坂東決戦……血洗島の戦い④
◇◇
謙信率いる軍勢が氏康の軍勢に向かって突撃を開始した頃。
「ん? 今何か聞こえなかったかい?」
顔をびっしょりと汗で濡らした弥太郎が、隣で涼しい顔をしている定龍に問いかけた。
定龍は眼前に広がる北条軍のた大軍から視線を少しだけ上に向けた。
雲ひとつない真っ青な空だ。
遠くで何羽かの鳥が飛び立っていくのが目に入ると、くすりと笑った。
そんな定龍に弥太郎が眉をひそめた。
「やい! 辰丸! 何がおかしいんだよ!?」
「いや。なんでもありません。それよりもそろそろ動く準備をしましょうか」
「動く? どこへ?」
首をかしげる弥太郎に対し、定龍はのんびりとした口調で答えた。
「南です」
「み、南!? って、敵の大軍の中を突っ切るってのか!?」
慌てる弥太郎をよそに、定龍は「ちょっとの間だけここを頼みます」と言い残して、利根川を再び渡っていった。
中洲で陣を構える上杉憲政に次の作戦を伝えるためだった。
………
……
息を整える間もなく進撃を再開した上杉謙信率いる越後の龍。
彼らの前進の前に現れたのは、無数の石つぶてだった。
――ガッ! ガッ! ガッ!
上杉軍は手や短刀でそれらを防ぎながら前を進んでいった。
一つ一つの威力は大きくないが、いくつも当たれば出足は鈍る。
そして出足が鈍れば、それまでの蓄積された疲労が一気に噴出するものだ。
そんな中、氏康の大声が響き渡った。
「投げよ! 河原から石がなくなるまで投げ続けるのだ!!」
手足ともいえる忠臣たちを亡くしたことは、既に氏康の耳にも入っている。
だが彼はあくまで冷静に、目の前の敵軍への対処を遂行していた。
突撃してくる相手の足と士気をくじくのは、言わば基本の『型』なのである。
しかし……。
「進めええええ!!」
「うおおおお!!」
上杉謙信が『軍神』と称されるのは、おおよそ常人では考えられない力を戦場で発揮するからだ。
それは俗に言う『型破り』であった。
――ミシッ! ミシッ!
越後兵たちが赤土を踏みしめる音がする。
彼らは腰まで沼につかりながら畑を耕してきた者たちばかりだ。
逆境であればあるほど前に進みたがる性質を持ち合わせている。
その上、陣頭をいく総大将の謙信が、飛び交う石を振り落としながら自分たちを鼓舞している姿を見れば、「俺も負けない」と、疲れを忘れて奮い立つのは当然と言えよう。
「いけえええええ!!」
「わああああああっ!!」
勢いは確かに鈍っている。
運悪く石が頭部に直撃して気を失って倒れた兵も少なくない。
それでも越後兵たちは士気だけは失わずに、相模の獅子の喉元目がけて突進を続けていった。
だが氏康はどこまでも冷静だった。
越後兵たちの迫りくる闘志を正しく察知した彼は、投石を続ける兵たちの背後に控えていた槍兵たちに指示を飛ばした。
「槍をかまええええい!!」
「おおっ!!」
一斉に二間半(約4.5m)の長い槍が下ろされる。
そして敵との距離がおおよそ七間(約13m)ほどにまで迫ったところで、氏康は獅子のごとき咆哮をあげたのだった。
「つっこめええええええい!!」
「おおおおおっ!!」
槍の先を少しだけ上げて前進を始めた北条軍。
対する上杉軍は短刀を腰におさめ、みな素手で猛進している。
「いけええええ!!」
氏康の一喝とともに、槍が振り下ろされた。
――ズシャッ!!
前線の上杉兵たちが槍の餌食となって肩や頭蓋を割られる音が響く。
だが謙信はまったく怯まなかった。
「せええええい!!」
――バッ!
千坂景親とともに敵軍の真っただ中に翔けていくと、小豆長光を自在に操り、ばったばったと敵兵を討ち果たしていく。
石で傷だらけの栗毛も謙信と一体となって、右に左に疾駆していた。
そしてにわかに混乱が生じたところに、龍が牙をむいた。
「うおおおおおお!!」
――ドンッ!!
腰を低くしたまま相手の膝下に飛び込んでいく越後兵。
北条軍はこらえきれない。
厚みのある陣形に大きな穴が開けられ、小山川の川岸にいる氏康まで一気に迫ってきた。
だが、これもまた氏康の読み通りであった。
「左右の翼よ!! 今だ!!」
かっと目を見開いた氏康が大声で指示すると、東西から指揮官たちの声がこだました。
「進め! 進め! 敵を包みこむのだ!!」
すると川沿いに布陣した横長の北条軍が、中央を残して東西から回り込むようにして上杉軍の左右をついた。
『横陣』から『鶴翼』への陣形変更により、上杉軍を完全に包囲する氏康の戦術だった。
左右から迫って来る三つ鱗の旗。
だが本能のおもむくままに敵を食らう上杉兵たちには目の前に迫った氏康の馬印しか目に入っていない。
――ズガガガガッ!!
ついに北条軍による左右からの攻撃がはじまった。
「があああああっ!!」
「しねえええ!!」
大乱戦となる戦場。
この辺りが『血洗島』と呼ばれるゆえんは、上杉と北条による血で血を洗う激戦が繰り広げられたからと言われている。
まさにその名にふさわしい凄惨な殺し合いが繰り広げられていた。
「引くな!! 敵の首は目の前ぞ!!」
「おおっ!!」
どんなに不利な状況であっても越後兵たちの士気は下がらない。
それどころか敵の返り血を浴びて、ますます牙をとがらせている。
一方の北条軍もまた的確に敵の急所を突き続け、氏康もまた微動だにしなかった。
迫る上杉。
攻める北条。
両軍の意地と意地がぶつかり合い、天をも血で染めていく。
そんな中だった……。
――わああああっ!!
と川の向こう側から喊声があがったのである。
謙信と氏康の視線が声がした方へ向く。
そこに名乗りをあげたのは……。
「北条幻庵なり! 殿の助太刀に参上したわい!! 皆の者! 続け!!」
「おおおっ!!」
五千の兵を率いる北条幻庵であった。
彼は西から現れた斎藤、長野の連合軍をあっさりと壊滅させると、氏康の火急を聞きつけてはせ参じたのである。
これで北条軍は一万二千。
対する上杉軍はおよそ六千五百だ。
このままではさしもの軍神と言えども、殲滅はまぬがれない。
だが、氏康のすぐ脇までやってきた幻庵は、険しい表情のまま進言したのだった。
「すぐに川の向こうに戻られよ。態勢を整えるのじゃ」
と……。