それを見て北条兵たちは、みな自然と口角を上げた。
なぜなら上杉兵たちは完全に油断し、甲冑を脱いで寝静まっていると思ったからだ。
暗闇の中なので、先まで見通せない。そのため、どこで上杉兵たちが眠りについているのかは分からないが、きっと石が転がっている河原から少し離れた、柔らかな土のある場所で寝ているのだろう。
その辺りは草の背丈もあるため、近くまで寄らないと分からない。
しかし、北条軍の狙いは、中州にある上杉憲政の本陣だけだ。だからわざわざ危険をおかしてまでして、上杉兵の居所をつかもうとはしなかった。
さらに言えば、憲政の本陣も灯りが消され、ひっそりとしている上に、見回りの兵も見当たらない。
「策は成ったな」
誰からともなくつぶやく声が聞こえたが、目の前に広がる光景を見れば、誰の口から出てきてもおかしくない。
しばらくたった後、最後尾にいた北条氏康が陣頭に姿を現した。
彼は先鋒隊の大将、上田朝直と伊勢貞運の二人の肩に手をあてて耳打ちした。
「では、行くぞ」
すでに川の浅い場所は風魔の忍に調べさせてある。
川べりに松田憲秀の軍団を残し、先導役の忍の後を北条本隊、上田隊と伊勢隊が続いた。
そして、いよいよ本陣を兵で囲い終えると、氏康が雷鳴のごとき大声で号令を飛ばしたのだった。
「憲政殿!! 既にお主は囲まれた!! 大人しく降参するがよい!!」
しかし……。
幕の内からは何の反応もない。
氏康は眉を潜めた。
なんとも言いようのない、もやっとしたものが胸の内を覆い始めてきたのを、彼は感じていた。
――河越夜戦のように上手くいくかのう……?
幻庵のしゃがれた声がやまびこのように脳裏に何度も響く。
それを振り払うかのように、もう一度大声を上げた。
「早く出てこい!! でなければこちらから乗り込む!!」
だが物音一つ聞こえてこないではないか。
ますます募る不安。
そうして完全に心が闇で覆われたその瞬間……。
「まさか……」
その闇から浮かび上がってきたのは……。
たった一度だけ目にした宇佐美定龍だった――。
――バッ!
勢い良く幕を開けて、刀を構えながら憲政の陣に入っていく。
しかし、そこはすでにもぬけの殻であった。
この時、彼はようやく気付いたのだ……。
「我が策……。やぶれる……」
と――。
………
……
――夜襲に備え、いつでも兵を動かせるようにしておいてくだされ。
血洗島に本陣を構えた後、宇佐美定龍の忍から告げられた伝言を、上杉謙信はしっかりと守っていた。
兵たちは傷つき、疲労も限界を超えているはずだ。
しかし、彼らの士気はまったく衰えていなかったし、休めぬ状況でも嘆いたり不満を漏らす者は誰一人としていなかった。
なぜなら彼らは知っていたからだ。
その策は『越後の星』宇佐美定龍によるものだと。
つまり彼らは謙信と定龍の二人こそ、上杉を勝利に導くと信じ切っていたのであった。
こうして夜は更けていった――。
本陣の中で、鬼のような形相で腕を組み、時を待つ謙信。
……と、そこに幕の外から小さな声が聞こえてきた。
「宇佐美定龍様が着陣いたしました」
謙信の目が薄く開けられる。
酒も入っていないのに、頬がかすかに赤みを帯びてきた。
そして一度だけ大きく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。
「ここに呼べ」
「はっ」
人の気配が消える。
それも束の間、再び声が聞こえてきた。
「宇佐美定龍にございます」
「入れ」
「はっ」
流れるような会話の後、すっと幕が上がった。
そして中に入ってきたのは、泥だらけの甲冑を着た定龍だった。
謙信の瞳から一筋の涙が流れてきたのを、彼自身も気付いていないに違いない。
それを見た定龍の瞳からも大粒の涙がこぼれ落ちてきた。
たかが半月ぶりの再会。
されど半月ぶりの再会。
二人の涙が空白の時間をすべて物語っていたと言えよう。
互いに声も出さず、ただ感情がしずまるのを待った。
しばらくした後、先に口を開いたのは定龍だった。
彼はごくりと唾を飲み込むと、震えそうになる声をおさえて告げた。
「出陣の時でございます」
謙信は静かに目を閉じた。
そして一度、二度と深呼吸をした後、低い声で答えたのだった。
「旗を持て」
「はっ!」
定龍は短く返事をすると幕の外にでた。
既にその時を予感してか、柿崎景家以下、上杉家の諸将が顔を揃えている。
定龍は彼らに向かって、力強い声で号令をかけた。
「時はきました! 今こそ戦場に散っていった仲間たちの無念を晴らす! 皆の者! 出陣!!」
「おおっ!!」
夜襲をかけてきた相手に夜襲をかける……。
前代未聞の策がついに始まろうとしていたのだった――




